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第047話 魂の兄弟へ

 翌朝。


 ノアの病室のカーテンを開けると、そこには昨日まではなかった「非日常」が広がっていた。


 庭の芝生の上に、四本の太い杭が打ち込まれ、太い麻縄で囲われた四角い空間――即席の「リング」が作られていた。


 朝日を浴びて、露に濡れたロープがキラキラと輝いている。


「……すごい」


 ノアがベッドの上で、弱々しく、けれど嬉しそうに呟く。


 窓は開け放たれ、心地よい風と共に、庭の土の匂いが流れ込んでくる。


 ここが、特等席だ。


 庭には、既に選手たちが集結していた。


 全員、武器は持っていない。


 魔力を帯びた装飾品も外している。


 身に纏っているのは、動きやすい服と、熱い決意だけ。


 参加者は、総勢七名。


 まずは、ヴィータヴェン家当主にして私の父、ユリス。


 穏やかな彼は今日ばかりは上着を脱ぎ、意外と引き締まった肉体を晒している。


 その隣には、産後の肥立ちもどこへやら、元騎士の血が騒ぐのか道着姿で準備運動をしている母イリーザ。


 そして、規格外の巨体を揺らして仁王立ちする「北天の獅子」、祖父マラグ。


 氷の微笑を浮かべ、優雅に腕をまくる「鉄の淑女」、オルガ先生。


「ちゃんこ道場」のハチマキを締め、やる気満々のミリア。


 静かに闘志を燃やす剣鬼ジン。


 そして、最後にリングインしたのは――魔力封じの拘束具をあえて身につけ、己の力を極限まで「人間」レベルに落とした、わたし。


 ガチャン、ガチャン。


 手足の枷と鎖が重い音を立てる。


 普段なら羽のように軽い身体が、今は鉛のように重い。


 だが、それでいい。


 この重さこそが、ノアが背負っているものなのだから。


「……よく集まってくれたわね」


 わたしはリングの中央で、マイク(魔道具ではなく、ただの筒)を握りしめ、高らかに宣言した。


「ルールは簡単! 武器禁止! 魔力禁止! 魔法禁止! 使えるのは、この五体のみ!」


 わたしは鎖のついた拳を突き上げた。


「勝敗なんてどうでもいい! 倒れても、倒れても、何度でも立ち上がること! それだけが、このリングの掟よ!」


 参加者たちが「応ッ!」と吼える。


 これは試合ではない。


 魂の儀式だ。


 カァン!


 リングサイドのアリスがフライパンをオタマで叩く音が、ゴング代わりに響き渡った。


 その瞬間、リング上はカオスと化した。


「行くぞレヴィーネ! 父さんの愛を受け止めろ!」


「甘いですわあなた! 私の首狩り(ラリアット)のほうが速くてよ!」


 父と母が同時に突っ込んでくる。


 普段なら指一本であしらえる攻撃だ。


 だが、今のわたしは魔力を封じられた、ただの少女。


 父のタックルが腹に突き刺さり、母のラリアットが首を狩る。


「ぐっ……!」


 わたしは派手に吹き飛び、マット代わりの芝生に転がった。


 痛い。


 土の味がする。


 これだ。


 これが「痛み」だ。


 ノアが毎日耐えている、苦しみのほんの一部だ。


「まだまだぁッ! 北の風はもっと厳しいぞ!」


 起き上がる間もなく、祖父マラグが巨体でプレスしてくる。


 わたしは歯を食いしばり、その重量を受け止める。


 骨がきしむ。


「く、うぅぅッ!!」


「隙だらけですね、レヴィーネ様!」


 オルガ先生が優雅な足払いでわたしの体勢を崩し、そこへミリアとジンが連携して飛びかかってくる。


 手加減なし。


 全員が本気でわたしを「潰し」にかかっている。


 なぜなら、わたしがそう望んだからだ。


 圧倒的な強者として君臨するのではなく、泥にまみれ、傷つきながらも、決して心を折らない姿を見せるために。


 ドカッ! バシッ! ズドン!


 何度も地面に叩きつけられる。


 ドレスは汚れ、髪は乱れ、口の端から血が流れる。


 普通の令嬢なら、とっくに泣き出しているだろう。


 だが、わたしは笑った。


「……ハッ、効かないわね!」


 わたしは震える膝に力を込め、よろめきながらも立ち上がった。


「見ているでしょう、ノア! ……わたくしは、まだ負けていない!」


 窓の方を向き、拳を突き上げる。


 そこには、身を乗り出してこちらを見つめるノアの姿があった。


 彼の瞳が、燃えている。


 死にかけた命が、わたしの姿を通して共鳴し、熱を発している。


『立て! 立ってください、姐さん!』


 声にならない声が聞こえた気がした。


「ええ、立つわよ! 何度だって!」


 わたしは咆哮し、祖父に向かって突進した。


 魔力はない。


 技術も通じない。


 あるのは、ただ「倒したい」という意志のみ。


「うらぁぁぁッ!!」


 渾身の頭突きが、祖父の鋼のような腹筋に突き刺さる。


 祖父が「ぐおっ!?」とたじろぐ。


 その隙に、わたしは祖父の丸太のような腕を掴み、背負い投げの体勢に入った。


「重い……! でも、背負ってみせる!」


 拘束具の重み、祖父の体重。


 ノアの苦しみに比べれば、この程度の重さ、何でもない。


 全身の筋肉を総動員し、限界を超えて踏ん張る。


「――投げッ、っぱなしッ!!!」


 ドズゥゥゥン!!!


 巨体が宙を舞い、地面を揺らした。


 歓声が上がる。


 アリスがフライパンを連打する。


 乱戦は続く。


 時間は過ぎ、太陽が高く昇る頃には、全員が立っているのがやっとの状態だった。


 父も母も、ミリアもジンも、オルガ先生さえも、肩で息をして倒れ込んでいる。


 リングの中央に立っているのは、ボロボロのわたしと、同じく満身創痍の祖父だけ。


「……やるな、レヴィーネ。魔力がなくとも、お前は強い」


 祖父がニカッと笑う。


 前歯が一本欠けているが、気にしてもいない。


「当たり前ですわ。……誰の孫だと思っているのです」


 わたしはふらつく足を踏みしめ、最後の構えを取った。


「これで、おしまいよ。……ノア、よく見ていなさい!」


 わたしと祖父が同時に走り出し、中央で激突した。


 クロスカウンター。


 互いの拳が、互いの頬を捉える。


 バシンッ!!


 視界が明滅する。


 意識が飛びそうになる。


 けれど、わたしは倒れなかった。


 祖父が、ゆっくりと膝をつき、大の字に倒れたからだ。


「……カカッ。見事……」


 静寂。


 庭には、荒い息遣いだけが響いている。


 わたしは、よろめきながらコーナーポスト(木の杭)に登り、天に向かって右手を突き上げた。


「――生きろォォォォッ!!!」


 勝利の雄叫びではない。


 それは、命の賛歌。


 どんなに打ちのめされても、どんなに理不尽でも、心臓が動く限り、人は立ち上がれるのだという証明だった。

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