第005話 洗礼式
あれから二年。
わたしは五歳になっていた。
この二年で、わたしの「規格外」ぶりは、すっかり屋敷の日常になっていた。
二階の自室の窓から庭の木に飛び移ろうとして(さすがにこれは止められたけれど)、代わりにその巨木を猿も裸足で逃げ出すスピードでてっぺんまで登りきったり、階段を五段飛ばしで駆け降りたり。
わたし自身は「辺境伯家の血筋ってすごいな」くらいに思っていたけれど、周囲の大人たち、特に元騎士である母と、長く仕えているマールやバルドたちは気づいていたようだ。
わたしが無意識のうちに高度な身体強化魔法を使っていたことに。
けれど、彼らはそれを決して咎めたり、気味悪がったりしなかった。
「レヴィーネは元気で素晴らしい」と、その全てを肯定し、ただ怪我をしないようにと温かく見守ってくれていたのだ。
そして、この国の貴族の子弟にとって、五歳とは特別な節目だ。
教会で「洗礼式」を受け、その身に宿る魔力量と、生涯を共にする魔法属性を神々に問う儀式が行われる。
◆◆◆
そして迎えた洗礼式の当日。
わたしは、母がこの日のためにと張り切って仕立てさせた、純白のレースとシルクのドレスに身を包んでいた。
正直、動きにくくて仕方がないのだが、これも晴れ舞台の「正装」だ。
我慢するのも淑女の修行のうちだろう。
領都の教会へ向かう馬車の中は、両親の穏やかで温かい期待に満ちていた。
「レヴィーネ、緊張していないかい?」
父ユリスが、わたしの小さな手をそっと包み込むように握ってくれた。
「ううん、楽しみ! わたしの魔法、どんなのかな?」
わたしが答えると、父は目尻を下げて、とろけるような優しい笑みを浮かべた。
「ああ、きっと素晴らしい魔法さ。でもね、レヴィーネ。どんな結果が出たとしても、君が僕たちの自慢の娘であることに変わりはないんだよ。君が君らしくいてくれることが、僕たちにとって一番の幸せなんだ」
母も、わたしのもう片方の手を握り、同意するように頷いた。
「そうよ。あなたのその元気な体と、強い心。それだけで、もう十分に神様からの贈り物だわ。どんな属性であったとしても、私たちはそれを愛するわ」
二人の言葉が、胸にじんわりと染み渡る。
彼らは、わたしが魔法の才能があろうとなかろうと、このまま元気でいてくれればそれでいいと本心から思ってくれている。
その無償の愛が、何よりも嬉しかった。
◆◆◆
教会の礼拝堂は、ひんやりとした静謐な空気に包まれていた。
高い天井、美しいステンドグラスから差し込む色とりどりの光。
祭壇の中央には、魔力を測定するための巨大な透明な水晶が鎮座している。
「では、ヴィータヴェン家のレヴィーネ様。こちらへ」
しわくちゃの老神官が、恭しくわたしを水晶の前へと導いた。
「心を落ち着けて、体の中にある『力』の源を意識してください。そして、それをゆっくりと、この水晶へと流し込むのです」
神官の言葉に従い、わたしは目を閉じて集中した。
日々の「魂のトレーニング(脳内プロレスごっこ)」で培った感覚を頼りに、丹田のあたりにある、熱くて渦巻いているエネルギーの塊を意識する。
(よし……これを、腕を通して、水晶へ……よいしょっ!)
わたしは、その熱い奔流を、一気に水晶へと押し出した。
カッッッッ!!!!
その瞬間、視界が真っ白になった。
水晶が発光したのではない。
礼拝堂全体が、直視できないほどの強烈な閃光に包まれたのだ。
「うわあっ!?」
「きゃあ!」
「な、なんという……!」
周囲の大人たちの、悲鳴にも似た驚愕の声が響く。
ステンドグラスがビリビリと震え、祭壇の燭台が倒れる音がした。
光が収まった後、恐る恐る目を開けると、目の前の巨大な水晶には、ビキビキと蜘蛛の巣のような深い亀裂が走り、今にも砕け散りそうになっていた。
老神官は腰を抜かして床にへたり込み、口をパクパクさせて泡を吹いている。
「そ、測定不能……!? こ、これほどの魔力量は、前代未聞……いや、伝承にある『聖女』いや『魔王』の再来か……!?」
(……え? 魔王?)
老神官の不穏すぎる言葉に、わたしが眉を潜めていると、後ろから、静かだが、隠しきれない興奮と誇りに満ちた父の声が聞こえた。
「……ああ、素晴らしい。レヴィーネ、君は本当に、僕たちの想像を超えていくね!」
「水晶を割るほどの魔力とは……。やはり、この子はただ者ではないわね」
神官が「魔王」とまで言って怯えているのに、この両親ときたら。
だが、その揺るぎない肯定が、わたしの心を強く支えてくれた。
規格外であることは、この家では恐怖ではなく、祝福されるべき個性なのだ。
気を取り直した(というか、他の若い神官に助け起こされた)老神官が、今度は震える手で別の小さな魔道具を取り出した。
属性判定用の色付き水晶だ。
「で、では次に、属性の判定を……」
わたしが再び恐る恐る手をかざすと、水晶は一瞬で、毒々しいまでの深い色に染まった。
吸い込まれるような漆黒、深海の濃紺、そして高貴な紫。
それらが複雑な渦を巻くように混じり合っている。
「……『夜』、『影』、そして……極めて稀な『闇』の複合属性……」
神官の声は、もはや絶望と畏怖が入り混じったものだった。
『闇』属性。
それは、一般的なおとぎ話では必ず悪役が持つ力だ。
忌み嫌われる、呪いと破壊の象徴。
しかし、わたしの心は、逆に高揚していた。
(夜! 影! 闇! なんて……なんてかっこいいの!)
乙女ゲームのヒロインが持つような、キラキラした「光」属性なんて、もともとわたしには似合わないと思っていた。
闇に紛れ、影から奇襲し、夜を支配する。
なんてかっこいいんだろう。
わたしが憧れた悪役レスラー達のイメージそのものだ。
さらに、神官は付け加えた。
「そ、それに加えて、測定限界を振り切るほどの『身体強化』の素養も、既に発現しております……。これほどの才は、百年に一人といえるほどの……」
(やっぱり!)
わたしは全てに納得した。
さすがに五歳児が大人の背丈以上の生垣を飛び越えたり、屋敷の階段を全段飛ばしで着地したりするのは血筋だけでは説明がつかないもんね。
「素晴らしいわ、レヴィーネ!」
母が駆け寄ってきて、わたしを強く抱きしめた。
「『闇』は少し誤解されやすいけれど、とても強力で、応用範囲の広い属性よ。それに、あの身体強化! あなたは間違いなく、最強の魔法戦士になれるわ!」
父も静かに歩み寄り、わたしの頭に手を置いた。
「『夜に輝く月』という名にふさわしい、美しく、強力な力だね。レヴィーネ、この力は君だけのものだ。君が正しいと思う道のために、自由に使いなさい。僕たちはいつだって、君の味方だよ」
こうして、五歳の洗礼式は、教会側にとっては「魔王の再来」という恐怖の記憶として、我が家にとっては「最強の愛娘の誕生」という慶事として幕を閉じたのだった。
◆◆◆
洗礼式で規格外の才能が判明してからも、わたしの生活は表向きは大きく変わらなかった。
相変わらず屋敷中を走り回り(移動速度はさらに上がった)、バルドとの勉強に励み、そして密かに闇魔法・影魔法の制御訓練(という名の影を使ったイタズラ)を始めたくらいだ。
けれど、わたしの中には、常に小さな棘のような不安が刺さっていた。
(――本当に、このままずっと健康でいられるの?)
前世の記憶が、幸せな日々の裏側に、影のように付きまとっていた。
あの時も、最初は元気だった。
それが、小学校に上がる頃――六歳か七歳くらいに、突然、終わったのだ。
だから、六歳になったある日、わたしは勇気を出して、両親にその不安を打ち明けた。
「お父様、お母様。あのね、わたし……体が動かなくなって、ずっとベッドで寝たきりになってしまう夢を、よく見るの。すごく、怖いの……」
嘘ではない。
前世の記憶は、時折リアルな悪夢となってわたしを苛んでいた。
娘の、普段の元気な様子からは想像もできない深刻な訴えに、溺愛する両親が動かないはずがなかった。
父の顔から血の気が引き、母はわたしを強く抱きしめて涙ぐんだ。
そこからの父の行動は、迅速にして徹底的だった。
辺境伯としての権力と財力をフル活用し、国中から高名な医師や、治癒魔法のエキスパートである聖魔術師を次々と辺境に呼び寄せた。
母もまた、王都の貴族社会のツテを頼り、評判の占星術師や予言者を招いた。
六歳から七歳にかけての約一年間、わたしはありとあらゆる医学的検査と、神秘的な診断を受けた。
そして、全ての結果は、同じだった。
「健康そのものです。いえ、むしろ常人よりも遥かに頑丈で、生命力に溢れています」
「恐ろしいほどのポテンシャルを秘めていますが、それが体に悪影響を及ぼす兆候は一切ありません」
「星の巡りを見ても、この子には短命の相や、大病を患う運命など微塵もありません」
国一番と言われる老聖魔術師が、太鼓判を押して帰っていった日の夜。
わたしは自室のベッドの上で、一人、声を上げて泣いた。
それは、悲しみの涙ではない。
前世からずっと、わたしの魂を縛り付けていた「病への恐怖」という重い鎖が、ようやく完全に断ち切られたことへの、安堵と解放の涙だった。
(ああ、わたしは本当に、大丈夫なんだ。この体で、ずっと生きていけるんだ)
もうすぐ七歳。
前世のわたしが「自由」を失い始めた年齢。
今世のわたしは、この年齢で、真の「自由」への切符を手にしたのだ。
◆◆◆
そして迎えた、七歳の誕生日。
この国では、貴族の子弟は七歳になると「お披露目」を行い、十四歳での社交界デビューに向けて、令嬢教育や顔つなぎを始めるのが通例だ。
会場は、温かい祝福の空気に包まれていた。
集まっているのは、愛する家族、マールをはじめとする屋敷の使用人たち、そして領地の騎士団の幹部や、古くから付き合いのある有力な商人たち。
そして、その中心に、ひときわ大きな存在感を放つ人物がいた。
獅子のような白い髭と髪、丸太のような腕、そして顔に刻まれた無数の古傷。
隣領である北の辺境、ハニマル領から、可愛い孫娘の晴れ姿を見るためにわざわざ駆けつけてくれていた、わたしの祖父――マラグ・ハニマル辺境伯だ。
「ガハハハ! レヴィーネ! よくぞここまで元気に育った! 今日は一段と良い面構えをしておるわ!」
『北天の獅子』『帝国最強の武人』の異名を持つこの豪快な祖父は、わたしを軽々と高く抱き上げると、頬ずりせんばかりの勢いで愛情を表現してくれた。
この豪快で、強くて、誰よりも頼りになる祖父のことが、わたしは大好きだった。
そして、祖父の腕の中で、わたしは直感した。
北の辺境の支配者が、ここに滞在している。
これこそが、天が与えてくれた絶好の機会だと。




