鋭刃(二)
「このまま伏せていてください」
征之介さんが切迫した声で私に言う。
衝撃の正体は、征之介さんが私の身体を押して覆い被さったからだった。
「…………?」
わけがわからないままに、地べたに伏したまま恐る恐る顔だけ上げてみる。
征之介さんはすでに立ち上がっていて、一人の殿方と対峙していた。見たことのない人で、お父さまと同じくらいの年齢ではないかと思われた。
「──……!」
そして、私はその殿方の手元を見て驚愕する。その手には夢の中で見たものと同じ、鋭い刃先の小刀が握られていたから──……。
「刃物を捨てろ。なぜ彼女を襲おうとした」
征之介さん冷静に殿方に問いながら、じりじりと距離を詰める。
私は夢のとおりに、あの小刀で刺される寸前だったようだ。けれどその直前で、征之介さんが私を助けてくださった──……。
街ゆく人がただ事ではない異変に気づき、何事かと人だかりができはじめる。
「──……」
殿方は征之介さんの問いに答えようとはしなかった。そもそもその目に征之介さんは映っておらず、ただ私だけが視界に入っているように見えた。
そしてその視線からは、今まで感じたことのない負の感情が伝わってくる。私に対する恨みや憎しみ……そして殺意が。
私はそれがとても恐ろしくて、目を逸らしたいのに逸らせない。身体が恐怖で固まってしまった。
これが、他人から寄せられる悪意──……私は二度も、征之介さんに殺される夢をみた。けれど夢の中の征之介さんからは、殺意を感じても悪意というものは感じなかった。
悪意なく殺められる、というのもおかしな話ではあるけれど、悪意のある殺意は征之介さんのそれに比べて、桁違いに恐ろしかった。
先だっての悪夢で、刃物から流れ込んできた憎しみや恨み……それが今、現実に私に向けられている。
「名を名乗れ。彼女とはどういう関係だ」
征之介さんが再び静かに問う。相手は小刀を握りしめたまま、私のほうを見て答えた。
「名前……? それを言って何になる。お前たちみたいなのは、俺の名前なぞ知りもしないだろうよ」
この人物を知っているかどうか、征之介さんが目で私に問う。けれど私はただ、震えながら首を振ることしかできない。
「俺は南……南寛三って言うもんだ」
そしてその人は、鋭い目つきでそう言った。
みなみかんぞう、という名を頭の中で繰り返してみる。こんなにも恨まれるようなことをしたのかと、私は必死でこの人のことを思い出そうとした。けれどいくら繰り返してみても、全く心当たりが浮かばなかった。
それは相手にも伝わってしまったのだろう。やっぱりな、という失望の表情がそれを表していた。
「花ノ井品子……お前を見てると、腹が立って仕方ない」
そして南寛三と名乗る人物は、小刀を構えて勢いよく私に襲いかかってきた。素早い動きで、征之介さんの横をすり抜ける。
私はとっさに逃げることもできず、いよいよ目を閉じて覚悟を決めた──が、その小刀が私に振り下ろされることはなかった。
からん、と、地べたに小刀が落ちる音とともに、周囲の人々の感嘆の声が聞こえる。
私が目を閉じていた刹那の間に、征之介さんがその人を容易く地べたに組み敷いてしまったのだ。
「離しやがれ、畜生!」
その人はなおも叫んでいたけれど、征之介さんは臆することなく声をかけた。
「現役の士官学生に一商売人が敵うはずがない。観念してお静かに──……どなたか官憲を呼んでいただけますか?」
「……商売人だと? なんで俺が商売人だとわかる」
「あなたの名を聞いて合点がいった。あなたは南金物店の──……」
征之介さんがそう言うと、その人は抵抗するのを止めたようだった。
「あんた……華族の坊ちゃんだろ。花ノ井家に婿養子に入るっていう」
「ええ」
「なんで……なんで俺のことを知ってるんだ」
「……先ほどあなたが言った通りです。花ノ井家に婿養子に入る身として、花ノ井家の家業について学ぶのは当然でしょう」
ひとまず騒動が落ち着いたことで、少しずつ場のざわめきがおさまってきた。少し先のほうから、官憲の人らしき声と車の音がしてくる。
いまだ腰が抜けてしまって起き上がることができない私を、集まっていた人たちが抱え起こしてくれた。私の無事を尋ねてくれるけれど、頭が混乱してしまってうまく答えることができない。
征之介さんたちの会話が、どういうことなのか私には全くわからない。征之介さんはこの人を知っていて、私が襲われかけた理由にも心当たりがあるように聞こえる。
人だかりをかき分けて、官憲の人たちがやってきた。南寛三という人は、特に暴れたり叫んだりすることもなく、粛々と官憲の車に乗り込んでいく。
征之介さんとやりとりをしてから、どこか毒気が抜けてしまったように見えた。
征之介さんの最後の呟きが、雑音をすり抜けて私の耳に届く。
「あなたに、彼女を殺されるわけにはいかない──……」
車は人だかりをかき分けて、瞬く間に見えなくなってしまった。
征之介さんは官憲の人と短い応対をした後、私に尋ねる。
「お怪我はありませんか?」
「はい……怪我などは、しておりません──……」
一連の出来事は短い時間のことだったけれど、私は久しぶりに声を発した気がした。
「彼らに詳細を申し伝えなければなりませんが、あなたはひとまず休まれたほうがいい。車を手配してもらいましたから、先に戻っていてください」
私は当事者であるにも関わらず、一番何もわかっていないように思われた。自分が襲われそうになった理由も、南寛三という人物についても、何も知らないのだ。
「いったい……どういうことなのでしょうか?」
聞きたいことはたくさんあったけれど、ひとまず口をついたのはその言葉だった。
「あなたが気にすることはありません。今後の始末は、こちらでつけますから」
「いえ、そうではなくて……! なぜ、あの方は私のことを──……」
いったんは落ち着いた恐怖が、再び身体に戻ってくる。征之介さんが助けてくれなければ、私は夢と同じ目にあっていたかもしれないのだ。
私の身体の震えに気がついたのか、征之介さんが私の肩に触れる。その掌はとても温かくて大きくて、私を落ち着かせようと包み込んでくれる。
「……どのような背景があろうとも、あの者の行動は許されることではありません。あなたは、許してはいけない」
そして征之介さんは私に言い聞かせるように、そしてどこか苦しそうな顔で言う。
「あなたは、何も悪くないのです」
その台詞は、私の頭をさらに混乱させるものだった。
違う、それは私が欲しかった台詞ではないのに。わからない。いったいどういうことなのか、私にはわからない──……。
征之介さんはなぜ、何度も同じようなことを言うのだろう。夢の中でも、現実でも。
全てを知りたいけれど、いっこうに手が届かない。それどころか、どんどん謎が増えいく。
安堵、恐怖、混乱、疲労……色々な感情がいっぺんにやってきて、私の頭が処理を拒む。目の前がくるくると回って、身体を支え切れなくなってしまう。
意識が薄れていく感覚の中で、征之介さんが私の身体を支えてくれたように感じた。あの温かく大きな、私の首を絞めた掌で──……。




