鏡花
窓から差し込む光とともに、私はベッドから起き上がった。またあの夢をみたというのに、今朝は不思議と落ち着いている。
頬に手を当ててみるけれど、もちろんそこに濡れた跡などなく、私の身体もまたいつも通りだった。
今朝の天気は快晴で、とても雨は降りそうにない。あの夢がこれから先に起こることを暗示しているのなら──それは今日ではないのだろう。
「征之介さん──……」
昨日のやりとりの後、私たちは顔を合わせていなかった。今日は朝食もとらずにすでに外出されたらしい。征之介さんは私のことを避けている、のだと思う。
一人きりの食事を済ませたところで、スズさんがお部屋に私を呼びに来た。
「──品子さま、失礼いたします。突然ではございますが、花ノ井の奥さまがお見えです」
「えっ? お母さまが?」
何も聞いていなかったので驚いてしまう。
「征之介さまの士官学校退校にあたって、記念のお品をお持ちくださったそうです」
「ああ……そうだったの」
それにしてもわざわざお母さまが来るなんて、何かあったのだろうか。征之介さんがまだお戻りでないことは、きっとご存知のはずなのに。
「──会いたかったわ、品子!」
応接間へ行くと、お母さまは私の顔を見るなりそう言った。
相変わらず華やかで美しいお母さまのお顔を見ると、私の沈んだ気持ちもどこか癒された。
「お母さま……いったいどうなさったの? 急にいらっしゃるなんて」
「あら、聞いていないかしら? 征之介さんへ贈り物があって来たのよ」
「それは聞いているけれど……あまりにも突然だったものだから」
「征之介さんがお忙しいようで、なかなか伺うお約束ができなかったのよ。本当ならば直接お渡しすべきなのだけれど……あんまり遅くなっても失礼でしょう? もう諦めて、品子から渡してもらうことにしたの。お父さまは大切なご商談があるとかで、今日は残念ながら来られなかったのだけれど……」
「そう、だったの──……」
お父さまがいらっしゃらないと聞き、正直なところほっとしてしまった。けれど商談だなんて──南さんと同じような境遇の人を生んだりしていないかと、再び気持ちが落ち込んでくる。
私たちのために一生懸命働いてくださっているというのに、素直に感謝することができなくなってしまったなんて……私はなんて駄目な娘なのだろう。
「品子……?」
「ごめんなさい、何でもないの。あんまり急で、お母さまお一人だけだったものだから……少し、驚いてしまって」
「…………本当のことを言うとね、別に少しくらいお渡しが遅れてしまっても構わなかったの。ただ急に、会いたくなってしまったのよ」
お母さまが、私の頭を優しく撫でる。
「お母さま……私も、会いたかったわ」
実家で暮らしていたあの日々が、遠い昔のように感じられる。ベッドで寝ることにもすっかり慣れて、今では緑麗荘の自室の天井にも親しみを覚えているくらいだ。
けれどこうしていると、昔のように甘えた気分が戻ってきてしまう。
「品子、今度のお食事会ではどんな恰好をするの? もう決まっているのかしら?」
「征之介さんがドレスを仕立ててくださっていて……もう間もなく届きますから、それを着る予定です。以前お父さまからもらったものは、少しくたびれてしまって」
「まあ、あなたが洋装を…‥?!」
お母さまは驚いた様子でらっしゃる。以前は洋装などほとんど袖を通さなかったので、当然かもしれない。
「ええ──……踊りのお稽古もしております。当日、うまく踊れるかはわからないけれど」
「──……あなたがダンスを……!」
雪子さんをはじめ、多くの級友たちはダンスのお稽古をしていた。諸外国との社交のためには必要になってくるのだと、ご両親から勧められたそうだ。
けれどお母さまは私に、強いてダンスを習うようには言わなかった。私が身体を動かすことがそこまで好きではないのだと、ご存知だったからだろう。
「品子……ダンスなんてしなくても構わないのよ? 表向きは舞踏会だけれど、主役はあなたたちなんですもの。あなたと征之介さんは主催者として、参加してくださった方たちにお礼を言うだけでも──……」
「いいえ、お母さま──私は、踊りたいと思っています。せっかく一生懸命お稽古を重ねて、少しずつ出来るようにもなってきたのだし──……それに、征之介さんや征嗣さまもお力添えをしてくださっていて……」
そう──ここで諦めてしまっては、お二人に申し訳が立たない。征之介さんに並びたいのだと、自分で言った言葉に責任を持たなければ。
「品子……あなたも、成長したのね」
お母さまは納得するようにそう呟くと、私を抱き寄せ再び髪を撫でた。
「ドレスはどんなものにしたの? 相談してくれたなら、私があなたに似合うものを選んであげられたのに」
「私、洋装については何もわからなくて……仕立て屋さんに言われたものを、そのままお願いしてしまいました。えんじ色の生地で、流行りの型だとか」
「それじゃあ髪型は?」
「髪型はまだ何も……」
「ふふ、こっちへいらっしゃい」
お母さまは私を座らせると髪をほどいた。私は女学校時代からずっと束髪にしていて、編んでリボンをつけたり西洋風の髪型をしている。以前もよく、こうして髪を整えてもらっていたっけ──……。
「やっぱりあなたは、この流行の分け目が似合うわね。舞踏会の日は──そうね、こうやって流してリボンを付けたら可愛いわ。あの桃色の大きいの」
日本髪のように前髪をきっちり分けずに七三にするやり方は、お母さまが教えてくれた。巷で流行しているのだそうだ。
桜色のリボンも、お母さまが以前贈ってくれたもの──しばらくつけてはいなかったけれど、もちろん緑麗荘へも持ってきている。
「ほら、できたわ」
お母さまが手鏡を持って、私に見せてくれた。
きれいに梳かした髪を流し、上半分をまとめて桃色のリボンで留めてある。
「ありがとう、お母さま……!」
髪のことなど考えてもいなくて、当日はいつもと変わらぬ髪型にするつもりでいた。
お母さまはきれいに巻いた髪を耳隠しにして、美しくまとめあげている。上品で落ち着いていて、私から見ても大人の女性の魅力を感じる。
「駄目よ品子、身だしなみはきちんとしなくては。あなたはこんなにも、綺麗なお顔をしているのだから」
お母さまの紅い口紅が弧を描き、私に微笑む。
私もいつか、お母さまのような女性になれるのだろうか──そのためにはお母さまのように、きちんと着飾らなくてならないのだと思う。今の私には考えることがたくさんあって、なかなか気持ちに余裕がないのだけれど──……。
「こうやって品子が可愛らしい恰好をしていたら、征之介さんもきっと喜ばれるわ」
「そう、かしら──……」
このままの髪で出迎えたなら、征之介さんは何か言ってくださるだろうか。昨日から続く気まずさを、取り除くことができるのだろうか。
お母さまは、ちらちらと時計の針を気にしている。きっと、お父さまの帰り時間が気がかりなのだ。お父さまが戻られた時に、きちんとお出迎えができるようにと。
いつもお美しくて、お父さまを支えるお母さま──……互いに思い合ってる二人が、私にはとても眩しく感じた。




