理由(二)
「──大事がなく何よりでした」
「ありがとうございます、あの時征之介さんが助けてくださったおかげです。私、すっかり動転して気を失ってしまったようで……本当にご迷惑をおかけいたしました」
「お気になさらないでください。あんな目に遭ったのですから、当然の反応でしょう」
部屋まで来てくれた征之介さんは、いたって落ち着いていた。私が呼びつけてしまったことを嫌がる風でもなく、先ほどの災難に疲弊している様子もなかった。
「あの……いったい、何があったのでしょうか」
だんだんと頭がしっかりしてきて、記憶にかかった霧が晴れつつある。突然の衝撃、地べたに落ちた小刀、私を憎む瞳──あの時征之介さんが助けてくださらなければ、私は間違いなく夢の中のように殺されてしまっていただろう。理由もわからないままに──……。
征之介さんがふと、私の肩に手を乗せた。
いつのまにか、私の身体は震えていたのだ。先ほどの出来事が思い出されて、無意識に身体が恐怖している。
「……あの場で起きたことが全てです。あなたは災禍に見舞われたが、大事に至ることはなかった。暴漢はあの後連行されていきました。もう、あの男があなたの前に現れることはないでしょう。当家としても警備を強化いたしますし、花ノ井家も同様に対策を取ると仰っていましたから」
大きな掌は相変わらず温かくて、私の中の恐怖を吸い取ってしまうように思われた。
「征之介さんは、あの方をご存知でらっしゃったのですか……?」
「──……ええ」
その先を私に話す気はないようで、征之介さんはそれきり何も言わない。
それでも、私は嫌だった。私一人が何も知らないまま、全てが何もなかったかのように終わってしまうことが。
「許してはいけない──と、あの時征之介さんは仰いました。でも、今の私では許すことも許さないこともできません。もちろん忘れることだって……私は全てを知ったうえで、これから先の心のありようを決めたいのです」
征之介さんは少し驚いた顔をして、珍しく私の顔をまっすぐに見た。
「申し訳ありません……征之介さんも、お父さまもお母さまも、私のためを思って動いてくださっているのはわかっております。私が出過ぎたことを言っているのも……でも、私──……」
征之介さんと見つめ合っている状況が恥ずかしくて、その後の言葉が出てこなかった。そしてうつむく私を見て、征之介さんは私の肩から手をどけた。
「──……たしかに……あなたには知る権利というものが、あるのかもしれない」
そう言って、征之介さんは少し思案した。
「あなたが望むのであれば、事が起こった背景をお伝えすることは可能です。ですが──話を聞いた後、あなたの感情が揺さぶられてしまうのではないかと気がかりなのです」
「それは……良くない方向に、という意味なのでしょうね」
「左様です」
あの人は私のことをあれだけ憎んでいたのだから、それ相応の背景があるのだろう。征之介さんたちが、私の耳を塞ごうとするほどの背景が。
けれど今目を背けたところで、きっと私は逃げられない。あの悪意と殺意は、これから先も私を追ってくるに違いない。それならば、私はきちんと向き合って、前に進む道を選びたい──……。
「お話を聞いて平静でいられるかどうか……は、正直なところわかりません。それでも──……私の心がどれだけ波だとうとも、覚悟の上でございます」
「──……わかりました」
そして征之介さんは座り直し、まずは私に質問をした。
「お父上がどのような商いをされているかは、ご存じですか?」
「え? はい──土地の売買や、賃貸業をしていると聞いております」
「その通りです。お父上はその天賦の才をもって土地の持つ価値を見抜き、売買を繰り返して花ノ井財閥を築き上げた──……」
たしかにおじいさまも地主ではあったけれど、ここまでたくさんの土地は所有していなかったと聞く。お父さまの代で、花ノ井家をここまで大きくしたそうだ。
「私は間近でお父上──重森さまのお仕事ぶりを拝見して、日々感服しております。成功するためにはどのように動くべきなのか、いつも最短の道を選び取っていらっしゃる──……たがその迅速なる動きに、追いつくことの出来ない者もいるのです」
「──……?」
私は察しが悪く、征之介さんが何を仰りたいのかがまだわからない。
「あの南寛三という男は、大通りで小さな商店を営んでいたのです。その店のある土地は、これから先値上がりが予想される区域にありました。それを踏まえてお父上はあの男に売却を持ち掛けたのですが、なかなか商談はまとまらず──……よって、お父上はいささか強引な手段を取られた」
私はお父さまのお仕事について、詳しいことは何も知らない。征之介さんの言葉は理解できるのだけれど、ひどく難しいことを聞いているような気分だった。
「──その結果、あの南という男はお父上に土地を売却することになったのですが──その事実を、おそらく受け入れることができていないのでしょう。あの男にとっては先祖代々の大切な土地であり、また土地を手放したことによって一家が散り散りになってしまったようですから」
「…………つまり……お父さまによって、あの方は土地を取り上げられてしまったと……?」
征之介さんは私の顔色を見て、付け足すように言った。
「……この売買は、私がお父上の元で学ぶようになる前に完了したものです。ですがお父上のお仕事を学ぶにあたって、私も一連の資料には目を通しました。その上で申し上げますが、お父上は法に問われるような行いはされておりません。売買の対価もきっちり払っております。ただ少し強引で、合理的であったというだけで──……」
いくら察しの悪い私でも、征之介さんが最大限私に配慮した言い方をしてくださっているのがわかった。
「つまり……あの男の行動は、完全なる逆恨みです。自らの処遇と比べ、お父上の元で幸福に暮らすあなたが憎らしかったのか……それとも大切なあなたを傷つけることで、お父上に復讐したかったのか──……いずれにせよ、あなたに非はないのです」
お父さまのなさりようが本当に正しかったのかどうか、私にはわからない。私はお仕事のことも法律のことも、何も知らないのだから──征之介さんの言葉は、もっともらしくも聞こえてしまう。
けれど私の胸をついたのは、自らの境遇について、何も考えたことがなかったのだと気がついたことだ。
お父さまがどのようなお仕事をされているのかも、なぜ不自由ない暮らしができているのかも、私はまるで考えたことがなかった。
もしかするとあの悪意と殺意の上に、私の暮らしは成り立っているのだろうか──……。
「──……顔色が優れません。お父上もお母上も、あなたにそんな顔をして欲しくはなかったのでしょう」
征之介さんが私を見て、慰めるように続けた。
「私は──……重森さまはけして冷徹なのではなく、ただ合理的な方なのだと存じます」
お父さまは、いつも私のためを思ってくれる。先ほども私を心配して、お仕事の途中だというのにお見舞いに来てくれた。冷徹だなんて、考えたこともなかったけれど──……。
「話してくださって……ありがとうございました」
私はどうにか、征之介さんにお礼を述べた。
「……お気持ちの整理は、つきましたか?」
「いいえ……すぐには、難しそうです。でもやっぱり、お聞きして良かったと思います」
征之介さんのお話は、私にとってもちろん衝撃的なものだった。それでも何も聞かずに何も知らないままでいることに比べれば、気持ちがずっとすっきりとした。
征之介さんは私を一人にしようと気遣ってから、話し終えると席を立った。
「…………征之介さんは、お父さまのお仕事を継がれるのですよね」
私と結婚をして花ノ井家に入るということは、つまりはそういうことになる。
「もしもまた同じような状況になったなら……征之介さんも、お父さまと同じようになさいますか──……?」
「それは──……その時になってみなければ、わからないことです。それに……そもそも私たちはまだ、婚姻をしてはいないのですから」
征之介さんは、少し含みのある言い方をした。たしかに私たちが結婚をしなければ、征之介さんがお父さまのお仕事を継ぐ理由は何もない。
私の夢に現れた、征之介さんの姿が思い浮かぶ。
「──……私はやっぱり、嫌です。私一人が何も知らないまま、全てが何もなかったかのように終わってしまうなんて」
思えばいつの間にか、征之介さんに対する恐怖心が消えている。こうして二人きりで話すことなんて、少し前は怖くてたまらなかったというのに。
征之介さんは私の言葉を聞いて、わずかに瞳が揺らいだように感じた。
「あなたが無事でいてくれて──……本当に良かった。もう、あなたを危険な目には遭わせません。あなたは──…………」
そしてひどく辛そうな顔をしてそう呟くと、丁寧なお辞儀と共に、私の部屋を出ていった。




