荊棘
その声は、私の身体の金縛りをといてくれた。固まっていた身体を動かして、リボンを持って慌てて立ち上がる。
「征之介さ──……」
私は早く、征之介さんのお顔を見て安心したかった。けれど振り返った先に、征之介さんの姿はなく──……声の主は、征嗣さまだったのだ。
「……父上、何をなさっているのですか」
征嗣さまは苛立ちながら、広間へと歩みを進める。
「ご一緒するお約束をしていたと思ったのですが? 一人で先に行かれては困ります」
「──ああ、すまないね。早くに支度が済んだものだから」
治嗣さまも立ち上がりながら言う。征嗣さまは、私と治嗣さまの間に立ってため息をついた。
「父上……彼女は征之介の妻になる人だ。あまり無体をされては──……」
「まさか……ダンスの手ほどきをしていただけのこと。この子は私の娘になるのだから、親として導くのは当然のことだろう」
征嗣さまが私に視線を投げかける。私は恥ずかしくなってうつむいた。
「……髪が随分乱れている」
「あまりに不似合いなものをつけていたからね──そうだ、ここにも美与子のものがまだ残っているだろう? 品子嬢、あれから好きなものを選ぶといい。舞踏会に相応しい、君に似合いのものを」
「美与子の部屋はほとんど手付かずで残っていますが……征之介が何というかわかったものじゃない」
「征嗣、当主は私だ。だが──そうだね、私から品子嬢に贈ってもいい。舞踏会までに、私好みの髪飾りを贈り届けることにしよう」
治嗣さまから贈られてしまったら、私はそれをつけざるを得なくなってしまう。藤峰家のご当主であり、義理の父になる人だ──失礼は働けない。
贈られた髪飾りをつけて、舞踏会にでる自分を想像してみる。まるで治嗣さまにずっと見つめられているような、ずっと髪を撫でられているような、そんな気分になった。
「ま、征嗣さま……! 私、美与子さんの──お持ちだったというものを、拝見してみたいです。よろしければぜひ──……」
本当に美与子さんのものをお借りするつもりはない。ただどうにかこの場を切り抜けて、治嗣さまの視線から逃れてしまいたかった。
「……征之介が戻るまで、もう少し時間がある」
征嗣さまはそう言うと、私の背を押して扉のほうへと押しやった。
「美与子の部屋を案内して参ります。父上はどうぞ、応接間にてお待ちください」
「ああ、似合いのものを見繕ってあげたまえ」
治嗣さまの声を背に聞きながら部屋の外へ出ると、私はほっと肩の力が抜けていった。
「すまない、父が無礼を働いた」
「いえ、そんな──……」
「それに、がっかりさせてしまっただろう」
「えっ?」
「私ではなく、征之介を待ち望んでいたようだったから」
たしかに、私は早く征之介さんのお顔を見たかった。気まずさの残る状態をどうにかしたくて、あの嫌な夢を払拭したくて──……。
そうして征之介さんのことを、無意識に考えてしまっていたからだろうか。父上、と征嗣さまが呼びかけたあの声を、なぜか征之介さんの声だと思い込んでしまった。
思い返してみると急に恥ずかしくなって、頬が熱を帯びてきた。それを打ち消すように、遅ればせながら征嗣さまにお礼を言う。
「先ほどは征嗣さまが来てくださって、大変助かりました──……」
呼び間違えてしまうなんて、征嗣さまに失礼なことをしてしまった。
「それで──君は、美与子の部屋へ入ったことは?」
「いいえ、ありません」
緑麗荘は部屋数が多いこともあり、まだ入ったことのないお部屋もいくつかある。美与子さんのお部屋が残っていることすらも私は知らなかった。
「ここが、美与子の使っていた部屋だ」
その部屋は一階にある大階段の、すぐ横に位置していた。
征嗣さまは中に入ると、いの一番に窓を開ける。ちょうど東の庭園がすぐ目の前にあって、美しい緑と陽の光が差し込んできた。
ベッドと鏡台、そして大きな本棚などがある、整頓されたゆとりのあるお部屋だ。
「いい加減片付けなくてはならないんだが……征之介が嫌がってね。まだ心の整理がついていないらしい」
大切な肉親、最愛の妹さんを亡くしたのだから、それも当然のことだろう。
「征嗣さま……案内していただいて申し訳ないのですが、やっぱり美与子さんのものをお借りするわけには──……」
「ああ、父上の毒牙から逃れたかっただけなんだろう」
そう言われてしまうと、はっきり答えるわけにもいかない。
「髪飾りは征之介に新しく見繕ってもらえばいい。あいつも明日から時間ができるだろうから」
「……お気遣いいただき、ありがとうございました」
「いいや──ああ、これは懐かしいな」
征嗣さまは本棚から一冊手に取ると、ぱらぱらと頁をめくる。
本棚にはさまざな表題が並んでいる。流行した文芸誌や翻訳書もあれば、日記帳や教科書のようなものも見えた。
「美与子さんは、読者家だったのですね」
「あいつは身体が丈夫ではなかったからな……よく、このベッドで本を読んでいた」
征嗣さまは本を戻し、また別の本の表紙をなぞっていく。
「初めて会った日……私は君が、美与子に似ていると言った」
たしかに、あの日征嗣さまはそう仰っていた。そしてその言葉を聞いて、征之介さんは憤慨してらしたのだ。
「だが、その言葉は取り消そう。君は美与子とは違う」
「……美与子さんは、どんな方だったのでしょうか」
征之介さんには聞くことができないのに、不思議と征嗣さまには言えてしまう。
「美与子は──薔薇のような女だったよ。美しい顔をしていながら、鋭い棘を内包していた」
「薔薇……?」
東側のお庭で見た、あの紅い薔薇を思い浮かべる。
「女性は誰しもそうだろう? その美しさに惑わされていると、こちらの命が危うくなる。征之介はすっかり美与子の棘に絡め取られて、いばらでがんじがらめになっているんだ……あいつは美与子を菩薩か何かだと思っているようだが──何も見えちゃいない」
征嗣さまは、私に向き直った。
「だが君は……美与子とは違うようだ。薔薇のように美しく咲きながら、身を守る棘を持っていない。見ていて非常に危なっかしい」
「それは……私が頼りないということでしょうか」
「いいや──……案外君のような女性が、いばらを枯らす毒を持っているのかもしれないな──……」
征嗣さまが窓を閉めて、室内は再び薄暗くなる。
「……さあ、そろそろ征之介が戻る頃合いだ。ここにいては口うるさいだろうから、見つからぬうちに退散しよう」
整頓されたお部屋からは、美与子さんの人となりは伝わってこなかった。
美与子さんはいったい、ここで何を思って過ごしていたのだろう──……。




