第008話 魔法禁止命令
領主館である祖父の屋敷は、道場のすぐ裏にあった。
自信を打ち砕かれたばかりのわたしは、その驚愕と興奮もそのままに屋敷に連れてこられると、メイド達に手荷物を渡した。
「さあ、着替えたならさっさと来い。特別扱いはないぞ」
祖父――いや、ここでは『総帥』だ――の声に急かされ、着替えたわたしは道場に戻った。
練習着のサイズは少し大きいけれど、動きやすさは抜群だ。
けれど、一つだけ、他の子供たちと違うものが身につけられていた。
「……総帥。これは?」
わたしは、首元に巻かれた革製のチョーカーのようなものを指差した。
中央には、透明なビー玉のような魔石が埋め込まれている。
総帥が「入門祝いだ」と言って、ニヤリと笑いながら着けてくれたものだ。
「『封魔の首輪』だ。お前が身体強化に使おうとする魔力を感知し、自動的に拡散・無効化する」
(なっ……!?)
わたしは驚愕した。
装着した瞬間から感じていた、息苦しいような、手足に鉛が入ったような違和感の正体はこれだったのだ。
常に全開だった身体強化が、強制的に遮断にされている。
「今のお前は魔力に頼りすぎている。まずはその『借り物の力』を脱ぎ捨て、己の肉体と魂の強さだけでどこまでやれるか、試してみるがいい」
総帥はそう言うと、年少の部の指導を担当している壮年の師範代を呼んだ。
「師範代。こやつの力試しをしてやれ。……手加減はいらんぞ」
「ハッ! 承知いたしました」
師範代は穏やかな笑顔を浮かべながら、わたしの方を向き、両手を広げた。
「さあ、レヴィーネ様。遠慮なく、思いっきり蹴ってみなさい」
わたしは唇を噛み締めた。
身体強化が使えない。
それは、生まれて初めて体験する『無力』な状態だった。
けれど、ここで引くわけにはいかない。
「……行きますッ!」
わたしは気合を入れ、師範代の懐に飛び込んだ。
そして、先ほど男を吹き飛ばしたのと同じ、渾身の前蹴りを放った。
ポスッ。
情けない音がした。
わたしの蹴りは師範代の腹部に当たったが、岩のような腹筋に呆気なく弾き返された。
反動でバランスを崩し、わたしは無様に尻餅をついてしまった。
「嘘……でしょ……!?」
わたしは呆然と自分の足を見つめた。
身体の柔軟さは変わらない。
けれど、蹴りの威力も速度も、何の変哲もない、ただの七歳児のそれでしかなかった。
これが、魔力強化のない、わたしの本当の実力。
師範代がしゃがみ込み、わたしの目線に合わせてくれた。
「うんうん。これは鍛え甲斐がありますねえ。……ですがレヴィーネ様、悲観することはありません」
師範代はニコリと笑った。
「これほど強力な封魔の首輪をつけられて、それでもこれだけ動けるのです。これまでの間、それほど身体強化に頼り切っていなかったということですな。基礎的な身体の使い方、柔軟性は素晴らしいものをお持ちです」
師範代は立ち上がり、隅に立てかけてあった子供用の木刀を一本、わたしに手渡した。
「今の貴女には伸びしろしかありません。……さあ、まずは素振りからですね。『学ぶより真似よ』です」
わたしは木刀を受け取った。
ずしりと重い。
たかが木の棒なのに、今のわたしには鉄の塊のように感じられた。
わたしは年少の部の最後列に並ばされた。
周りの子供たちが、好奇心と、少しの警戒心を含んだ視線でこちらを見ている。
「いち、に、さん、し……!」
先頭の子の掛け声に合わせて、みんなが木刀を振る。
わたしは隣の子のやり方を見よう見まねで、必死に木刀を振り上げた。
身体が重い。
すぐに息が切れる。
腕が上がらなくなる。
そこそこの重量がある木刀を、バランスも何もなく振り下ろせば、勢いのままに転ぶことさえあった。
けれど、わたしは振るのをやめなかった。
(これが『芯』を作るための第一歩……! 負けるもんか!)
日が暮れて、道場の窓の外が藍色に染まり、やがて完全な闇に呑まれるまで、わたしは泥と汗にまみれながら没頭し続けた。
基礎も何も知らず、ただがむしゃらに重い木刀を振り回した代償は、すぐに体に現れた。
柔らかかった皮膚は無惨に剥け、血と泥が混じった痛々しい肉刺がいくつも潰れていた。
身体強化が使えていた頃には考えられない、生々しい肉体の損傷だった。
「よし、今日はここまでだ。……風呂に入って着替えてこい。飯にするぞ」
祖父が戻ってきて、わたしの肩をバシッと叩いた。
痛い。
這う這うの体で屋敷に戻り、メイドたちに手伝ってもらって泥を落とし、用意されていた深緑のワンピースに着替えた。
髪も整えられ、ようやく『辺境伯令嬢』の姿に戻ったわたしは、食堂へと案内された。
広々とした食堂には、長いテーブルがあり、上座に祖父が座っていた。
そしてその横に、もう一人、見知らぬ女性の姿がある。
その姿を見た瞬間、わたしは思わず息を呑んだ。
背筋を伸ばし、一分の隙もなく座るその姿は、まるで氷の彫像のように美しく、そして冷ややかだった。
銀髪をきっちりと結い上げ、黒に近い濃紺のドレスを着こなしている。
パッと見た感じでは四十代くらいだろうか。
肌には張りがあり、衰えを感じさせない。
けれど、その瞳の奥にある、深い湖の底のような静けさと、発せられる鋭く張り詰めたオーラは、とてもその程度の年齢で培えるものとは思えなかった。
歴戦の騎士である母イリーザですら、ここまでの威圧感は持っていない。
「遅いぞ、レヴィーネ。紹介しよう。こちらが今日からお前の淑女教育を担当するガヴァネス、オルガ・ヴァローナ夫人だ」
祖父の紹介に、オルガ夫人は音もなく立ち上がり、完璧な所作のカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります、レヴィーネ様。オルガでございます。この度、マラグ様より直々のご依頼を受け、レヴィーネ様の教育係を務めさせていただくことになりました。……かつて、お母様のイリーザ様を担当した時のように」
(えっ……!? お母様の師匠!?)
声は美しく、鈴を転がすようだが、そこには一切の感情が乗っていない。
まるで精密機械のようだ。
母イリーザが「あの人だけは本当に怖かった」とこぼしていたのを思い出し、わたしは戦慄した。
おそらくこの人は、見た目通りの年齢ではない。
母の師匠であり、亡き祖母の親友でもあったという、ハニマル家の歴史を知る『本物』だ。
「よ、よろしくお願いします、オルガ夫人……」
わたしは圧倒されながらも、なんとか挨拶を返した。
夕食が始まった。
湯気を立てる肉料理やスープが運ばれてくる。
だが、わたしの手は限界を迎えていた。
フォークとナイフを持ち上げようとするだけで、手のひらの傷が悲鳴を上げ、指先が震えて力が入らない。
カチャン、とナイフが皿に当たって嫌な音を立てた。
見かねたメイドが、肉を切り分けようと歩み寄ってきた。
だが、それを祖父が手で制した。
「よい。手出し無用だ。自分のことは自分でやらせろ。『獣の穴』に入ったからには、令嬢扱いはせんと言ったはずだ」
祖父の言葉に、メイドが困ったように下がる。
わたしは唇を噛み、震える手で再びナイフを握りしめた。
痛い。
涙が出そうだ。
その時だった。
「――マラグ様」
それまで沈黙を守っていたオルガ夫人が、静かに、しかし迫力を伴った声で口を開いた。
「道場内でのことは、どうぞお好きになさってください。ですが、屋敷内に入ってからは、私と同席する全ての時間を淑女教育にあてるものとお考えください。……よろしいですね?」
夫人の眼光が、鋭く祖父を射抜いた。
あの『北天の獅子』たる祖父が、一瞬「うっ」と言葉に詰まり、視線を逸らした。
亡き妻の親友であり、娘の師でもあるこの女性には、さすがの祖父も頭が上がらないらしい。
「ふん、好きにせい」
祖父はバツが悪そうにワインを煽った。
オルガ夫人は小さく頷くと、メイドに目配せをした。
メイドはすぐにわたしの肉を一口大に切り分けてくれた。
「レヴィーネ様。食事は美しくいただくものです。震える手で無様な音を立てては、料理への冒涜になりますわ」
夫人は冷たくそう言い放った。
助けてくれた、というよりは、「無様な姿を見せるな」と叱責された形だ。
わたしは赤くなって俯き、切り分けてもらった肉を、震えるフォークでなんとか口に運ぶ。
味なんて、わからなかった。




