期日
「────…………」
夕食の時間、征之介さんはいつにもまして難しい顔をしていた。
気まずい沈黙が、私たちの間を流れていく。
征嗣さまは私に意味ありげな視線を残して、あの後すぐに帰られた。征之介さんは征嗣さまをお見送りしてから、ずっと黙ったままでいる。
お二人の会話を立ち聞きしていたと言うわけにもいかず、私も何を話していいのやらわからない。征之介さんはやっぱり、まだ怒っていらっしゃるのだろうか──……。
先ほどは出過ぎたことを言って、申し訳ありませんでした──。
黙っていて申し訳ありません。征嗣さまにダンスのお稽古をつけていただいていたんです──。
お言葉に甘えてしまった私が悪かったのです。征嗣さまは悪くありません──。
美代子さんと私の間には、いったいどんな繋がりがあるのですか──……?
頭の中では征之介さんに言いたいことがたくさん浮かぶけれど、どうしても口に出すのがためらわれる。
もしもまた、先ほどと同じ台詞を言われてしまったら──……。
──あなたの意見は聞いておりません。
征之介さんに言われたことを思い出すと、心臓のあたりがぎゅっと苦しくなった。酷く気持ちが沈んできて、とても食事をとる気分にはなれない。
料理人の方々には申し訳ないけれど、今日は夕食の大半を残してしまった。
そして私が征之介さんに何も言うことができないまま、どんどん夕食の時間が過ぎていく。
「……ごちそうさまでした。では、私はお先に失礼いたします──……」
型通りの挨拶をして自室に戻ろうと立ち上がると、重ねて征之介さんも立ち上がった。
「──……先ほどは、申し訳ありませんでした」
私に向かって頭を下げて、真摯な声でそう仰る。
「や、やめてください……! 頭をあげてください、征之介さん」
慌ててそう言うと、私に向き直って続けた。
「私の思い込みで、あなたに対して失礼な言動をとってしまいました。あなたは舞踏会に向けて稽古をしていたのだと、兄が私に教えてくれました」
「そんな……謝るのは私のほうです。征之介さんに何も言わないまま、勝手なことをして──……」
「あなたは……舞踏会に出たいのですか?」
舞踏会──そもそも結婚自体に前向きではないのだから、そのお披露目の食事会だなんて当然乗り気にはなれない。そのうえ苦手な洋装で踊るなんて……。
けれど征之介さんが舞踏会を取りやめると言った時、私はなぜか動揺してしまった。喜んでその提案を受け入れてしまえば、もうお稽古もしなくて済んだというのに。
もしもこのまま舞踏会が取りやめになったなら、外聞はどうなるだろうか──案内も済んでいるのに急に予定を変更したなら、何か不都合があったのかと勘繰る人が出てきてしまう。藤峰家と花ノ井家の家名が、私のせいで傷ついてしまうかもしれない──……。
私はなぜお稽古を始めたのだっけ? そう、征之介さんたちに恥をかかせたくはなかったから──……ここで征之介さんの気遣いを受け入れてしまっては、全てが駄目になってしまう。
「私……私は、舞踏会に出たいです。たしかに洋装も踊りも、まだまだ見苦しいかとは思います──……ですがここでお言葉に甘えてしまっては、私はいつまで経っても征之介さんの妻になることができません」
征之介さんと結婚したなら、夫婦として舞踏会に招待される機会も増えるだろう。治嗣さまはこれからも度々舞踏会を開催されるであろうし、藤峰家は社交的で顔が広いのだから。
思えば社交の場が苦手なお父さまに代わり、お母さまはよく舞踏会に顔を出していた。舞踏会でいろいろな方と親睦を深めることは、妻としての大切な役割の一つなのかもしれない。
「征之介さんの妻として、隣に並んでも恥ずかしくないように……踊りのお相手を、きちんと努められるように──……私、もっとお稽古を重ねます。ですから──……」
そこまで言って、私は征之介さんがなぜか苦しそうな顔をしていることに気がついた。夢の中で私を手にかけている時のような、ひどく悲しくて痛ましい顔だ。
「あの、私──……」
またわがままで征之介さんを困らせてしまったのかと、慌てて謝罪をしようとした。けれど征之介さんは私が言葉を続ける前に、ふうっと息を吐いて言った。
「──……わかりました」
「えっ……?」
「あなたの意志を尊重します。うまく務まるかはわかりませんが、これからは私が稽古の相手もいたしましょう」
征之介さんはお優しいから、思っていた通りお稽古の相手を申し出てくださってしまう。私の気持ちを汲んでくださったのは嬉しいけれど、征之介さんを煩わせるのは本意ではないのに。
「私が稽古相手では、不足ですか?」
「そんな……! そういうわけではございません」
「では……明後日の午後であれば都合がつけられます。ご都合はいかがですか?」
「でも、征之介さんはお忙しいのに──……」
「舞踏会に出るのであれば、きちんと稽古を積まなければなりません。当日初めて踊る相手と、あなたは歩幅を十分合わせられますか? もうひと月を切っているのですから、衣装合わせもしなくては」
「衣装……!」
征之介さんに言われるまで、衣装のことが頭から抜けてしまっていた。私は洋装を一着しか持っていないのだ。その一着をお稽古着にしてしまったものだから、ずいぶんくたびれてしまっている。
「私ったら踊ることばかり考えていて……これから急いで仕立てます。お恥ずかしながら、洋装は先ほど着ていたものしか持っていなくて……」
馴染みの貿易商に押し売りされたのだと言いながら、お父さまが以前贈ってくれたものだ。呉服店なら行きつけがあるけれど、洋装の仕立て屋には直接のつてを持っていない。
お父さまにお願いしなければならないのかと思うと、再び気分が重くなってくる。
「ご実家で仕立ててくれているのでは?」
「どうでしょうか……父はそういったことに疎いですし、母は洋装嫌いですから──……」
洋装は胸が苦しくなってしまうのだと、お母さまは家ではいつも着物姿だ。私もそれに倣って、着物ばかりたくさん誂えてもらっていた。
征之介さんは少し考え込んでから、佐々部さんを呼んで何事かを伝えた。
「明日、懇意にしている仕立て屋を呼びます。今からなら、どうにか期日に間に合うでしょう」
「本当に、何から何まで──……申し訳ありません」
とてもありがたい申し出だけれど、同時にとても心苦しい。征之介さんにも征嗣さまにも、頼ってしまってばかりだ。
「あなたが謝る必要はありません。その日が来るまでは──……私たちは、婚約者なのですから」
「はい──……ありがとう、ございます」
その日が来るまで、という言葉が、なぜか私の胸にひっかかった。
私たちは婚約をしていて、舞踏会の日にそれを公にする。その頃には華族の婚姻手続きも済むだろうから、その日から公私ともに夫婦として歩んでいく──その日は、舞踏会の日のことを指しているのだろう。
何もおかしなことはない──征之介さんの言う通り、私たちは今婚約者という間柄だ。そして、私たちは舞踏会を経て正式に結婚する。
その日までに、何かが起こったりしなければ。




