第004話 魔法の実在
月日は流れ、わたしは三歳になった。
もう、よちよち歩きではない。
しっかりと大地を踏みしめ、走ることができる。
言葉もだいぶ話せるようになり、自分の意思を明確に伝えられるようになった。
屋敷の廊下を走り抜け、庭園の芝生の上を転げ回る。
前世の六畳の病室では決して味わえなかった「自由な肉体」を、わたしは三年かけてすっかり自分のものにしていた。
「ふふ、レヴィーネは本当に元気がいいわね。まるで子犬みたい」
母イリーザが目を細めて笑う横で、乳母のマールがハラハラと日傘を差しかけてくる。
「おかあさまも、いっちょにはちろー!」
母はわざとゆっくりとわたしから逃げ、わたしはキャッキャと笑いながら全力で追いかけた。
騎士だった母に三歳児のわたしが追いつけるはずもないのだけれど、この「追いかけっこ」が楽しくて仕方なかった。
広い空の下、大好きな人たちに囲まれて過ごす時間。
この永遠に続けばいい――幼いわたしは、心からそう願っていた。
◆◆◆
身体の自由と同時に、知の世界への扉も開かれ始めた。
三歳になったのを機に、母やマール、そして父の補佐も務めている初老の執事、バルドが、わたしの教育係として加わり始めたのだ。
「レヴィーネ様、本日は文字のお稽古でございますよ」
バルドは、銀縁眼鏡をかけた、いかにも「デキる執事」といった風情の人物だ。
父が領地経営の面で最も信頼を置いている男であり、その知識量は膨大で歩く図書館のようだった。
常に父の後ろに控え、父からの相談事には常にあらゆる可能性を考慮した答えを用意しているように思えた。
すごい。
ただ、わたしと遊んでいる父に「旦那様、そろそろお時間です」と告げては父に不満顔をさせるのが、彼の重要な仕事の一つでもあるらしい。
しょんぼりするお父様の身体をぽんぽんと叩いて元気づけるのはわたしの仕事だ。
またね、お父様。
前世の記憶というアドバンテージがある分か、わたしが言葉を話し出すのは早かった。
とはいえ、まだ身体の年齢に引っ張られて、「~でしゅ」とか「~なのよ」といった、よちよち言葉になってしまうのが玉に瑕だが。
しかし、文字はさっぱり読めなかった。
こちらの世界の文字は、前世のどの言語とも似ていなかった。
だから、わたしは結構真剣に、それこそ食い入るように勉強に取り組んだ。
知ることは楽しいし、絵本を教科書にしたバルドの授業はわかりやすかった。
文字だけでなく新しい知識をどんどんと吸収した。
それは、ただ良い子でいるためではない。
わたしがこの世界に生まれて以来、ずっと気になっていた「あること」を確認するためだった。
日々の生活の中で、わたしはいくつかの「違和感」というか、前世との決定的な違いを感じ取っていた。
まず、「魔物」の存在だ。
父の執務室で盗み見た(というか堂々と膝の上に乗せてもらって見た)報告書や、騎士たちの会話から、この世界には野生動物とは明らかに一線を画す、凶暴な生物が存在することを知った。
我がヴィータヴェン辺境伯家は、国境に面しているだけでなく、そうした魔物たちの領域である「常闇の森」という場所に面しているらしい。
そこに棲まう魔物たちが人類の生活圏に入らぬよう、防衛ラインを築き、定期的に間引きを行うこと。
それが、我が家の、ひいては父の最も重要な仕事だったのだ。
父とバルドが時折、険しい顔で騎士たちと打ち合わせをしているのも、このためだったらしい。
次に、テクノロジーの違い。
屋敷の中をどれだけ歩き回っても、電気製品らしきものが一切存在しない。
コンセントもなければ、電球もない。
夜の明かりは、燭台やランプだ。
その代わりに、「魔石」と呼ばれる、不思議な光を放つ石を動力にして動く道具があった。
お風呂のお湯を沸かしたり、部屋を暖めたりするのに使われているらしい。
そして極めつけは、寝物語だ。
母やマールが夜寝る前に聴かせてくれるおとぎ話には、必ずと言っていいほど、杖を持って火の玉を放つ魔法使いや、剣に雷を纏わせる魔法戦士が登場する。
これらの状況証拠から導き出される仮説は、ただ一つ。
この世界には間違いなく「魔法」が実在する。
ある日の勉強の時間、わたしはバルドに、ついにその質問をぶつけた。
絵本に描かれた、杖から光を放つ魔法使いの絵を指差しながら、できるだけ真剣な顔で。
「ばるど。このえほんのひとがやってる、キラキラしたやつ。これは、ほんとうにあるの?」
バルドは眼鏡を押し上げ、穏やかに微笑んだ。
「はい、左様でございます、レヴィーネ様。これは『魔法』でございますね。選ばれた者にしか扱えませんが、確かにこの世界に実在する力でございます」
(――ッシャオラァ!!)
わたしは心の中で、プロレスラー顔負けのガッツポーズを決めた。
興奮のあまり、小さな椅子から転げ落ちそうになるのを必死でこらえた。
魔法! ファンタジーの代名詞!
前世の病室で憧れた、あの理不尽で、美しく、そして強力な力。
それが、おとぎ話ではなく、実在する技術としてこの世界にあるのだ。
わたしの脳内で久しぶりにプロレス脳が、高速回転を始めた。
(もしわたしが魔法を使えたら? 毒霧? 火炎攻撃? それともどんな危険な場面でも受け身が取れる肉体強化? 夢が広がりすぎる……!)
わたしは、バルドが少し引くくらい目をキラキラさせながら、身を乗り出して次の質問を繰り出した。
「わたちも! わたちも、それ、できるようになる!?」
バルドは少し困ったように、けれど優しく答えてくれた。
「それは……いずれ、教会での『洗礼式』にて判明いたします。ですが、旦那様も奥様も優れた魔力の持ち主でございますから、レヴィーネ様もきっと、素晴らしい才能を秘めておいででしょう」
その言葉を聞いた瞬間から、わたしの「勉強」への熱意は、さらに数段ギアが上がったことは言うまでもない。
さっさと文字を学び終えるのだ。
図書室で魔法関連の本を探して、読み漁らなければならないのだから。




