薬毒
「花ノ井財閥 帝都に一大ビルヂング建設へ──予定地ついに決す 経済界の重鎮として知らるる花ノ井重森氏は昨日、かねてより計画中なりし大型ビルヂングの建設予定地が決定した旨を発表せり。建設着手の遅延を取り戻すべく、予定地内に現存する建造物は速やかに撤去し、本年中の着工を目指すとのこと。氏はかく語りき。本ビルヂング落成の暁には帝都益々の繁栄成ることを──」
ある日の新聞に載っていたその記事に、私の目は釘付けになった。お父さまが取り組まれているお仕事についての文面だったのだ。
「予定地内に現存する建造物は速やかに撤去し──……」
この一文は私に、ある人物を思い起こさせた。お父さまの事業によって土地を明け渡すことになり、その意趣返しとして私を手にかけようとした人──南さんのことを。
征之介さんから話を聞いた後、私は長らく答えを出せずにいた。かの人を許すべきか許さざるべきか、お父さまのお仕事をどのように受け止めるべきなのか──。
私はずっと逃げていたのだ。征之介さんから無理に聞き出したというのに、事実と向き合うことが怖くて目を逸らしていた。征之介さんの庇護のもと、私は変わらぬ日々を享受してしまっていたのだ。
それでも自らの業から逃れられるわけはなく──私はこうして、紙面と向き合うことになった。
この「現存する建造物」の中に、南さんのお店も含まれているのだろうか。もしも含まれていなかったとしても、同様に納得しないまま立ち退かざるを得なかった人もいるかもしれない。
私にできることは、何もないのだろうか──……。
「──……足の具合はいかがでしょうか?」
夕食時、征之介さんが私に問いかけた。
「お気遣いありがとうございます。傷口も目立たなくなりましたし、すっかり痛みもありません」
お稽古をお休みしてから洋靴も控えているので、足の調子はとても良い。感覚を忘れてしまっていないといいのだけれど……。
「わかりました。では明後日以降、稽古を再開いたしましょうか」
「よろしいのですか……?」
「ええ──明日付けで士官学校を退校いたしますから、少々時間に余裕ができます」
征之介さんが士官学校をお辞めになるということは、本格的に花ノ井家の事業に携わるということだ。私たちの婚姻が、すぐそこまで迫っている。
婿入りにあたって、征之介さんはかなりの労力を割いてくれていると思う。学校のない日はお父さまについて教えを受け、空いた時間には新聞や本を読み勉強なさっていらっしゃる。そしてこれからはきっと、今まで以上に花ノ井家のために尽力されるおつもりだ。
「士官学生としての日々、大変お疲れさまでございました。花ノ井のために卒業前にお辞めする形になってしまって、とても心苦しくはあるのですが……」
「退校など、私にとっては大したことではありません。あなたのほうこそ……不快感をお持ちでしょう」
「え……?」
「したくもない結婚のために、無理やり学校を辞めさせられたのですから──……」
「そんなことは──……いずれ結婚しなければならないと、わかっていたことですから」
たしかに急なことで驚いたけれども、私が婚約話に後向きだったのはあの夢が原因だ。あの夢をみることがなければ、何の疑問もなく女学校退校を受け入れられていただろう。
あの夢をみる前と後で、私の運命は大きく変化したのだと思う。それが良いことなのかどうなのかはわからないけれど、間違いなく言えることがある。
「征之介さんは、私にたくさんのことを教えてくださいます──変わらず女学校に通っていたら、知り得なかったことばかり」
私はお父さまとお母さまに守られて、ただ幸福に生きていた。まさか誰かから殺意を向けられることがあるなんて、思ってもみなかったのだ。殿方の掌が、あんなにも力強いだなんて知らなかった。その掌は恐ろしくも、優しくもなるのだということも。
もしも婚約相手が征之介さんでなかったら、私に花ノ井家の事業の裏側を教えてくれただろうか? そもそもあの時、身を挺して私を助けてくれただろうか? 私は自らの家の事業について、自らの業について、こんなにも深く考えることがあっただろうか──。
「だから……征之介さん、ありがとうございます。私と婚約してくださって」
あんなにも嫌だった婚約話だけれど、今はなぜだか素直にそう思えた。
「何を……仰るのですか」
征之介さんは私の言葉に、ひどく衝撃を受けたようだった。
「あなたには……私を恨む権利がある」
「恨む権利だなんて、そんなものはいりません」
征之介さんは私のことが嫌いなのだろうけれど、私は征之介さんを嫌いにはなれないのだ。たとえ夢で私を殺めようとも、現実の征之介さんの真摯さは疑いようのないものだから──……。
「ただ──……征之介さんはあの日私に、知る権利があると仰ってくださいましたね」
──たしかに……あなたには知る権利というものが、あるのかもしれない。
南さんが私を刺そうとした理由を尋ねた、あの時だ。
「あれから、南さんはどうされているのでしょう……私に知る権利があると仰るならば、教えてはくださいませんか」
「なぜ急に……そんな話をなさるのですか」
そして征之介さんは、控えていた佐々部さんに視線を投げる。
「今朝の朝刊はあなたの目に触れないよう命じていたが──……何か不手際があったようだ」
あの日以降征之介さんは、そのことについての話題を避けていた。新聞記事についても、私の目に触れることのないよう気を回してくださっていたようだ。
佐々部さんは悪びれていない顔で、平然と応える。
「おや……申し訳ごさいません。私の不注意でございました」
「…………読んでしまわれたなら仕方ないですが──……あのビルヂング建設計画は滞りなく進んでいますから、あなたが余計なことを考える必要はありません。南氏につきましては拘束後監視下に置かれていますから、もうあなたに危害を加えることはないのでご安心ください」
「では……南さんにお会いして、お話しすることはできるでしょうか」
「……何と?」
「私……あの日から色々なことを考えました。私はどうするべきなのか、いったい何ができるのかと。それでも……答えは出ていません。ですから今は出来ることを……南さんと一度、直接お話ししてみたいと思ったのです」
「話したところで、いったい何になると言うのですか。あなたへの恨みつらみを聞きたいと? しかし聞いたところで、あなたには何もできない。もう契約は完了しているのです。今更建設計画を取りやめにして契約を破棄するなど、出来はしません」
「それは承知の上です! でも──……」
「いいえ、あなたは何もわかっていない!」
征之介さんは席を立ち上がり、強い声でそう仰った。
「あの者は復讐のために、何の罪もないあなたを犠牲にしようとした──……そんな自分本位な人間に、あなたの情けは毒にしかならない!」
「──……この気持ちは、情けなんかじゃありません。南さんとお話してみたいという──ただの、私の我儘です」
そう、私の我儘だというのはわかっている。それでも私は自分の中の思いを止めることができなかった。私はいつのまにか、とても我儘になってしまっている。それとも、相手が征之介さんだからなのだろうか。
「征之介さんはあの時、名前を聞いてすぐに南さんだと思い当たってらっしゃいました。征之介さんも……何か思うところがあったからではないのですか?」
「……私は重森様の跡目として、できる限りのことを把握していただけです。そこに他意はありません」
「私には……そうは思えませんでした。私はまだ妻として未熟者ですが、目指すところはございます。お母さまのように夫を立てて陰ながら支え──雪子さんのようにお仕事のお助けも出来るような……そんな妻に、なりたいのです。ですから征之介さんと分かち合えるものがあるならば──……」
「やっぱりあなたは──……何もわかっていない」
私の言葉を遮って、征之介さんは酷く冷たく呟いた。
「私はそのようなこと、望んでなどおりません」
「征之介さん──!」
私の呼ぶ声を無視して、征之介さんは部屋を出ていってしまう。
全てを突き放すような征之介さんの言葉に、私の心はひどい後悔の念に襲われた。自分の気持ちばかりを押し付けて、征之介さんに嫌な思いをさせてしまった──……。
「……奥さま、何か温かいお飲み物をお持ちいたしましょうか?」
一人取り残された私に、佐々部さんが気を遣ってくれる。
「いいえ……結構です。佐々部さん──……私にあの記事を読ませてくださって、ありがとうございました」
「主の命に背き、出過ぎたことをいたしました。奥さまは征之介さまにとって毒ではなく薬になるだろうと──……僭越ながら、そう判断してのことでございます」
「征之介さんにとって……?」
「はい。奥さまどうか……征之介さまをお救いください」
佐々部さんは、それ以上何も言わなかった。佐々部さんが言うことの出来ない何かを、征之介さんは抱えていらっしゃるのだ。
あなたの情けは毒にしかならない──……征之介さんのあの言葉には、どのような思いが込められていたのだろう。




