第077話 おにぎりの味
場の空気が、一瞬で変わる。
そして。
それまで黙って稲刈りの準備をしていたミリアが、ビクリと肩を震わせた。
「レヴィーネ様……? 今、『最期』と……?」
ミリアが振り返る。
その瞳が揺れていた。
「昔」という言葉。
そして「最期」という、明らかに今のレヴィーネの年齢にはそぐわない、死を連想させる言葉。
彼女は聡明だ。
それが単なる言い間違いや比喩ではないことを、瞬時に悟ったのだろう。
わたしはハッとして口をつぐんだ。
しまった。
気が緩んでいた。
このお米の完成に、魂が昂りすぎていたのだ。
「あ、いや……その……」
わたしは言葉を濁した。
アリスが気まずそうに視線を逸らす。
ミリアは、しばらくわたしの顔をじっと見つめていたが、やがて静かに視線を落とした。
「……いえ。なんでもありません」
彼女はそれ以上、追求しなかった。
ただ、わたしとアリスの間には、彼女の知らない、踏み込んではいけない「過去」があるのだという事実を、静かに、そして寂しげに察したようだった。
ミリアは何も言わず、ただ黙々と鎌を手に取り、収穫の準備を始めた。
その背中が、いつもより小さく、孤独に見えた。
まるで、自分だけが蚊帳の外に置かれた子供のような背中。
(……いけないわね)
わたしは拳を握りしめた。
これでは、わたしが一番嫌いな「仲間はずれ」じゃないか。
ここまでついてきてくれた彼女には、知る権利があるはずだ。
わたしの我儘に付き合わせ、海を渡り、無人島を開拓し、ここまで尽くしてくれた彼女に、隠し事をしたまま「美味しいご飯」を食べるなんて、不誠実にも程がある。
最高の食事は、隠し事なしで食べてこそ美味いのだ。
わたしは決意した。
今日、このお米を一緒に食べる時。
全てを話そう。
「……ミリア」
わたしは彼女の背中に声をかけた。
「あとで、少し話があるの。……収穫祭の火を囲みながら、聞いてくれるかしら」
わたしの言葉に、ミリアの手が一瞬止まる。
彼女は一度だけ振り返り、どこか安堵したような、しかし緊張した面持ちで、静かに頷いた。
「はい。……お待ちしております」
夕日が完全に沈み、黄金色の稲穂が夜の闇に浮かび上がる。
今夜は、トヨノクニの歴史が変わる夜になるだろう。
そして、わたしたちの絆が、本当の意味で結ばれる夜になるはずだ。
「さあ、刈り取るわよ! 一粒残らずね!」
わたしは感傷を振り払い、村人から鎌を受け取るとそう宣言した。
まずは腹を満たすことだ。
話はそれからだ。
村人たちが歓声を上げて田んぼへ駆け込んでくる中、わたしは最初の一束を力強く刈り取った。
◆◆◆
夜の帳が下りると、死に絶えていたはずの寒村は、かつてない熱気と歓喜に包まれた。
村の中央広場で焚かれた巨大な松明の炎が、人々の紅潮した顔を照らし出す。
乾燥してひび割れていた大地は、今は豊かな水と、何よりも「人の活気」で満ちていた。
「炊けたぞォォォッ!!」
誰かの叫び声と共に、広場の中央に据えられた、ミリア愛用の巨大な『|焦げ付かぬ鍋《オリハルコン製・寸胴型》』の蓋が開けられた。
ボワァッ……!
立ち上る濃厚な湯気。
そして、風に乗って広がる甘く芳醇な香り。
それはただの穀物の匂いではない。
大地と水と太陽、そしてアリスの聖なる魔力とミリアの執念が凝縮された、「生命」そのものの香りだ。
「こ、これが……おらたちの田の米……?!」
「光ってる……! 米粒が、宝石みてぇに光ってるぞ!」
村人たちが鍋を取り囲み、涙を流して拝んでいる。
飢餓に苦しみ、泥水を啜って生きてきた彼らにとって、この白く輝く穀物は、黄金よりも尊い救済の象徴だった。
ミリアとアリスが、休む間もなくしゃもじを振るい、竹の皮に乗せた握り飯を次々と配っていく。
具などない。
海苔もない。
ただの塩むすびだ。
咀嚼が難しいほど衰弱している者には粥が配られる。
けれど、今の彼らにとって、これ以上の御馳走はこの世に存在しない。
「うめぇ……! うめぇよぉ……!」
「母ちゃん、食ってくれ……! 生き返ってくれぇ……!」
ハフハフと熱い米を頬張る音。
咀嚼するたびに溢れる嗚咽。
それは、地獄の底から這い上がった者たちによる、生への賛歌だった。
その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなる。
わたしは一人、その喧騒から少し離れた、村はずれの静かな丘の上へと足を運んだ。
眼下に広がる祭りの明かりを見下ろす場所に、腰を下ろす。
カエデは警備を兼ねてどこかの木の上に潜んでいるのだろう。
「……レヴィーネ様」
背後から、遠慮がちな声がかかった。
振り返ると、配膳を村の女性たちに任せてきたのだろう、ミリアとアリスが立っていた。
ミリアの手には、湯気を立てる二つのおにぎりが乗った皿がある。
「……ここにおられましたか」
「ええ。少し、酔ってしまったみたい。お米の匂いにね」
わたしは苦笑して、隣の地面をポンと叩いた。
二人が並んで座る。
しばらくの間、無言の時間が流れた。
ただ、炎の音と、遠くから風に乗って聞こえる村人たちの笑い声だけが響く。
心地よい静寂だった。
けれど、そこには昼間の「言い間違い」によって生じた、わずかな緊張感が漂っていた。
「……ミリア。昼間のことだけれど」
わたしが切り出すと、ミリアは膝の上で手をギュッと握りしめ、緊張した面持ちで顔を上げた。
その瞳には、不安と、それ以上の「知りたい」という強い意志が宿っていた。
「はい。……お待ちしておりました」
わたしは、自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクン。
そこにある、強く脈打つ心臓。
けれど、記憶の奥底には、いつ止まるとも知れなかった、弱々しい鼓動の記憶が焼き付いている。
「隠していたわけじゃないの。ただ……信じてもらえるか分からなかったし、言う必要もないと思っていたから」
わたしは薪を一本、火にくべた。
パチリ、と火の粉が舞い上がり、満天の星空へと消えていく。
「わたしにはね、前世の記憶があるの。『ニホン』という国で生まれた……向こうでの名前は、『鷹乃』といったわ」
わたしは、もう二度と名乗ることはないと思っていたその名を、口にした。
口に出した瞬間、当時の消毒液の匂いや、無機質な機械音がフラッシュバックする。
「今のわたしとは似ても似つかない、ただの病弱な小娘だった。生まれつき身体が弱くてね、学校にも行けず、病室の白い天井ばかり見て過ごしていた」
ミリアが息を呑む気配がする。
岩をも砕く最強の筋肉を持つ主人の口から語られる、「弱者」としての過去。
それは彼女にとって想像を絶するものだろう。
「ベッドの上で寝返りを打つことさえ必死だった。……唯一の楽しみは、画面の向こうで戦うプロレスラーたちの姿を見ること。彼らの強靭な肉体、不屈の闘志に憧れて……いつか自分もあんな風に自由に動きたいと願いながら、若くして生涯を閉じたの」
そこまでは、アリスにも話したことがあったかもしれない。
けれど、ここから先は、誰にも言えなかった「痛み」だ。
「最期の日々は……もう、食事をすることさえできなかった」
わたしの声が、わずかに震える。
「喉を通らないの。飲み込む力さえ残っていなかった。点滴という管で、ただ生かされているだけ。……お腹が空いているのかどうかも分からない。ただ、魂が干からびていくような感覚だけがあった」
脳裏に浮かぶ光景がある。
白い病室。
消毒液の匂い。
そして、面会に来た母の姿。
彼女はいつも泣き腫らした目を隠すように笑っていた。
『鷹乃。……お母さんね、今日、早起きしておにぎり握ってきたの』
母が取り出したのは、ラップに包まれた小さなおにぎりだった。
コンビニのじゃない。
歪で、不格好で、でも温かいおにぎり。
中身は大好きな鮭だったはずだ。
『一口でいいから……お母さんが握ったのよ。ね?』
母の震える手が、おにぎりを私の口元へ運ぶ。
海苔の香り。
ご飯の香り。
食べたい。
本当は食べたい。
お母さんのご飯を食べて、「美味しいね」って笑いたい。
でも、体が拒絶する。
匂いを嗅いだだけで、吐き気がせり上がってくる。
飲み込むための筋肉が、動いてくれない。
わたしは、首を横に振ることしかできなかった。
あのおにぎりを残してしまった時の、母の悲しそうな顔。
震える手でそれを片付ける母の背中。
「ごめんね、無理させてごめんね」と、謝っていたのは母の方だった。
それが、わたしの前世最大の後悔。
最後の親不孝。
「だから、わたしは『強さ』と『食』に執着するの。……二度と、あんな惨めな思いをしたくないから」
わたしは拳を強く握りしめた。
爪が食い込むほどに。
「自分の足で立ち、自分の手で掴み、自分の歯で噛み砕いて飲み込む。……それができることが、今のわたし……いいえ、かつての『鷹乃』にとっての、一番の願いだったのよ」




