第078話 絆の朝
沈黙が落ちた。
ミリアは、袖で目元を拭っていた。
何度も、何度も。
彼女はまっすぐにわたしを見ていた。
憐れみではない。
共感と、深い敬愛の眼差しで。
「……そう、だったのですね。レヴィーネ様が時折見せる、どこか遠くを見るような寂しい目。そして、誰もが諦めるような運命に、あんなにも激しく立ち向かう理由が……」
彼女の中で、これまでのわたしの行動の点と線が繋がっていくのがわかった。
なぜ、あれほどまでに健康にこだわるのか。
なぜ、飢えという理不尽を許さないのか。
その根源にあるのが、英雄的な正義感などではなく、個人的で切実な「痛み」の記憶だったことに、彼女は深く納得したようだった。
わたしが話し終えると、隣にいたアリスも小さく手を挙げた。
「……私にも、あるんだ」
アリスは膝を抱え、焚き火を見つめながら寂しげに笑った。
「私にも前世があるの。レヴィちゃんと同じ、『ニホン』っていう国で生まれて、育って……死んだ記憶が」
「アリスさんも……」
「時代はね、全然違うと思う。でもね、やっぱり似ているんだ、この国は。私たちの遠い遠い、故郷の空気に。お米の匂いも、人の優しさも。……だから、放っておけないんだよ。この国が『悲劇』で終わるなんて、絶対に見たくない」
アリスの言葉に、わたしも頷いた。
そうだ。
ここは異世界だ。
けれど、わたしたちの魂のルーツと共鳴する場所。
味噌の香り、醤油の味、そして白米の湯気。
それらは単なる食料ではなく、わたしたちがかつて失った「日常」の象徴なのだ。
「ミリア。わたしがこの国にこだわる理由。……それは、ここがわたしの『魂のふるさと』だからなの」
やがて、ミリアはゆっくりと立ち上がり、わたしの正面に座り直した。
そして、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます、レヴィーネ様。話してくださって」
顔を上げたミリアの瞳は、涙で濡れていたが、そこには揺るぎない決意の炎が燃えていた。
「私、やっと腑に落ちました。貴女様の強さの根源も、優しさの意味も。……そして、私がなすべきことも」
ミリアは、持っていた皿を恭しく差し出した。
湯気を立てる、二つの塩むすび。
具も海苔もない。
ただ、ミリアが魂を込めて開発し、アリスが命を吹き込み、わたしが汗を流して育てた、結晶。
「どうぞ。……これが、レヴィーネ様の魂が求めていた味になっているか、確かめてください」
わたしはおにぎりを受け取った。
熱い。
炊きたての熱が、指先から伝わってくる。
震える手で、それを口元へ運ぶ。
あの日の母の手の温もりが、重なる気がした。
「……いただきます」
ガブリ。
一口、大きく頬張る。
瞬間。
口の中に、優しい宇宙が広がった。
噛み締めた瞬間に弾ける、お米の甘みと粘り。
一粒一粒が立ち、口の中で踊るようだ。
喉を通る瞬間の、確かな質量。
胃袋に落ちた瞬間に広がる、熱い活力。
拒絶はない。
吐き気もない。
ただ、全身の細胞が歓喜している。
失っていたパズルのピースが、カチリとハマる音がした。
(……ああ。これだ)
わたしの目から、自然と涙がこぼれ落ちた。
悔し涙でも、怒りの涙でもない。
ただ、満たされたことへの感謝の涙。
「食べられる」ということが、こんなにも幸せなことだったなんて。
お母さん。
わたし、今、食べてるよ。
美味しいよ。
すごく、美味しいよ。
あの時残してしまったおにぎりの味、やっとわかった気がするよ。
「……本当に美味しいわ。ミリア」
涙が止まらなかった。
前世の母に、「美味しかったよ」と伝えられなかった後悔が、今、この味を通じて浄化されていく気がした。
あの時食べられなかったおにぎりを、今、別の形で受け取り、命に変えることができた。
「レ、レヴィーネ様……」
ミリアがもらい泣きをして、鼻をすする。
アリスも目を潤ませて、自分のおにぎりを齧っている。
「……このお米に、名前をつけましょう」
わたしは涙を拭い、食べかけのおにぎりを愛おしそうに見つめて微笑んだ。
「トヨノクニの飢えを満たし、新しい活力となる、このお米に。……名を残す価値があるわ」
すると、ミリアが真剣な眼差しで、おずおずと提案した。
「……それなら……『タカニシキ』はどうでしょう?」
「え?」
「先ほど教えていただいた、レヴィーネ様の前世のお名前……『タカノ』様。……その魂の記憶を、このお米にいただけないでしょうか?」
ミリアは、わたしの目を真っ直ぐに見つめた。
「空を舞う鷹のように高く飛び、故郷に錦を飾る。……そして、過去の悲しみを乗り越えて、未来を生きる糧にする。そんな願いを込めて」
タカニシキ。
わたしの過去と、未来を繋ぐ名前。
前世のわたしへの鎮魂歌であり、今世のわたしへの応援歌。
これ以上ない名前だ。
「……フフッ。最高ね。採用よ」
わたしは心からの笑顔で頷いた。
三人の心が、本当の意味で一つになった夜だった。
わたしは、タカニシキのおにぎりをもう一口頬張った。
塩気が、涙の味と混ざって、しょっぱくて、最高に甘かった。
そして、その光景を。
村はずれの巨木の梢から、静かに見つめる影があった。
カエデだ。
彼女は、荒れ果てた村が黄金色に染まる奇跡と、異国の令嬢が見せた涙を、その目に焼き付けていた。
それは、ただの異邦人の気まぐれではない。
この国の根幹に関わる、巨大な情熱の奔流だと、忍びの勘が告げていた。
「……なんと。……鬼神の如き強さと、菩薩の如き慈悲。……これは、ただ事ではない」
カエデは懐から一羽の小さな鳥を取り出した。
伝書鳩ならぬ、忍鳥だ。
彼女は震える手で文をしたため、鳥の足に結びつけた。
『主君、急がれたし。……この国を変える風が、今まさに吹き始めました』
カエデが手を放すと、鳥は一直線に、夜空へと舞い上がった。
目指すは中央、オワリの方角。
この一通の文が、眠れる獅子を呼び覚ますことになる。
◆◆◆
翌朝。
村は、久しぶりの明るい朝を迎えていた。
昨夜の収穫祭の熱気は冷めやらず、村人たちは早朝から生き生きと動いている。
黄金色の稲穂が風に揺れ、あちこちから朝食の炊き出し(おじやと塩むすび)の良い匂いが漂っている。
子供たちの頬には赤みが戻り、老人たちの目には確かな光が宿っていた。
「レヴィーネ様、本当に行ってしまわれるのですか……?」
村の入り口で、村長が名残惜しそうに頭を下げる。
わたしたちは荷造りを終え、出発の準備を整えていた。
カエデも身支度を整え、わたしの横に控えている。
「ええ。ここはもう大丈夫よ」
わたしは、たわわに実った田んぼを見渡した。
『タカニシキ』は強い。
妖刀の呪いすら栄養に変え、痩せた土地でもたくましく育つ生命力を持っている。
種籾さえ残せば、この村はもう飢えることはない。
「このお米を育て、増やしなさい。そして、周りの村にも分けてあげるのよ。……それが、あなたたちの戦いよ」
「は、はいッ! 必ずや……! このご恩は、孫子の代まで語り継ぎます! このお米は、村の宝として守り抜きます!」
村人たちが涙ながらに手を振る。
わたしは鉄扇を軽く振り、背を向けた。
別れは湿っぽくなくていい。
次の目的地があるのだから。
それに、あまり長く留まると、情が移りすぎて「定住」したくなってしまう。
それはまだ、早い。




