羽化
私が髪を結い直しているうちに、征之介さんがお戻りになった。残念ながらお出迎えもできず、髪も結局いつもと変わらない。
食堂へ降りると、すでにお三方が席に着いてらっしゃった。
「失礼、先にいただいている」
葡萄酒の入ったグラスを傾けて、征嗣さまが仰る。
「お待たせいたしました。どうぞお気になさらずに──……征之介さん、お帰りなさいませ」
なるべく不自然にならないように、さりげなく征之介さんにお声がけする。
「先ほど戻りました──……急なことですが、本日は父と兄の同席をお許し願いたい」
「ええ、もちろんです」
征之介さんの調子はいつもと変わらず、私もまたいつも通りの対応ができたように思う。
治嗣さまと征嗣さまがいらっしゃることによって、気まずかった空気を意識することなく済んだ。
「では改めて──二人の前途を祝して、乾杯しようか」
私のグラスに飲み物が注がれると、治嗣さまが仰った。
助言を取り入れないままいつも通りの髪型にしてしまったけれど、治嗣さまは別段何も仰らない。征嗣さまが、うまく伝えてくださったのかもしれない。
「花ノ井の仕事はどうだ?」
「問題ありません。明日以降は重森さまのもとにて、今以上に勉強させていただくつもりです」
士官学生として一区切りついたのだから、少しくらい休みを取ってもバチは当たらないだろうと思う。けれど征之介さんはどこまでもまっすぐな方だから、そういうわけにもいかないようだ。
「これからは藤峰と、そして花ノ井を背負う者として精進したまえ──……品子さん、征之介をよろしく頼むよ」
「こちらこそ、です──……」
治嗣さまに見つめられると、先ほど触れられた部分が粟立っていく。今もそこに、治嗣さまの指先があるかのように感じてしまう。
「できたお嬢さんだ。騒ぎがあったばかりなのだから、しっかり守ってやりなさい」
「ああ──後始末に不備はないんだろうな?」
お二人が言うのは、あの南さんの一件のことだ。昨日の、征之介さんとのやり取りを思い出してしまう。
「ええ……問題ありません。このまま私に一任ください」
「甘さは捨てろよ、征之介」
征嗣さまが言うと、征之介さんは眉を寄せた。南さんの件は征之介さんが一任されているということなのだろうか。少なくとも藤峰家側としては──。
そして征之介さんは、治嗣さまに目線を移す。
「甘さなど……とうに捨てております」
「それならいい──……せっかくの遊行が潰れてしまったんだ。改めてゆっくり遠出でもしてきたらどうだ?」
治嗣さまは微笑しながら、葡萄酒を口に運ぶ。
「……いつ何時、同じようなことが起こるかわかりません。当面の間は難しいかと」
「何が起ころうとも、彼女を守るのがお前の務めだろう?」
「──……っ」
「羽を伸ばす機会がなければ、彼女はいつまでも羽化できない──おさな妻を育てることこそ夫の役目だろう」
「──……お言葉ですが、父上……彼女には彼女の、歩む速度というものがございます」
「征之介──お前は、品子嬢に美与子を重ねているのだろう。閉じ籠めたところで、品子嬢と美与子は違う」
美与子さんの名を聞いたからだろうか、征之介さんの顔が歪む。
「違う……っ! 重ねているのは父上のほうだ、彼女を──……」
「そこまでにしろ、征之介」
征之介さんの言葉を、征嗣さまが強い口調で遮った。
「父上もです。当人の前でするような話ではない」
「ああ……その通りだ。失礼した。品子さん」
「いえ──……」
お二人の会話が意味するところが、私にはあまりわからなかった。ただ私の幼さを指摘されたということと、征之介さんの中の美与子さんの大きさだけは伝わってきた。
「そうだ征之介、たまにはこっちにも顔を出したらどうだ? 母上にもしばらく会っていないだろう」
征嗣さまが、無理に話題を変えてくださる。
「ええ……そうですね。ですが、母上も舞踏会にはいらっしゃるのでしょう? 母上が欠席では、顔合わせにならない」
「どうだろうな、さすがに出てくると思うが……父上、母上はなんと?」
「もちろん顔を出すようには言っているが、彼女は気まぐれだからね──征之介からも言っておくといい」
「ええ、わかりました──……」
征嗣さまのおかげで、二人の間に流れていた不穏な空気が薄くなっていく。
それからは誰も美与子さんについて触れることはなく、また私が中心となる話題にもならなかった。
夜が更けてお二人をお見送りする時、治嗣さまは私にあの妖しい視線を投げながら仰った。
「──……舞踏会の日を、楽しみにしているよ」
舞踏会の日──ダンスだけではなく、髪型についての悩みまで増えてしまった。お母さまが結んでくれた桃色のリボンは、幼すぎるのだろうか。けれど治嗣さまの言うとおりにするというのも、なんだか腑に落ちない。
「では……部屋へ戻りましょうか」
治嗣さまの言葉を受けて立ちすくんでしまっていると、征之介さんが私を促した。
「あ、はい……!」
別の悩みによって頭から抜けてしまっていたけれど、征之介さんと二人きりになるのは昨日の会話以来だ。
意識してしまうと、途端に気まずくなってくる。
私が言葉を探していると、ふと征之介さんが歩みを止めて私の髪に手を触れた。
「…………?」
触れた後になって、征之介さんは言い訳をするように慌てて言う。
「失礼──……お髪が少し、乱れていましたので」
慌てて髪を結い直したので、うまく整えられていなかったのだろう。
「お目汚しいたしました──……ありがとうございます」
「いえ──……そして、先ほども失礼いたしました。あなたの耳に入れるような会話ではなかった」
治嗣さまとの会話について、征之介さんは改めて私に頭を下げる。
「あなたは……そのままでいるべきだと思う。では──……また明日」
征之介さんはそれから振り返ることなく、早足で部屋へ戻っていってしまう。
明日は、踊りのお稽古のお約束をしている日だ。
治嗣さまに触れられた時はあんなにも厭な気分になったのに、征之介さんの時は少しも厭な気がしなかった。むしろ治嗣さまの跡が上書きされたように、残っていた不快感もなくなっている──……。




