稽古
「そうです、姿勢を保ったまま……そのまま前に足を出して……」
スズさんの指示通りに、私は身体をあちこちに動かした。
右左右、そしてさらに前に行ったり後ろに行ったり……音楽についていくのに精一杯で、所作を気にする余裕もない。
「少し、休憩いたしましょうか」
蓄音機を止めて、スズさんが私に飲み物を注いでくれる。
「ごめんなさい……こんなことに付き合わせてしまって」
「とんでもありません、お役に立てれば良いのですが」
私はスズさんに頼み込んで、ダンスのお稽古をしていた。食事会とともに舞踏会が開催された場合に備えて、少しでも早くにお稽古を始めておきたかったのだ。
もしも舞踏会が開かれなかったとしても、これから藤峰家と縁続きになるのだから、身につけておくに越したことはない。
ダンスの師匠がいない私は、自己流で一からはじめなくてはならない。お父さまやお母さまに頼めばどなたか紹介してもらえたであろうけれど……しばらくはそんな気になれなかった。
そして新婚の雪子さんにお願いするわけにもいかず、私が頼れるのはスズさんだけだった。
スズさんは何度か舞踏会の準備や給仕の経験があり、そして文字も読める。最初は固辞されてしまったけれど、頼み込んでどうにかお稽古に付き合ってもらえることになった。
スズさんは佐々部さんに頼んで、ダンスの教本とレコードを借りてくれた。そしてその教本を片手に、私の動きを確認してもらっているのだ。
「舞踏会というのは、どんな雰囲気なんでしょう」
「そうですね……とにかく、とても華やかでございます。衣装ももちろん音楽も賑やかで、初めて給仕をした時には別世界のように思われました」
「そんなに……」
話を聞く限り、舞踏会というものは私にはとても不釣り合いに感じてしまう。治嗣さまやお母さまのように華やかな方や、征之介さんくらいの美丈夫なら気後れすることもないのだろうけれど。
あの方たちに混ざって踊るだなんて、本当に私にできるのだろうか……。
「品子さま、今日はここまでにいたしますか?」
「……もう少しだけ、お付き合いいただいても? 征之介さんが戻られるまで、まだ時間がありますから」
けれど、泣き言を言っている時間はない。食事会はひと月後のうえ、征之介さんが士官学校に出ている間しかお稽古できないのだ。
征之介さんの負担になるわけにはいかないので、お稽古をしていることは隠しておきたい。そしてそもそも、こんな不格好なところを見られたくはない。
「もちろんです。では、もう一度音楽を流しますね」
蓄音機から音楽が流れ、私はもう一度動きを繰り返す。
右左右、そして後ろに周って……軽やかな音と反対に、私の動きはひどく鈍い。西洋の音楽はなんだかとても速く感じて、着物の裾が乱れそうになってしまう。履き慣れた草履ですらこれなのだから、西洋の靴で上手に踊れるようになるには、どれだけ時間がかかるだろう……。
そうして失敗を繰り返しながらも続けていると、音楽の合間に扉を叩く音がした。突然の来訪者に、私とスズさんは驚いて顔を見合わせた。
征之介さんが戻る時間にはまだ早いはずなのに──私は慌てて着物の裾を直して、額の汗をぬぐった。
「──……失礼する」
けれど、扉の先にいたのは征之介さんではなかった。
「ご……ご無沙汰しております、征嗣さま」
征嗣さまは初めてお会いした日と同じように、少し乱れた髪型に着こなしだった。
「これは……ワルツか?」
つかつかと蓄音機まで歩いて行くと、征嗣さまは呟いた。
私は慌てて音を止めて、征嗣さまに言い訳をする。
「そ、騒々しくして申し訳ありません──……スズさんとレコードを聴いていて……」
征嗣さまがスズさんのほうを見たので、スズさんは慌ててダンスの教本を後ろに隠した。けれど征嗣さまはその動きを見逃さずに、あっという間にそれを取り上げてしまった。
「……なるほど」
流れる音楽と教本から、私たちが何をしていたのか察してしまわれたのだろう。私は頬が真っ赤になってゆくのを感じた。
「舞踏会に向けて稽古をしていたというわけか……邪魔をして申し訳ない」
「とんでもありません、私のほうこそ失礼を……本日お越しになると、存じ上げていなかったものですから──……」
「いや、急に訪ねてしまった私が悪い。すまない、まだここが別宅だという気分が抜けていなくてな……征之介に会うつもりだったんだが、あいつはまだ戻らないのか? 相手がいなくちゃ、稽古にもならんだろうに」
「征之介さんはお忙しい身ですから、お稽古をお願いするわけにはまいりません。それに──……」
「それに?」
ただでさえ恥ずかしいというのに、征嗣さまは私の目をまっすぐに見つめてくる。征之介さんとは、そんなところも全然違う。
「……それにその……私は踊りがうまくありませんので、お稽古しているところをお見せしたくはなくて──……ですので出来れば、征之介さんには内証にしていただけたら嬉しいのですが──……」
私が恥ずかしさからうつむいていると、征嗣さまは無言のまま歩み始めた。そして蓄音機の前に立って、再び音楽を流す。
「…………?」
スズさんと顔を見合わせると、征嗣さまは室内の椅子にどかりと座って言った。
「どうぞ」
「……えっ?」
「私が稽古をつけよう、まずはステップを拝見したい」
突然そんなことを言われても、できるわけがない。征之介さんの前でお稽古をするのは恥ずかしいけれど、それは征嗣さまの前でも同様だ。
「いえあの……征嗣さまを煩わせるわけにはいきませんし──……」
しどろもどろになる私を見て、征嗣さまは言い聞かせるように言った。
「そもそもダンスは相手あってのもの、一人で稽古をしていても限界がある。この曲は簡単な練習曲だが、舞踏会当日はもっと複雑な動きが求められるし──当日恥を晒されては、うちの名に傷がつくことになる」
「あの、ではやっぱり……婚約祝いの席はただの食事会ではなく、舞踏会が開かれるの予定なのですか?」
「……聞いていなかったのか?」
征嗣さまが言うのだから、もう間違いないのだろう。私も征之介さんも知らないところで、それは決まってしまったらしい。まもなくしたら、お父さまとお母さまからも連絡がくるかもしれない。
「どうする?」
征嗣さまが重ねて問う。
お言葉に甘えてしまうのは申し訳なく、そしてとても恥ずかしい。けれど今の私には、お父さまたちとやり取りをするよりも、恥を捨てることのほうがたやすかった。
「では……お見苦しいかと思いますが、よろしくお願いいたします」
征嗣さまの視線を浴びて、緊張の中足を動かす。動きはどうにか覚えたけれど、やはり音楽にはうまく乗れていない。
「そのまま続けて」
必死に曲に着いていっている最中、急に征嗣さまが立ち上がった。曲はまだ半ばだ。
そして征嗣さまは私の手を取り腰に手を添えて、大きく身体を動かした。
「──失礼。たしかに、今のままではかなり見苦しい。だが姿勢は良いので、基本的な動きさえ身につけたら見栄えはなんとかなるだろう」
突然手を取られて恥ずかしいのだけれど、音楽が続いているので身体を止められない。頭の中は、次の動きを考えるので精一杯だ。
「まずはもっと大きく身体を動かして……そう、もっと歩幅を大きく。着物ではなく洋装で稽古したほうがいい。それから、ここのステップでリズムがずれている。しっかり音楽に耳を傾けて──……」
征嗣さまは私に指示を出しつつ、身体を支えて正しい方へ導いてくださる。征嗣さまはとてもダンスがお上手で、乱れた髪や服装とは裏腹に、整然とした足捌きでらっしゃった。
たしかに一人では摑むことのできなかった動きで、なんとなくダンスらしい様相になってきた気がしてしまう。
その日はそれからも何度か曲を繰り返し、征嗣さまは私にお稽古をつけてくださった。
征之介さんの隣で踊っても恥ずかしくないように──私は余分なことを頭から追い出して、ただただ音楽に集中した。




