第009話 鬼教官は美魔女
長い一日が終わり、わたしはあてがわれた自室に戻った。
そこは、かつて母イリーザが使っていたという部屋だった。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「……はい」
「オルガです。入ります」
返事を待たずに、オルガ夫人が入ってきた。
手には小さな木箱を持っている。
「レヴィーネ様、掌をこちらに」
夫人はわたしの前に座ると、有無を言わさぬ口調で命じた。
わたしがおずおずと、傷だらけの両手を差し出すと、夫人は眉一つ動かさずにそれを検分する。
「……やはり。基礎もできていないのに、力任せに振るうからこうなるのです」
夫人はため息をつくと、木箱から小さな陶器の壺を取り出した。
蓋を開けると、スッとする薬草の香りが漂った。
「我が家に伝わる、とてもよく効く傷薬です。マラグ様は身体強化を使うなとは言いますが、傷の手当てをしてはいけない道理はありません。……カトラリーのマナーを覚えるのに、支障が出ますからね」
夫人はそう言って、ひんやりとした薄緑色の軟膏を、わたしの掌に丁寧に塗り込んでくれた。
その指先は氷のように冷たかったけれど、手当ては驚くほど優しく、的確だった。
ジンジンしていた痛みが、魔法のように引いていく。
「これで朝には、まともにカトラリーを扱えるようになるでしょう。……今後は、こうしたこともご自分でできるようになりなさい」
手早く包帯を巻き終えると、夫人は立ち上がった。
「それでは、おやすみなさいませ」
夫人は完璧なカーテシーを残し、風のように去っていった。
部屋に一人残されたわたしは、包帯を巻かれた自分の手を見つめた。
厳しさは覚悟していたが、こんな形で、突き放すような、それでいて合理的な『優しさ』に触れることになるとは思っていなかった。
(……悔しいなぁ)
わたしは枕にしがみついて、自分に言い聞かせた。
絶対に負けない。
絶対に、最強の悪役になってみせる。
『獣の穴』での、最初の一夜が更けていった。
◆◆◆
師範代の言った「学ぶより真似よ」は、本当に最初の最初だけだった。
来る日も来る日も、地味でキツい基礎鍛錬を、頭がおかしくなりそうな回数こなす日々。
思考が停止し、泥まみれになりながら体を動かし続けるうちに、身体は自然と『より楽な方』へと近づいていく。
無駄な力が抜け、動きが削ぎ落とされ、最適化されていくのだ。
そうして、泥と筋肉とマナー地獄の三年が経ち、わたしは十歳になった。
ある朝。
いつものようにオルガ夫人の厳しい視線のもとで完璧な朝食を終え、自室で道着に着替え、鍛錬に向かおうと屋敷の玄関を出ようとしたところだった。
「待て、レヴィーネ」
後ろから呼び止められた。
振り返ると、そこには腕組みをした祖父が立っていた。
「なんでしょう、お祖父様。早く行かないと、今日のノルマに遅れてしまいます」
わたしが少し急いて答えると、祖父はニヤリと笑い、わたしの首元を指差した。
「その首輪、外すが良い」
「……え?」
わたしは自分の首に触れた。
三年間、片時も離さず身につけていた「封魔の首輪」。
忌々しくも愛着さえ湧いてきた拘束具だ。
「三年だ。石の上にも三年、獣の穴にも三年と言うだろう。そろそろ頃合いだ」
祖父の言葉に、わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
震える指先で、首輪の留め具を外す。
カチリ、という小さな音が、やけに大きく響いた。
首輪が外れた、その瞬間だった。
ドクンッ!!
体の奥底に押し込められていた熱い塊が、一気に解放された。
規格外と言われた膨大な魔力が、三年分の鬱憤を晴らすかのように、全身の魔力回路を暴れ回る。
「ぐっ、うぅ……ッ!?」
わたしはその場に膝をついた。
力が溢れすぎて、制御が追いつかない。
「カカッ、どうだ久しぶりの魔力の味は。酔うだろう?」
祖父が愉快そうに笑う。
「くっ……笑い事じゃ、ないですわ……!」
わたしは歯を食いしばり、暴走しかける魔力を必死に抑え込んだ。
だが、同時に感じていた。
この三年間で培った「芯」が、この奔流を受け止める強固な堤防になっていることを。
「立て、レヴィーネ。そのまま道場へ来い。昼飯前の一運動と行こうではないか」
立ち上がる。
体が軽い。
羽が生えたようだ。
いや、違う。
これは翼じゃない。
(――エンジンだ。最高出力の!)
わたしは口角を吊り上げ、ニヤリと笑った。
三年ぶりの、全力の身体強化。
さあ、見せてあげよう。
三年間の地獄の成果を!
◆◆◆
その日の夜。
わたしは全身の筋肉が悲鳴を上げる中、自室を抜け出し、静まり返った中庭にいた。
昼間の組手で、祖父に一度だけ、ほんのかすり傷だが一撃を入れることができた。
祖父は「まだまだヒヨッコだ」と笑っていたけれど、その目は確かに合格点をくれていた。
表の武術は、これで次の段階に進める。
ならば、裏の技術も進めなければ嘘だ。
わたしは月明かりの下、自分の足元に伸びる濃い影を見つめた。
魔力を集中させ、影に干渉する。
うごうごと影が歪み、そこから小さな黒い棘のようなものを生み出そうと試みる。
(くっ、難しい……。形を保てない……)
独学での影魔法の制御は困難を極めていた。
形を作ろうとしてもすぐに霧散してしまうし、魔力消費も激しい。
「……随分と可愛らしい遊びをしていますね、レヴィーネ様」
背後から、冷ややかな声が響いた。
「――ッ!?」
わたしは飛び退き、振り返った。
全く気配がなかった。
そこには、いつもの完璧な夜会服姿のオルガ夫人が、氷のような無表情で立っていた。
「淑女たるもの、夜中にこそこそと這い回るものではありませんよ。それに……」
夫人は月明かりの下、優雅に扇子を開いた。
「その程度の魔力制御と隠蔽技術では、宮廷の闇の中では一瞬で狩られます」
次の瞬間、夫人の足元の影が、生き物のようにうねった。
そこから音もなく、鋭利な氷の刃が複数、射出された。
ヒュンッ!
刃はわたしの頬をかすめ、背後の木の幹に深々と突き刺さった。
わたしは頬に走った熱い痛みと、木の幹に突き刺さった氷の刃を交互に見た。
今のは、影魔法と氷魔法の複合?
夫人の魔術属性は氷と風だけじゃなかったの?
いや、それよりも、あの全く予備動作のない射出速度。
そして何より、今の今まで殺気はおろか、魔力の高まりさえ感じさせなかった隠蔽技術。
これだ。
わたしが求めていた、悪役のための『裏の技術』。
表向きは優雅な淑女、しかしその影には隠された殺意の刃が昏く光る――。
最高じゃないか!
「オルガ夫人! どうかお願いします! その技術をわたしに教えてください!!」
わたしは一も二もなく夫人に向かって平伏し、師事を願った。
魔法の素地を持つ貴族子弟達は基本的にはその属性を使える先達に師事して魔法の使い方を学んでいく。
ところが、そもそも影魔法と闇魔法は使い手が少ない。
ヴィータヴェン家にいたままなら、父と母がその溺愛ぶりを遺憾無く発揮して、王都か、はたまた広い帝国のどこかから師事できる人を連れてきてくれたかもしれない。
しかし、この氷獄ではそんな機会はない。
だからわたしはわざわざ独学で影魔法と闇魔法の制御をしようとしていたのだ。
そんな中、まさかの人物が影魔法を、しかも他の属性との複合魔法まで使って見せてくれた。
このチャンスを逃すのはバカがすることだし、今の何者でもないわたしには頭を下げるくらいしかできない。
だから額を刈り込まれた芝生にこすりつけて願った。
しばらくの沈黙の後、呆れたような、しかしどこか楽しげなため息が聞こえた。
「……やはり、マラグ様の孫娘ですね。変わり者にも程があります」
夫人は扇子を閉じ、コツン、とわたしの頭を叩いた。
「よろしいでしょう。ただし、これまでの淑女教育の手は一切抜きませんよ。これからは夜も覚悟なさい」
「はい!! オルガ師匠!!」
「……その髪の先まで筋肉が詰まっているような呼び方はおやめなさい。これまで通り、先生、と」
「はい!! オルガ先生!!」
「淑女があまり大きな声を出すものではありませんよ。――それでは、おやすみなさいませ」
そう言い残すと、オルガ先生は文字通り闇の中に溶けるように姿を消した。
こうして、十歳になったわたしは、身体強化という「獣の牙」を取り戻し、修行を一段高いものに進めることになり、さらに魔法の先生からの教えを受けることにもなったのだった。
(フフフ……これでまた一歩、最強の悪役に近づいたわね!)
わたしの修行生活は、ここからさらに過酷さを増していくことになった。
この夜の決断をちょっとだけ後悔する日があったりするくらいには。




