理由(一)
目を覚ました時、私はいつのまにか緑麗荘にいた。もうすっかり慣れ親しんだ自室の天井が目に入る。
ぼうっとする頭を抱えて起き上がると、そばにいたスズさんが急いで誰かを呼びに行った。
「品子! 良かった、目が覚めたのね……!」
扉が開くと同時に、私の耳に懐かしくも恋しい声が届いた。
「お母さま……!」
緑麗荘に越してきてからは手紙のやりとりだけだったので、お顔を見るのは随分久しぶりだ。お母さまの後ろから、お父さまも顔を出す。
相変わらず隙がなく美しいお母さまは、部屋に入るなり私を抱きしめた。
「あなたが襲われたと聞いて、本当に気が気ではなかったわ……どこも怪我はしていないのよね?」
「ええ、お母さま……ご心配をおかけしました」
お父さまはお仕事の途中だったのか、少し疲れた顔をしている。それでも私の顔を見ると、深い安堵の表情をしてため息をこぼした。
「品子……とにかく、無事で良かった」
「あの──……いったい、何があったのでしょう?」
先ほどの出来事は現実なのだと頭では理解しているけれど、まるで夢の地続きにいる気分だった。おぼろげで、はっきりと思い出すことができない。
記憶に焼きついているのは、向けられた悪意と殺意、そして征之介さん掌と言葉──……。
お父さまとお母さまは、顔を見合わせて目配せをした。
「品子……覚えていないの?」
「その……気が動転しているのか、なんだか記憶が曖昧で──……」
「思い出せないのであれば、そのまま忘れておしまいなさい。あんな出来事、忘れたほうが幸せにきまってるわ! ああ、可哀想な品子……!」
「そうだな……始末はこちらでつける。だからお前は、とにかく養生しなさい」
お父さまとお母さまは、再び私を寝かしつけようとする。
「いいえ、私は大丈夫ですから──……そう、それよりも……征之介さんは? 征之介さんはどちらに?」
気がついてから、征之介さんの姿を見ていない。もう屋敷に戻っているのだろうか。
「安心して品子、征之介さんももちろん無事よ。今はお部屋にいらっしゃるわ。私たちのほうが先に会いたいだろうからって、気を遣ってくださったの。僕がいないほうが品子さんも休めるだろうから、って……でもね、あなたのことをとても心配していたわ」
良かった、征之介さんも無事だったのだ。
そう──あの時征之介さんが、私のことを助けてくれた。相手は刃物を持っていたのだから、征之介さんに危害が及んだかもしれないのというのに。あの鋭く光った刃先が思い出されて、私は改めてぞっとした。
「お父さまお母さま、私……征之介さんに助けていただいたんです」
「ええ品子、聞いているわ。本当に出来た方ね、征之介さんは。もしも征之介さんがいなかったらと思うと──……」
お母さまは瞳を潤ませて、私を再度抱きしめる。
「あの……あの方はなぜ、私を狙ったのでしょうか?」
あの時、私は強い悪意と殺意を感じた。見覚えのない人ではあったけれど、知らぬうちに何か恨まれるようなことをしてしまったのだろうか。
お母さまは私の頭を撫でると、ふるふると首を横に振った。
「……あなたは気にしなくていいことよ」
「で、でも──……!」
気にせずになどいられない、実際に私は殺されかけたのだから──。
「心配しないで、品子。もう二度とあなたを危険な目に遭わせはしないわ」
「ああ──この件は私たちと、征之介くんに任せてくれ。お前は何も気にしなくていいんだ」
「そんな、でも私──……」
私は、何があったのかを詳らかに知りたかった。なぜ私はあんなにも恨まれて、悪意と殺意を向けられていたのかを。お父さまとお母さまの口ぶりからして、何か理由があったには違いない。そしてその理由を、二人はすでに知っているのだ。
「さて残念だが……もう帰らねばならない時間だ。まだ仕事が残っている」
「ああもうこんな時間なのね……でも、品子の顔を見ることができて嬉しかったわ。里心がついてもいけないと、しばらくは遠慮していたものだから。征之介さんとの仲も心配はいらないようね」
「えっ……もうお帰りに?」
何も聞くことができないまま、お父さまとお母さまは帰り支度を始める。
「ごめんなさいね……泊まっていけたら良かったのだけれど──……でも大丈夫よ、あなたのそばには征之介さんがいらっしゃるのだから」
せっかく久しぶりにお父さまとお母さまに会うことができたというのに、ばたばたと時間が過ぎてしまった。
「それじゃあ品子、また近々会いましょうね。しっかり体を休めるのよ」
もっと一緒にいて欲しかったけれど、お父さまの仕事の邪魔をするわけにはいかない。忙しい中、こうして顔を見にきてくれただけでも十分嬉しいことなのだから。
お礼を言うと、お父さまは名残惜しそうに、そしてすまなそうに部屋を出て行った。
そしてお母さまは、出て行きがてらにこう言った。
「あなたは、何も悪くないのよ──……」
私は、何も悪くない──……この言葉を聞くのは何度目になろうか。その言葉が本当ならば、なぜ私は何度も殺意を向けられているのだろうか──……。
お父さまとお母さまと入れ替わりに、スズさんが再びやってきた。私の体調を気遣いながら、御用聞きをしてくれる。スズさんは私が刺されかけた理由を知っているのだろうか? いいえ──もし知っていたとしても、きっと口止めされているに違いない。
「私……征之介さんに会いたい」
ぽろりと、口からそんな言葉がでてしまった。なぜだか無性に、そう思ったのだ。
「──かしこまりました。では、征之介さまをお呼びして参りますね」
スズさんはそう言って、すぐに部屋を出て行った。彼女の姿が見えなくなると、自分の発言が急に恥ずかしくなってくる。
征之介さんも大変な思いをした後だというのに、呼びつけてしまうなんて。訝しがられはしないだろうか。
けれど、私はまだ征之介さんにお礼を伝えられていない。助けてもらった感謝の気持ちを、きちんと直接伝えたい。
それになぜだか、征之介さんなら私が恨まれた理由を教えてくれる気がしたのだ。いつも言葉数の少ない征之介さんに対して、そう思うなんて不思議なのだけれど。




