第046話 魔力を捨てろ
それから、わたしはノアの病室に近づくことをやめた。
代わりに、庭の隅から、窓越しに彼の様子を伺うことしかできなかった。
窓の向こうで、ノアは日に日に痩せ細っていく。
ミリアやアリスが(魔力を極力抑えて)甲斐甲斐しく世話をしているが、その表情は暗い。
わたしは、庭のベンチに座り込み、空を見上げた。
影の中の『玉座』が、主の不在を嘆くように冷たく脈打っている気がする。
「……情けないわね」
独り言が漏れる。
武器がなければ戦えないのか。
魔力がなければ何もできないのか。
前世のわたしは、動かない体で、それでも心だけは戦っていたはずなのに。
健康な体を手に入れた今世のわたしは、いつの間にか「力」に依存し、「心」の戦い方を忘れてしまったのではないか。
カツ、カツ、カツ……。
静寂を破り、力強い足音が近づいてきた。
その足音だけで、誰だかわかる。
大地の底から響くような重低音。
「……辛気臭い顔をしておるな、レヴィーネ」
頭上から降ってきたのは、雷鳴のような、けれどどこか温かい声。
見上げれば、そこには巨岩のような男が立っていた。
白い髭、丸太のような腕、全身から放たれる圧倒的な武のオーラ。
「……お祖父様」
北の辺境から駆けつけた、祖父マラグ・ハニマルだった。
弟の誕生祝いに来たはずだが、その目は今のわたしの苦境を見透かしているようだった。
「孫の顔を見に来たが、随分と湿っぽい空気じゃ。……あの坊主のことか?」
祖父はわたしの隣にドカリと腰を下ろした。
ベンチが悲鳴を上げる。
「……ええ。わたしには、何もできません。近づくことさえ、彼を傷つけてしまう」
わたしは俯き、弱音を吐いた。
「最強を目指して、誰にも負けない力を手に入れたつもりでした。でも……その力が、あの子を殺す毒になるなんて」
祖父はしばらく無言で髭を撫でていたが、やがて静かに口を開いた。
「レヴィーネよ。……『最強』とは何だ?」
「え?」
「敵を殴り倒すことか? 誰も持ち上げられない重い物を持つことか? 魔力で天候を変えることか?」
祖父は首を横に振った。
「違う。それはただの『現象』だ。……本当の強さとは、『在り方』だ」
祖父の大きな手が、わたしの頭に置かれた。
「武器が使えぬなら、素手で戦え。素手が使えぬなら、心で戦え。……お前が目指した『最強の悪役』とうやらは、力がなければ何もできぬような半端者だったのか?」
ハッとした。
前世の記憶。
わたしが憧れたプロレスラーたちは、リングを降りてもスーパースターだった。
怪我で試合ができなくても、マイク一つで観客を沸かせ、病室の子供たちを勇気づけていた。
彼らの武器は、筋肉や技だけではない。
「不屈の魂」そのものだったはずだ。
「あの子は今、死という最強の敵と戦っておる。……お前は、あやつと共に戦うと約束したのだろう?」
祖父がニカッと笑い、わたしの背中をバシッと叩いた。
「ならば、最後まで逃げずに傍にいてやれ! 武器など捨てて、魔力など空っぽにして、ただの『レヴィーネ』として、あやつの魂に吼えてやるのじゃ!」
「……ッ!」
視界が開けた気がした。
そうだ。
わたしは何を迷っていたんだ。
魔力が邪魔なら、全部吐き出せばいい。
武器が毒なら、置いていけばいい。
わたしにはまだ、この身一つがあるじゃないか。
「……ありがとう、お祖父様。目が覚めました」
わたしは立ち上がった。
そして、足元の影に向かって、強く念じた。
(しばらくお別れよ、相棒。……今回は、お留守番していなさい)
わたしは『漆黒の玉座』へのリンクを、意図的に遮断した。
そして、屋敷の宝物庫から「あるもの」を取り寄せた。
かつて「獣の穴」で修行時代につけていた『封魔の首輪』。
それだけではない。
手首、足首にも装着する、黒鉄の重厚な枷――『封魔の拘束具』一式だ。
ガチャリ。
首輪をはめる。
呼吸が重くなる。
ガチャリ。
手枷をはめる。
指先が鉛のように重く、痺れる。
ガチャリ。
足枷をはめる。
立っているだけで精一杯の、圧倒的な倦怠感。
魔力回路が強制的に閉ざされ、身体強化が霧散する。
今のわたしは、ただの重い肉体を持った、無力な少女だ。
「……重いわね」
わたしは壁に手をつき、荒い息を吐いた。
一歩踏み出すだけで、脂汗が出る。
「でも……これがあの子の感じている『日常』なのよね」
わたしは顔を上げた。
体が重い。
風が冷たい。
けれど、心は軽い。
「行ってきます」
わたしは祖父に一礼し、ノアの病室へと向かって歩き出した。
鎖の音を響かせながら。
かつてないほど無防備で、そして誰よりも強い足取りで。
◆◆◆
病室の扉を開ける。
ベッドの上で、ノアが浅い呼吸を繰り返していた。
その顔は白く、死相が漂っている。
「……姐、さん……?」
わたしが入ると、ノアが薄く目を開けた。
わたしはベッドの脇に椅子(普通の木製椅子だ)を引き寄せ、重い体を沈めるように腰掛けた。
「遅くなってごめんなさいね。……少し、着替えに手間取っていたの」
わたしはノアの手を握った。
魔力を完全に消したわたしの手は、以前よりも温かく感じられたのか、ノアが安堵したように息を吐く。
「その、恰好……」
「ちょっと不格好、かしらね? ……でも、これで対等に話せるわ」
わたしは枷を見せびらかすように笑った。
「ふふっ……でも……僕、もう、ダメみたいです」
ノアが掠れた声で言う。
「悔しいな……。もっと、生きたかった。姐さんみたいに、強くなりたかった……」
その目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
わたしは彼の手を両手で包み込み、真っ直ぐに見つめ返した。
「まだ終わっていないわ。……終わりの鐘は、まだ鳴っていない」
「え……?」
「見せてあげるわ、ノア。……貴方が憧れた『悪役』の、一番の見せ場を」
わたしはニヤリと笑った。
それは、彼を励ますための優しい嘘ではない。
これから始まる、一世一代の興行への招待状だ。
「明日の朝、窓の外を見ていなさい。……特等席を用意させるわ」
「……何を、するんですか?」
「決まっているでしょう? 『バトルロイヤル』よ」
わたしは宣言した。
武器も魔法も使わない。
小細工なしの、魂と魂のぶつかり合い。
この消えゆく命の灯火に、最後の燃料をくべるための、熱狂のステージ。
「ヴィータヴェン家総出で、あなたのために戦ってあげる。……目に焼き付けなさい。これが、『生きる』ということよ」
ノアの瞳に、最期の、そして一番強い光が宿った。
「……はいッ! 見ます! 絶対に……!」
約束は交わされた。
さあ、忙しくなるわよ。
リングの設営、選手の招集、そして何より――わたし自身の、魂の仕上げ。
待っていなさい、死神。
アンタがこの子を連れて行く前に、一生忘れられない『名勝負』を見せつけてやるわ。




