第073話 賄賂とデコピン
カツン、とヒールの音が響く。
「お役人様。わたくしたちは争いを望んでおりませんの」
わたしは淑女の笑みを浮かべ、優雅に一歩近づいた。
「ただ、船旅で疲れましたので……少しの間、ここを休息の地としてお借りしたいだけですわ」
「黙れ! 神州の土は、穢れた金などで買えるものではない!」
奉行はズカズカと歩み寄り、わたしの胸ぐらを掴もうと、汚れた手を伸ばしてきた。
「その薄汚い口を閉じろ! この南蛮のアマが!」
ピキッ。
わたしのこめかみに青筋が浮かぶ。
薄汚い? アマ? レディに対してその口の利き方は、万死に値する。
「……汚いのは、あなたのその手よ」
わたしは奉行の手が届くより速く、彼の鼻先へと中指を親指で弾く構えを取った。
「空の旅へご招待してあげるわ。……頭を冷やしてらっしゃい」
「――デコピンッ!!」
バチンッ!!!
乾いた破裂音が、港に響き渡った。
奉行の体は、まるでゴムボールのように軽々と宙に舞い、物理法則を無視した弾道を描いて空の彼方へ消えていった。
シーン……。
侍たちが、口をポカンと開けて空を見上げている。
「……さて。他に、空を飛びたい方は?」
「ひ、ひぃぃぃぃッ!?」
侍たちが悲鳴を上げて武器を取り落とす。
戦意喪失。
当然の結果だ。
「ふふっ、ご理解いただけて嬉しいわ。……ミリア、仕事よ」
「はいッ!」
ミリアが巨大リュックから革袋を取り出し、中身を無造作に地面へぶちまけた。
チャリン、チャリーン!
太陽の光を反射して輝く、黄金の山。
カジノやダンジョンで回収した金貨や宝石だ。
「あ、あれは……金!? 小判じゃねえ……全部、純金か!?」
この国は鎖国中で経済的に困窮している。
そこへ、一生かかっても拝めないような大金が転がってきたのだ。
「これらは『入港税』および『施設修繕費』、そして皆様への『心付け』ですわ。……わたくしたちは、この一角を当面の間、拠点として使用させていただきます。文句のある方は?」
侍たちは顔を見合わせ、一斉に武器を捨てて平伏した。
「あ、ありません!」「どうぞお使いください!」「奉行様? はて、そんな人いましたっけ?」
現金なものだ。
恐怖と利益。
この二つを同時に与えれば、大抵の交渉は成立する。
港の一角が、あっという間にわたしたちの「領土」と化した。
パチ、パチ、パチ……。
乾いた拍手の音が、瓦礫の陰から聞こえてきた。
「……こりゃあ痛快じゃき! 役人をあそこまで綺麗に飛ばすとは、黒船の大砲より凄まじいぜよ!」
崩れた倉庫の屋根の上に、ボサボサの黒髪を後ろで束ね、着流しに革のブーツという奇妙な出で立ちの男が座っていた。
腰には刀ではなく、南蛮渡来の短銃が一丁。
「怪しいもんじゃあないきに。……わしはリョウマ。この港で、しがない海運業を営んじゅうもんじゃ」
「……用は?」
「おんしたち、この先どうするつもりじゃ?」
「どうするも何も、観光よ。美味しいご飯を食べて、温泉に入るの」
リョウマは目を丸くし、腹を抱えて笑い出した。
「観光!? ぶははははッ! こりゃ傑作じゃ! ……けんどな、お嬢さん。今のこの国は、おんしが思うような楽しい場所じゃあないぜよ?」
彼の表情が、ふと真面目なものに変わった。
「飯? 温泉? ……そんな余裕のあるもんは、今のトヨノクニには残っちゃおらん。あるのは飢えと、恐怖と、諦めだけじゃ」
◆◆◆
リョウマに案内されて足を踏み入れた城下町は、わたしの予想を超えて荒廃していた。
建物は古びて傾き、壁には「贅沢は敵」といった高圧的な布告がベタベタと貼られている。
行き交う人々は皆、痩せこけ、死んだような目をしていた。
帝国のスラム街よりも酷い、重く淀んだ絶望の気配が街全体を覆っている。
「……ひどい」
アリスが絶句する。
「都だけじゃない。国中がこうじゃ。……『米狩り』と『刀狩り』。公儀の政策によって、民は食い物を奪われ、侍は魂を奪われ、ただ生かされているだけの家畜に成り下がっちまった」
リョウマが悔しげに吐き捨てる。
「……許せないわね」
わたしは不快感を隠さずに呟いた。
権力維持のために民を犠牲にする。
生産力そのものを破壊するやり方は、狂気の沙汰だ。
そんな中、リョウマが一軒の古びた定食屋の前で足を止めた。
「ここじゃき。……公儀の目を盗んで、こっそりと『まともな飯』を出しゆう数少ない店じゃ」
無愛想な老人が運んできたお盆には、白く輝く米と、糸を引く茶色い豆の発酵食品――納豆があった。
「……!」
わたしの目が釘付けになる。
前世の記憶が鮮烈に蘇る。
「い、いただきます……!」
箸で納豆をかき混ぜ、ご飯の上に乗せ、一口、口に運ぶ。
決して上等な品ではない。
だが、今のわたしにとって、これ以上の御馳走はこの世に存在しない。
「合格よ。……臭いけど、最高に美味いわ」
その時だった。
バンッ!!
入り口の戸が乱暴に蹴り開けられた。
「おい! 誰かいるのか! 『米狩り』だ! 隠している米を出しやがれ!」
土足で踏み込んできたのは、この飢饉の中で不自然なほど丸々と太った役人――代官だった。
彼はテーブルの上の食事を無造作にひっくり返し、まだ少し残っていた納豆の小鉢を宙に蹴り飛ばした。
プツン。
わたしの中で、決定的な音がした。
せっかくの余韻が、故郷の味が、生きるための糧が、土足で踏みにじられた。
「……拾いなさい」
わたしの声は、地獄の底から響くように低かった。
「あ? なんだその目は。……ええい、捕らえろ!」
手下たちが十手を持って襲いかかってくる。
パァン! ドゴッ! バキィッ!
一撃必殺。
わたしは最小限の動きで、襲いかかる手下たちを次々と迎撃し、壁を突き破って外まで吹き飛ばした。
腰を抜かした代官の襟首を掴み、わたしは冷酷に告げた。
「誰の命令? なぜ米を奪う?」
「し、将軍様だ! 代々『剣聖』としてこの国を統べる、最強の武人アシカガ・ムネノリ様の『武力・食糧没収令』だ!」
「剣聖、ねぇ……。民を飢えさせる剣に、何の価値があるのかしら」
わたしは代官を店の外へ放り投げた。
「わたしの食事を邪魔するなら、将軍だろうが神だろうが、城ごと更地にしてあげるわ!」
わたしの宣言が、静まり返った通りに響き渡る。
「……行くわよ、リョウマ。まずはその将軍とやらに、挨拶に行かなくちゃね」
最強の悪役令嬢の、国盗り物語が本格的に始まった。




