第003話 爆誕
真っ暗で、温かい。
それが、わたしが渡辺鷹乃としての短い人生を終え、この世界に産み落とされる前に感じたのは、絶対的な安らぎだった。
羊水に浮かぶ心地よい浮遊感。
わたしは誰かの胎内にいるのだ。
前世の最期、呼吸すらままならなかった苦しみが嘘のように、この場所はただひたすらに穏やかで、守られていた。
そして、その暗闇の中で、時折、世界を震わせるように、二つの愛おしい声が響いてくる。
「……待ち遠しいなあ、早く出ておいで、ぼくらの天使ちゃん」
低い、よく響く男性の声が、お腹越しに優しく、甘く語りかけてくる。
(て、天使ちゃん……?)
わたしは羊水の中で、思わずまだ未発達な小さな手で顔を覆いたくなった。
病気に縛られたあまり長くはなかった前世だけれど、中身の精神年齢は十八歳になろうとしていたのだ。
この呼び名は、いささか気恥ずかしさが過ぎるというもの。
「ふふ、あなたいつもそれね。でも本当に、早く会いたいわね、私たちの天使ちゃん」
柔らかく、しかしどこか芯のある強さを感じさせる女性の声も、愛おしそうにそれに同意する。
自分は望まれてここにいるのだ、愛されているのだという実感は、何よりも心地よいものだった。
けれど、やっぱりどうにも照れくさい。
(ああもう、わかった、わかったから! 元気に生まれるから、その呼び名は勘弁して!)
わたしは、その照れくささと、ささやかな自我の主張を込めて、狭い空間でもぞもぞと動いて位置を定め、ウンと足を伸ばして、内側から母の腹壁を蹴りつけた。
「あら、またお腹を蹴られたわ。……ふふ、元気な子」
「ははは! そうか、そうか。頼もしいな! きっと君に似て活発な子になるぞ」
二人が幸せそうに笑い合う気配が、振動となって伝わってくる。
わたしはこの世界が、少なくとも前世の無機質な病室ではないこと、そして自分が新しい命として心から歓迎されていることを自覚し、深く、深く安堵した。
◆◆◆
そして、時は満ちた。
突然、世界が収縮し、圧倒的な圧力がわたしを押し出し始めた。
目も眩むような白い光の中に、わたしは放り出された。
肌を刺す、初めて触れる外界の冷たい空気。
肺という器官に初めて流れ込む、酸素の熱さ。
わたしは、本能のままに、文字通り産声を上げた。
「オギャアアアアアアア!!」
それは、ただの生理現象ではなかった。
前世の最期の苦しさから解き放たれ、新たな生を受けたという、魂の底からの歓喜の咆哮だった。
手足が動く。
空気が吸える。
どこも痛くない。
チューブも、心電図のモニターもない。
その当たり前の奇跡に、涙が溢れて止まらなかった。
泣くことさえ、今のわたしには全身を使った喜びの表現だった。
「旦那様、とっても元気なお嬢さまですよ!」
「そうか! もう入っても大丈夫かい?!」
わたしの泣き声に遮られながらのそんな会話を、わたしはぼんやりとした視界で聞いていた。
あるのは、清潔なリネンの香りと、木や土や草の匂いが混じった、力強い生活の匂いだ。
(ああ、わたしは生きている。自由に動ける体で)
小さな心臓が力強く脈打つ音。
血液が全身を巡る感覚。
この身体の奥底から湧き上がってくるエネルギーは、前世の終わりの日々には決して感じ得なかった、純粋で爆発的な生命力だった。
ほどなくして、わたしは温かい産湯につかり、柔らかいおくるみに包まれ、誰かの腕の中に抱かれた。
母譲りだという、産毛のような柔らかな金髪と、父譲りの黒い瞳を持った赤ん坊。
それが、今のわたしだ。
父ユリスは、いくつもいくつも考えてきたわたしの名前候補を挙げては、「うーむ」とああでもないこうでもないと考え込んでいた。
「あぶ」
おくるみの中でわたしはもぞもぞと手足を動かしながら、父の顔を覗き込む。
父の大きな、少し無骨な指が、わたしの小さな手のひらにそっと触れる。
わたしはその指を、反射的に、けれど精一杯の力で握り返した。
「ふふ、ここだけもう髪があるんだね。イリーザ譲りの綺麗な金髪がくるってなっている……ああ、本当に可愛いな!」
父の顔は、喜びで完全に緩みきっている。
「瞳の色は僕と同じだね……夜色の瞳の上に、金の三日月だ。美しく、静かに輝く、そんな子になってほしい」
父は、そのまま何かを閃いたように顔を上げた。
「夜、月……そうだ。決めたぞ。ぼくらの天使ちゃん、君の名前は『レヴィーネ』だ! 古い言葉で夜に輝く月! うん、それがいい、そうしよう!」
ヴィータヴェン辺境伯家の長女、レヴィーネ・ヴィータヴェン。
それが今世のわたしの名前だ。
(レヴィーネ。夜に輝く月。……とっても素敵な名前。ありがとう、お父様、お母様)
前世の最期に願ったのは「もっと自由に、もっと傍若無人に、わがままに生きる」こと。
こんなに美しい、静かな光を思わせる名前をもらって、そんな風に生きられるだろうか。
(……ううん、違うわね)
わたしは心の中で思い直した。
こんなに温かく迎えてくれた人たちがいる。
この幸せな場所を守るためなら、わたしはどんな風にだって生きられる。
夜の闇の中でこそ、月は美しく輝くのだから。
◆◆◆
そして、名を得た「レヴィーネ」としての日々は、大人たちの予想を軽々と超えていくことになる。
わたしを取り巻く大人達の反応を見るに、どうやらわたしは他の赤ん坊より早く、そして遥かに活発に体を動かせているようだった。
日々のジタバタ運動は、脳内で前世で見たプロレスラーたちのトレーニングに変換されていた。
首がすわる前から頭を持ち上げようとするのはレスラーブリッジのイメージ、足をウンウン伸ばすのは、何千回と繰り返されるヒンズースクワットだ。
(動け、動け、わたしの体。もう二度と、錆びつかせたりしないんだから)
生後半年を過ぎ、ハイハイができるようになる頃には、わたしの行動範囲は劇的に広がった。
柔らかいラグの上に降ろされると、わたしは「待ってました!」とばかりに、ものすごい勢いで部屋中を這い回った。
「お嬢様! そんなに急いでは……!」
マールや母が慌てて追いかけてくるが、そのスピードは普通の赤ん坊の比ではない。
四肢の筋肉をフル活用し、障害物を次々とクリアしていく。
だが、赤ん坊の身体は頭が重い。
勢いよくハイハイすると、バランスを崩して、ころりと転がってしまうことがよくあった。
はじめて勢い余って前回りでゴロンと転がったときは、さすがに自分でもびっくりした。
けれど、不思議と痛みはなかった。
とっさに身体を丸め、あごを引いて衝撃を逃がすように転がったからだ。
(これ……もしかして、『受け身』?)
前世で何度も動画で見た、レスラーたちがマットに叩きつけられる瞬間の動きが、無意識のうちに身体に染み付いていたのかもしれない。
ただし、父の前で転がったときだけは、少々まずいことになった。
ある日の夕方、執務を終えた父が、ラグの上で遊ぶわたしを見に来た。
嬉しくて父の方へ駆け寄ろう(ハイハイだけど)としたわたしは、勢い余って父の目の前で派手に一回転してしまったのだ。
ごろん、と。
「レ、レヴィーネ!?」
父は、まるでこの世の終わりを見たかのような絶望的な表情で凍りついた。
持っていた書類鞄を取り落とし、その場に膝から崩れ落ちる勢いだ。
その顔色があまりに悪かったので、わたしは慌てて立ち上がり(つかまり立ちだけど)、「ほら、大丈夫だよ! わたしは元気だよ!」とアピールしなければならなかった。
父はわたしを抱きしめ、何度も無事を確認して、ようやく安堵のため息をついたのだった。
つかまり立ちができるようになると、わたしの世界はさらに広がった。
抱っこされるのを嫌がり、乳母のマールのスカートを引っ張っては部屋の外に出たいと訴える。
廊下の壁を伝い歩きでよちよちと歩けば、マールや母、時には父までがハラハラしながら後ろをついて回る。
廊下の果てにある大きな扉、父の書斎の重厚な机、食堂の長いテーブル――そのすべてが、わたしにとっては征服すべきリングだった。
そんな毎日だったから、時々転んだりもした。
家具の角に頭をぶつけたりもしたし、段差でつまずいて顔面から倒れたこともある。
けれど、どういうわけか、大きな怪我をすることは一度もなかった。
たんこぶ一つ、青あざ一つできないのだ。
(この身体は随分頑丈なのね。さすが辺境伯家の血筋だわ)
わたしは、そんな風に軽く考えていた。
これが後になって、赤ん坊の頃から無意識のうちに「身体強化魔法」を使っていたせいだと知ったときには、さすがのわたしも驚愕することになるのだが――それはもう少し先の話だ。




