第065話 スラムの夜明け
……いい仕事だったわ。
完全なる敗北。
けれど、これほど清々しい負けは、人生で初めてかもしれない。
その時、アリーナの裏口から、カルテルのボス・エスコルピオンがこっそりと逃げ出そうとしているのが見えた。
「……あら。あちらの『お掃除』も忘れてはいけないわね」
わたしは鉄扇を開き、冷酷な笑みを浮かべてその後を追った。
表のリングは終わった。
ここからは、誰にも見せない舞台裏での「残業」の時間だ。
◆◆◆
表の興行が終わり、熱狂が冷めやらぬ深夜。
わたしたちの拠点である廃教会を含むスラム街一帯は、異様な静寂に包まれていた。
虫の声ひとつしない。
風も止まっている。
だが、わたしの肌は感じ取っていた。
闇に潜む、数百、いや千に近い数の殺気を。
「……懲りない連中ね」
わたしは教会の屋根の上に腰掛け、眼下の闇を見下ろした。
カルテルの残存勢力だ。
ボスを失い、資金源を断たれた彼らは、最後の悪あがきとして「報復」を選んだのだ。
重武装した構成員たちが、音もなくスラムを包囲している。
手には松明と魔導銃。
狙いは、わたしたちの抹殺と、スラムの住人たちへの見せしめとしての虐殺。
「焼き払え! ネズミ一匹逃がすな! 女子供も皆殺しだ!」
闇の中から指揮官の声が響く。
同時に、数カ所から火の手が上がろうとした――その瞬間。
「――おイタが過ぎるわよ、駄犬ども」
わたしの声が、夜空に響き渡った。
拡声魔法など使っていない。
けれど、その声はスラムの端から端まで、包囲している敵全員の耳元で囁かれたかのように鮮明に届いた。
「な、なんだ!? どこだ!?」
「上か!? いや、後ろか!?」
構成員たちが狼狽する。
わたしは屋根の上で、ゆっくりと立ち上がった。
身体強化の魔力ではない。
もっと深く、重く、粘着質な「闇」の魔力を、丹田の底から汲み上げる。
かつて、オルガ先生が見せてくれた「夜」の深淵。
あの時は恐怖した。
けれど今は――心地よい。
「教えてあげるわ。……夜というのはね、悪い子がお布団で震えて眠る時間なのよ」
ドォン……。
わたしの足元の影が、爆発的に膨張した。
それは建物の影、路地の影、そして敵自身の影と繋がり、瞬く間にスラム全体を「わたしの領域」へと塗り替えていく。
「ひッ……!? 足が、影に沈む!?」
「明かりが消える!? おい、松明が点かねえぞ!」
世界から光が消えた。
完全な闇。
その中で、わたしの声だけが、全方位から響く。
「逃げられると思って? ……わたしは、この街の影」
ゾワリ、と数百人の背筋が一斉に凍る。
「わたしは、この街の闇」
敵の足元の影が、生き物のように足首に絡みつく。
「――ここにも、そこにも、どこにでも。『わたしは、いる』」
宣言と同時。
スラム全域の影から、無数の「黒い茨」が一斉に噴き出した。
「ギィヤァァァァァッ!!?」
悲鳴が重なる。
棘の生えた影の蔦が、武器を持つ腕を締め上げ、逃げようとする足を貫き、悲鳴を上げる口を塞ぐ。
数百人の武装集団が、たった一瞬で、影という檻に囚われた。
「さあ、いらっしゃい。……特等席へ」
わたしが指を招くと、影に囚われた数百人が、ズブズブと地面の影の中へ沈められ――そして次の瞬間、わたしの目の前、教会の広場にある巨大な影の水溜りから、次々と吐き出された。
ドサッ、ドサッ、ドサッ……!
積み上げられる男たちの山。
恐怖で顔を引きつらせ、ガタガタと震える彼らの前に、わたしは月光を背負って降り立った。
「……た、助けてくれ……! 俺たちはただ命令されただけで……!」
「悪魔だ……こいつは人間じゃねえ……!」
命乞いをする彼らを、わたしは冷たく見下ろした。
「命令? だったら、その命令ごとへし折ってあげるわ」
わたしは両手を広げた。
その頭上に、魔力で構成された無数の「贋作のパイプ椅子」が、星々のように浮かび上がる。
その数、百、二百、いやもっと。
「さあ、始めましょうか。二度と悪さを考えられない体にするための――」
わたしはニヤリと笑い、指揮者のように腕を振り下ろした。
「――『教育的指導祭』の開催よッ!!!」
シュババババババッ!!!
豪雨のように降り注ぐパイプ椅子の群れ。
鈍い打撃音と、骨の折れる音、そして男たちの絶叫が、スラムの夜を賑やかに彩る。
逃げようとしても、影から伸びた棘のある蔦が、男たちを捕まえては持ち上げて地面に叩きつける。
「あーれーッ!?」
「痛てぇえええ!! 骨が、骨がァッ!!」
わたしは、リズムに乗りながら、逃げ惑う(影で足を縛られているので逃げられないが)男たちの脳天に、的確に、ある意味慈悲深く、そして一切の容赦なく椅子を叩き込んでいく。
「はいそこ! 悲鳴が小さい!」
バコォン!
「アンタは子供を殴った罪!」
ドガァン!
「アンタは食料を奪った罪!」
ガシャァン!
終わらない夜。
終わらない宴。
恐怖と痛みという名の教育が、彼らの骨の髄まで刻み込まれていく。
教会の窓から、こっそりとその様子を覗いていたミリアとアリスが、顔を見合わせて震えていた。
そこには、松明を持って襲撃してきた数百人のカルテル構成員たちが、たった一人の女性――レヴィーネによって、次々と宙を舞っている光景があった。
レヴィーネは楽しそうに指揮者のように腕を振っている。
彼女の影から無数に伸びた黒い蔦が、男たちを捕らえ、ぶん回し、地面に叩きつけているのだ。
さらにおびただしい数のパイプ椅子が舞い飛び、男たちを打ちすえる。
「……うわぁ。リズムに乗ってるね、レヴィちゃん」
アリスが引きつった笑顔で呟く。
「はい。まさに『教育的指導祭』ですね。……あ、あそこの人、綺麗にブリッジして埋まりましたよ」
ミリアが冷静に実況する。
「助けてくれぇぇ! 悪魔だァァ!」
「反省します! ママァァァ!」
命乞いの合唱。
「……レヴィちゃん、楽しそうだけど……あれ、絶対子どもたちには見せられないよね?」
「大丈夫ですアリスさん。ちゃんと『峰打ち』ですから! ……たぶん」
スラムの住人たちは、外から聞こえる「お祭り騒ぎ」のような音を聞きながら、安心して朝まで眠りについたという。
それは、この街から「悪」が一掃される音だったのだから。
そして、夜が明けた。
教会の広場には、綺麗に整列して土下座をする数百人の男たち(全員、顔がパンパンに腫れ上がり、椅子の残骸を首から下げている)と、朝日を浴びて清々しい顔でラジオ体操をするわたしの姿があった。
「……ふぅ。いい汗かいたわ」
わたしは屈伸運動をしながら、彼らに尋ねた。
「さて、皆さま。……二度と、この街に手を出さないと誓えますか?」
「「「ち、誓いますぅぅぅッ!!!」」」
彼らの絶叫は、心からのものだった。
こうして、サン・ルーチャ王国の裏社会は、たった一夜にして、物理と恐怖によって「完全浄化」されたのだった。
◆◆◆
騒乱から数日後。
サン・ルーチャ王国は、生まれ変わろうとしていた。
カルテルは解体され、構成員たちは自ら進んで街の清掃や復興に汗を流している(サボろうとすると、どこからともなく椅子の影が見えるらしい)。
エル・ソルも、罪を償った後は一から出直すと誓い、まずは子供たちにレスリングを教えるボランティアを始めていた。
そして、わたしたちは。
「……本当に行っちゃうの、姐さん?」
港で、レオが寂しげに尋ねる。
彼は今、新しいチャンピオンとして、子供たちのリーダーとして、小さな胸を張って生きていた。
「ええ。ここはもう暑すぎるもの」
わたしは海風に髪をなびかせ、笑った。
「それに、わたしは『悪役』よ? 平和になった国に、悪役の居場所はないわ」
「……そっか」
レオは鼻をすすり、そしてニカッと笑った。
「ありがとう、姐さん。……俺、もっと強くなるよ。いつか、姐さんみたいにカッコいいルチャドールになるよ!」
「期待しているわ。……その時は、また一番前の席で見てあげる」
船の汽笛が鳴る。
アリスとミリアが、タラップの上から手を振っている。
「レヴィちゃーん! 早く早くー! 朝ごはんの準備できてるよー!」
「レヴィーネ様! 今回の旅で仕入れたスパイスを使った新作カレーですよー!」
わたしは苦笑しながら、レオに背を向け、歩き出した。
別れの言葉はいらない。
ただ、背中で語るのみ。
「アディオス、アミーゴ」
呟きと共に、わたしは船へと乗り込んだ。
船が港を離れていく。
見送る人々の歓声と、陽気なマリアッチの音楽が、潮風に乗って聞こえてくる。
その音色は、来た時とは違う、本当の喜びに満ちていた。
「さて……次はどこへ行きましょうか」
わたしは甲板で、世界地図を広げた。
東の果て。
味噌と醤油の故郷。
そして、カタナとサムライの国。
「……やっぱり、『東』かしらね」
アリスが横から覗き込み、目を輝かせた。
「賛成! お米が食べたい! 温泉に入りたい! それに、サムライとかニンジャとか、素材の宝庫だよ!」
「私もです! 新商品のアイデアが湧いてきそうです! 噂に聞くナットーとかあるんでしょうか!?」
ミリアも賛同する。
どうやら、次の目的地は決まりのようだ。
わたしは「漆黒の玉座」に腰掛け、東の空を見つめた。
そこには、また新しい理不尽と、へし折り甲斐のある強敵たちが待っているはずだ。
「行くわよ、相棒。……世界征服の旅は、まだまだこれからよ!」
最強の悪役令嬢を乗せた船は、白い航跡を残して、大海原へと進んでいった。
【第8部 情熱の国サン・ルーチャ・ルチャリブレ編】、これにて完結です。
次章では一転、無人島サバイバル編。大自然を相手に「整地」が始まります。
もしよろしければ、作品ページ下部からの【★★★★★】評価やご感想を
いただけますと励みになります。
それではまた次の部でお会いしましょう。
押忍!!




