残香
日が傾きかけてきたけれど、まだ征之介さんは戻られない。お夕食までに戻られるとは思うけれど、今晩は一緒に食事をいただくことができるだろうか。それとも、まだ私のことを避けてらっしゃるのだろうか……。
お母さまが帰ってしまってから、時間を持て余してしまっている。
鏡台に向かってリボンを整えたりしながらも、自室で時間が過ぎていくのを待っていた。
そして空が茜色になった頃、ようやく私の耳に門が開く音が聞こえてきた。
征之介さんが戻られたのだ──。
出迎えや見送りはいらないと征之介さんが言うので、いつもは私が自室から出ることはない。
けれど、今は少しでも早く征之介さんのお顔が見たかった。この時を逃してずっと避けられたままだったら──……そう思うと、私の足は玄関へと向いていた。
階下へ降りていくと、ちょうどスズさんと出くわした。
「品子さま! ちょうどお呼びにいこうと思っていたところです」
「ありがとうスズさん。征之介さんが戻られたのね」
「いえあの、それが──……」
スズさんが言い終わる前に、スズさんの後ろから影が現れる。
「──やあ、品子嬢」
そこにいらっしゃったのは、征之介さんではなくお父上の治嗣さまだった。
「治嗣さま……?」
お母さまと同様に今日いらっしゃるのだとは聞いておらず、私はあからさまに動揺してしまった。
治嗣さまは今日もとてもお美しく、身のこなしに隙がない。けれどその瞳もまた以前と変わることなく、あの妖しい眼光に見つめられると身体が固まってしまう。
「出迎えありがとう。突然伺って済まないね」
治嗣さまは口元に笑みをたたえているけれど、どうしてだろうか──私の心はざわざわと粟立ち、うまく微笑み返すことができない。
「ご無沙汰……しております、治嗣さま」
「ああ、そうだね。征之介はまだ戻っていないのかい?」
「はい。もうまもなく、お帰りかとは思いますが──……」
「では少し待たせてもらおうか。征之介の退校祝いに、たまには酒を酌み交わしたくなってね」
今日は征之介さんにとっての大切な日なのだから、治嗣さまも思うところがあったのだろう。征之介さんの妻になる身として、治嗣さまの義理の娘になる身として、そつなく対応しなくては──……。
「……もちろんです、どうぞ応接間でごゆっくりお待ちいただき──……」
「いや──ただ待っていては退屈で仕方ない……舞踏会も近いことだし、一曲お相手をお願いしようか──……本番までに、君のダンスも見ておきたい」
治嗣さまは日々舞踏会を開いているだけあって、ダンスが大変お上手なのだと聞く。その見目と相まって、治嗣さまのお相手に名乗りをあげる女性は多いのだとか──。
ダンスを習いたての私では、とてもじゃないけれどお相手として力不足だ。
「治嗣さまのお相手だなんて、恐れ多くございます。まだお稽古を始めたばかりですので……」
「そんなことを私が気にするとでも? 君はただ、私に手を重ねていればいい」
治嗣さまは私の腕を取って、あれよという間に広間へ先導する。強引な力ではなかったけれど、私はそれを振り解くことができなかった。
「治嗣さま、どうかお許しを……」
「何も怖がることはない、ただの時間潰しだよ」
レコードに針が落とされ、音楽が流れ始める。こうなっては後には引けないけれど、治嗣さま相手にうまく踊れるとは思えなかった。着替えも済んでおらず、着物に草履のままの格好だ。
「さあ──……」
治嗣さまが、私に手を差し出す。私は仕方なしにその手を取って、治嗣さまに動きを合わせた。
治嗣さまは征嗣さまのように力強く、征之介さんのようにしなやかだった。そして動きのどこをとっても美しく華やかで、私では引き立て役にもなりはしない。どんな賑やかな舞踏会においても、治嗣さまは主役にならざるを得ないだろう。
「上手じゃないか、品子」
「──……っ!」
耳元で囁くように名前を呼ばれて、驚きのあまり足がもつれる。治嗣さまはその失敗を隠すように、上手に私を導きながら続ける。
「ダンスはできないと聞いていたが、いつのまに稽古をしたんだい?」
「征嗣さまや征之介さんが、お稽古をつけてくださって──……」
話しかけられると、どうしてもそちらに気を取られてしまう。必死で音楽についていこうとするけれど、焦れば焦るほどわからなくなっていく。
治嗣さまが纏っていらっしゃる香りが、胸をざわつかせる。いったいなぜなのだろう。切なくなるような、懐かしいような、頭をくらくらさせる香りだ。
私は治嗣さまに導かれるまま、身を任せることしかできなかった。まるで操り人形のように、治嗣さまの掌の上で踊っているかのように。
「はは、息子たちよりも私を頼って欲しかったものだ」
「そんな、恐れ多くて──……」
私とは反対に、治嗣さまには余裕しか感じられない。
「そうだな、せめて私から助言をするならば──……」
治嗣さまは私の背にやっていた手を、そのまま上へと沿わせていく。背筋がぞわぞわとして、また足の動きを間違えてしまう。
そして治嗣さまは、お母さまが結んでくれた桃色のリボンに手をやった。
「これは少々、幼すぎるな」
するりとリボンがほどけて、ひらりと床へ落ちていく。
「あっ……!」
リボンを拾おうとしたけれど、治嗣さまは私を離してはくれず、ダンスを止めることができない。
「あれは、私に似合うと母が結んでくれたもので……」
「母上が──……? なるほど……可愛らしいことだ」
治嗣さまがようやく手を離してくれたので、私はかがんでリボンを拾った。
征之介さんに見てもらう前にほどかれてしまったことが、なんだかとても悲しかった。
「品子、こちらを向いてごらん」
言われるままに上を向くと、治嗣さまが今度は私の額に手をやった。前髪をかきあげて後ろに流し、そのまま私の頭を撫でる。
お母さまに触れられた時とは全く違う感覚が、私の中を駆け巡った。
「ああやっぱり……君は前髪をあげたほうがよく似合う」
治嗣さまも片膝をついて、私の顔を覗き込む。そして後ろ髪に触れながら、指をうなじへと動かした。
「うなじも、出したほうがずっといい」
まるで私の心の弱い部分に直接触れられているようで、逃げ出したいのに身体を動かすことができない。
心臓が嫌なふうに音を立て始めた。レコードが、いつのまにか終わっている。
「君もいつまでも、子供でいてはいけないよ」
今こうして触れられていること、お母さまの言葉を否定されたこと、そして征之介さんにリボンを見せられなかったこと──……全てが悲しくて、暗い気持ちに沈んでしまう。
治嗣さまの指先が、私の頬から顎へと移っていく。以前触れられた時と同じように、私は蛇に睨まれた蛙となって固まった。
ひどく優しい触れ方なのに、こんなにも美しい殿方なのに、なぜだか治嗣さまが怖くてたまらない。
会食の日のあの時も、私は治嗣さまがどこか恐ろしかった──けれどあの時は──……そう、征之介さんが助け舟を出してくれたのだ。
征之介さんのお顔が、胸の中に浮かぶ。
「──……父上!」
その時広間に、怒りをはらんだ声が響いた。




