表裏(二)
私は調理場から戻ると、扉の前で逡巡していた。あまり遅くなってはおかしいのに、先ほどの征之介さんの言葉を思い出すと身体が固まってしまう。
──あなたの意見は聞いておりません。
初めてお会いした時よりも、さらに冷たく感じた征之介さん。今部屋に戻ったところで、きっと快くは思われない。征之介さんの気に障ることを、私が何かしてしまったのだ……。
スズさんは冷たいお茶を淹れてくれていたので、温かいお茶を淹れ直すようにお願いした。それほど時間はかからないだろうから、スズさんを待って一緒に部屋に入ることにしようか──そう思うと、少しだけ緊張がほぐされた。
そうして気が緩むと、室内の会話が耳に入ってきた。
「……だいたい、父上は何と仰ったんだ」
「直接お話しできなかったので、言伝てを頼んでまいりました」
「理由もなしに今更舞踏会をやめるだなんて、父上が認めると思うのか?」
「説得します」
聞き耳を立てているようで申し訳ないのだけれど、二人の会話からしてさらに中に入りにくくなってしまった。
「……征之介。わけのわからない我儘ばかり言っていないで、少しは品子さんのことも考えたらどうだ」
「彼女のことを思うなら──……それこそ舞踏会は中止すべきでしょう」
「なんだって?」
「──…………」
征之介さんは黙ったままだったけれど、征嗣さまはさらに詰問した。
「お前が舞踏会をやめるだなんて言い出したのは、品子さんが理由なのか? 彼女が嫌だと言ったのか?」
「……彼女は何も言っておりません。だが態度には出さずとも、舞踏会など出たくはないでしょう」
「なぜそう言い切れる?」
征嗣さまの問いに耐えかねたのか、征之介さんはまたしばらくの沈黙の後に口を開いた。
「──……彼女は舞踏会に出たことがありません。ダンスが出来ないでしょうし、そもそも洋装に慣れていない。短時間の洋靴で足を痛めるくらいですから」
初めて治嗣さまと征嗣さまにお会いした、あの会食の日──征之介さんが、私の足を気にかけてくれたことを思い出す。
慣れない洋靴で痛めてしまった私に気づいて、歩幅を合わせてくれた征之介さん──……。
ダンスのお稽古を重ねて、痛む洋靴にも慣れつつある。お稽古に集中している時は痛みも感じにくい。それでもいつの間にか、踵はすっかり傷だらけだ。
「……それが、舞踏会を取りやめにしたい理由か」
「──…………」
何度目かわからない、征嗣さまのため息が聞こえた。
「お前たちはもう少し、対話というものをすべきだ。夫婦としての先が思いやられる」
「兄上に言われる筋合いはありません。そもそもまだ夫婦ではなく、夫婦になるかもわからない──……話を戻しましょう──私は彼女が洋装に慣れてはいないと思っていましたが、そうではないようだ。二人揃って、このところいったい何をしていたのです?」
「……何が言いたい?」
「彼女は《《彼ら》》とは違うのではないかと、そう思いはじめていた──……だがもしも兄上と──……」
「馬鹿なことを言うな。俺をあんなふしだらな奴らと一緒にするのか? 反吐が出る!」
征嗣さまは、今までになく感情を露わにした。そして勢いのままに、征之介さんに隠していたことを言ってしまわれる。
「彼女が何をしていたか? それはもちろん、舞踏会に向けての稽古さ」
「…………何ですって?」
「だから、ダンスの稽古だよ。征之介には下手なところを見せたくない、征之介の時間を奪いたくはないと言うから、代わりに俺が指導役をかってでたんだ。最初はとにかく酷かったが、近頃はだいぶ見られるようにはなった。俺の指導の賜物だな、感謝しろ」
「なぜ……わざわざそんなことを」
「決まってるだろう。お前の妻として、お前に恥をかかせないためだ。急ごしらえの夫婦だが、愛に溢れた良い女を選んだじゃないか」
私は頬がかっと熱くなった。愛だなんて、そんな大業な気持ちからお稽古を始めたわけではない。
ただお父さまやお母さま、征之介さんに恥をかかせたくはなかったから──そして征之介さんの隣で踊っても、恥ずかしくないくらいになりたかったから──……。
「征之介──……俺たちは似ていないから、お前が何をしようとしているのはわからない。だがきっと、お前の考えていることは不毛だ──……もう美与子に縛られるのはやめろ、何も知らない品子嬢が不憫じゃないか」
「縛られてなどおりません。ただ……ただ私は、彼らが許せない──……!」
「いいか征之介、美与子は──……」
廊下の奥から、スズさんがお盆を待ってやってくる姿が見えた。私は慌てて扉から離れて、静かにスズさんのほうへ向かう。
紅潮した頬と高鳴る心臓を、どうにか鎮めなくてはならない。
征嗣さまの言葉の意味が、私にはわからなかった。征嗣さまの言うとおりに、私は何も知らない──……私と美与子さんに、いったい何の関係があるのだろう。
征之介さんという人が少しわかってきたように思っても、またわからないことが増えていく──……。




