鋭刃(一)
征之介さんと植物園に行く約束をした日、私はひどく緊張していた。
思えば、殿方と二人でどこかへ出かけるなんて初めてのことなのだ。
「……おかしくはないでしょうか?」
姿見を見ながら、不安になってスズさんに尋ねる。
「もちろんです、品子さま」
洋装にしようか迷ったけれど、また靴擦れをして迷惑をかけてはいけないので、今日はお気に入りの着物を着ることにした。
私もお母さまのようにお洒落に着こなせたら良かったのだけれど、今さらどうにもできはしない。
「もう少ししたら、征之介さんが戻られる頃でしょうか?」
「そうですね──私、様子を見てまいります」
スズさんが下の階に降りると、もう一度鏡を見て装いを確認した。帯に乱れはないか、髪がほつれてはいないか、口紅が濃すぎはしないか──……。
自分でもおかしなくらい、細かなところが気になってしまう。日頃から顔を合わせているのだから、今日ばかり取り繕っても仕方がないというのに。
婚約が決まりこの屋敷に越してきたものの、私と征之介さんの距離は全く縮まっていない。今日の機会に、少しでも婚約者らしくなれたらいいのだけれど。
久しぶりの外出、そして征之介さんと初めてのお出かけ──私はこの日、緊張もさることながらひどく浮かれていたのだろう。以前みた夢のことはすっかり忘れて、頭の中には薔薇の花が咲いていた。もしかしたら植物園で見ることができるかもしれないと、そんな期待を持ちながら。
「──品子さま、お待たせいたしました。征之介さまが戻られて、ただいまお着替えをされているそうです」
「ありがとう、スズさん」
すぐに済むと言うので、私はゆっくり階下へ向かった。
するとすでに征之介さんは準備を整えられていて、玄関にて私を待っていてくださった。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「いえ、そんな……こちらこそ」
初めて見る征之介さんの洋装姿に、私は一瞬目を奪われてしまった。屋敷ではいつもお着物か軍服をお召しなので、洋装でいらっしゃるとは思わなかったのだ。
背が高くしっかりとした体格の征之介さんは、洋装をとても上品に着こなしている。こんな殿方が街中を歩いていたら、さぞかし目立つことだろう。その隣を私が歩いていいのだろうかと、少し気後れしてしまう。
「──では行きましょう。車は外に待たせております」
「あ、はい!」
私は慌てて征之介さんを追いかけた。
そして用意してくださっていた車に、征之介さんと二人並んで乗り込む。私は越してきた日のように、てっきり別々の車で向かうのかと思っていたので驚いた。
征之介さんと一緒に行きたい、という私の言葉に、征之介さんはしっかり向き合ってくれているのだろう。私たちは道中会話という会話をしなかったけれど、ともに車に揺られているだけで、なぜだが征之介さんがとても近くに感じられた。
久しぶりに訪れる街は、とても賑わっている。たくさんの人が往来していて、車内にいても色々な声が聞こえてきた。お喋りする声や馬車や自動車の音、お客さんを呼び込むお店の人の声──……。
「お待たせいたしました。まもなく到着いたします」
運転手の方がそう言うと、征之介さんは窓の外を見た。
「かなり道が混んでいますね……ここで車を降りたほうが早そうだ」
「本当ですね、そうしましょうか」
「少し歩くことになりますが……構いませんか?」
今日は洋靴ではなく草履なので、少しの距離を歩くのに支障はない。
私たちはここで車を降りて、歩いて植物園まで向かうことにした。
車から降りる際、征之介さんが手を差し出してくれる。
「──ありがとう、ございます」
街行く人の視線が征之介さんに注がれている気がして、こちらが気恥ずかしくなってしまう。
「あの殿方は──……」
「見るからに高貴な──……」
「藤峰さまのところのご子息では──?」
「ではあちらが奥さまの──……」
密やかに交わされる会話が私の耳に届くと、いよいよ頬が赤くなってきた。
私たちの婚約は報道もされたと聞いていたけれど、こんなに目立ってしまうとは。
「では、行きましょうか」
けれどそんな私とは反対に、征之介さんは涼しい顔で歩み始めた。
征之介さんにとって、こういった騒ぎは取るに足らないことなのだろう。
しかし征之介さんの後をついていくと、私はふとここが見覚えのある景色だということに気がついた。
そうだ──……。
私はようやく、先日みた夢のことを思い出した。そう──あの角を曲がった時、背中を誰かに刺されて──……。
急に夢の中の衝撃が思い起こされて、気持ちがひどく沈んできた。
そんなわけはないと頭では否定するけれど、目の前の景色がそれを許してはくれない。あの日夢でみた景色と、どこまでも同じなのだ。
一歩一歩、あの時衝撃を受けた場所が近づいてくる。
前を歩く征之介さんに置いていかれないように、私は歩を緩めずに着いていかねばならない。
歩みを進める度に、心の臓がうるさく騒ぎ始めた。
あれは夢、ただの夢──……。
胸を静めながら、私は自分に言い聞かせる。そしてあの角に差し掛かったとき──ふと、前を行く征之介さんが振り返った。
こちらを見た征之介さんは何かを言いかけて──……次の瞬間、私の身体は鈍い衝撃を受けて地べたに倒れた。




