一歩
雪子さん夫婦との会食はつつがなく終わり、寂しいけれどお別れの時間が迫ってきた。
「改めまして本日はお招きいただき、心より感謝申し上げます。とても楽しい時間でした」
「それはこちらの台詞です、蔵沢夫人。有意義な時間を過ごすことができました」
征之介さんは雪子さん夫婦とはそつなく会話を重ねていくので、これまでの日々を思うとなんだか悲しくなってしまう。
「訪ねる前までは緊張していたのですが、藤峰殿が想像していたよりも親しみやすいお人柄だったもので肩の力が抜けてしまいました。何か粗相があったら申し訳ありません」
蔵沢さんは朗らかに言うけれど、そう言うご自身もとても親しみやすい方だった。記者としての対外的な一面なのかもしれないけれど、雪子さんが好意的に思っているのもうなずける。
そして、蔵沢さんは続けた。
「藤峰殿は、お父上とはあまり似てらっしゃらないのですね」
「父と……ですか?」
「ええ、もちろん見た目は似てらっしゃいますが──……なんと言うんでしょうか、雰囲気や印象が違っておいでだ」
たしかに私も治嗣さまに初めてお会いした時、蔵沢さんと似たようなことを思った。あの日の治嗣さまの視線と掌を思い出すと……いまだに少し身震いしてしまう。征之介さんのものとは全く違った。
「とは言え、藤峰卿との面識はあってないようなものなんですがね。別件の取材をしていた時に、運良く少しお話しする機会があったんですよ。して、藤峰殿はお母上似でらっしゃるんですかな?」
征之介さんのお母さまに、私はまだお会いしたことがない。以前の会食の時もお越しにならず、それ以降もお会いする機会がなかった。
早くご挨拶をしなくては、とは思ってるのだけれど、舞踏会の日が初対面になってしまいそうだ。
「さて──……両親どちらに似ているのか、自分ではわかりかねます。あえて言うのであれば、私は教育係に似たのでしょう」
征之介さんは佐々部さんに目線を投げた。たしかに征之介さんの丁寧な所作は、佐々部さんを彷彿とさせる。私が幼少期およねさんに面倒をみてもらったように、征之介さんは佐々部さんが教育係だったのだろう。
「なるほど、左様でしたか──……しかし藤峰卿の奥方ともなれば、大層お美しいのでしょうね。ぜひ一度お会いしてみたいものです」
「──……それは記者として、という意味でしょうか?」
「まさか……庶民によるただの興味本位ですよ。もっとも藤峰家の方々にお話を聞けるのであれば、それは願ってもないことですが──……」
蔵沢さんはそこで言葉を切ると、雪子さんを見ながら言う。
「妻の大切な友人のご親族について、あれこれ記事にするわけにはいきませんよ」
「……あの帝都新聞創刊者の言葉とは思えませんね。それは御社の報道精神に背くのでは?」
「はは、買い被りですよ。身を固めたからには家庭も顧みなければ……昨今の女性、特にうちの妻は怒ると何をしでかすかわかりませんから」
「あら、どういう意味なのかしら? 失礼なことを言っていないで、そろそろお暇しなくては。藤峰さま、今日はありがとうございました。品子さんも……またぜひ、近いうちに会いましょうね」
雪子さんはどこか張り詰めた空気を壊すように、そう切り出した。
そして帰り際、そっと私に耳打ちした。
「品子さん、近頃はよく眠れている……?」
そういえば、このところはあの悪夢をみていない。雪子さんに相談してから、夢は夢なのだと心の中で思えるようになったのだろうか。
「ありがとう、おかげさまで近頃はぐっすりよ」
「良かったわ。あまり考えすぎないように、ね」
緑麗荘を後にする二人を見送りながら、今日雪子さんに言われたことを反芻した。
本音では、このままずっと雪子さん夫婦がいてくれたら良いのに──とも思う。そうしてくれたなら征之介さんはずっと人当たりが良いままで、沈黙に悩むこともない。
けれどもそれは叶わないことで、私は私にできることをしなくては──……。
「征之介さん、今日はありがとうございました」
「いいえ、私にとっても有意義な時間でしたから」
征之介さんは相変わらず私のほうを見ずに、蔵沢さんにも言っていた言葉を繰り返す。
「……征之介さんは、帝都新聞を購読なさっているんですね」
お父さまは食卓で読んでいらっしゃったけれど、征之介さんは食事が終わるとすぐお部屋に戻られる。読んでいるお姿を見たことがなかったので知らなかったけれど、蔵沢さんとの会話からして以前から熟読されていたようだ。
「士官としても商売人としても、時事情報は必要ですから」
「では──……これからは私も、拝読してもよろしいでしょうか?」
「それは……なぜでしょう?」
「私も──……知りたいと、思ったのです」
征之介さんのことを、もっと知りたい。征之介さんが日々どんなことをされているのか、どんなことに興味を持っているのか──少しずつでも、知っていきたい。征之介さんの妻として、きちんと横に立てるように。何もしないで、今日のように気を遣われてばかりいたくはない。
「……好きになさるといい。佐々部に伝えておきましょう」
征之介さんは許可をくださると、背を向けて部屋へ戻られた。
今の私には本当に小さなことしかできないけれど、いつかあの背に追いつけたなら──……そう思った。
征之介さんが言ってくれた通り、その日からは佐々部さんかスズさんが新聞を部屋に持ってきてくれるようになった。
そして紙面を広げていくうちに──私は逃げることのできない自分の業に、改めて向き合うことになるのだ。




