第032話 味噌汁の味
地下迷宮での決戦から数時間後。
外はすっかり朝になっていた。
わたしは意識を失ったアリスを担ぎ、学園の隠れ家――旧校舎の「ちゃんこ道場部室」へと連れ帰っていた。
「……ふぅ。疲れたわ」
わたしは重たい戦闘用ドレスを脱ぎ捨て、メイクを落とした。
そして、ミリアに特注させたえんじ色の芋ジャージに着替え、洗顔用のヘアバンドで髪を上げた。
鏡に映るのは、最強の悪役令嬢ではない。
ただの、仕事終わりの疲れた女だ。
「……さて。朝ご飯でも作りますか」
わたしは魔導コンロに火をつけ、小鍋で湯を沸かした。
取り出すのは、ミリアの実家から取り寄せたミソと、乾燥ワカメ、そして刻んだネギ。
コトコトと煮える音。
立ち上る湯気と共に、懐かしい大豆の発酵した香りが部屋に充満し始める。
その香りに誘われるように、ソファのアリスが身じろぎした。
「……ん……。いい匂い……。お母さん……?」
「残念。お母さんじゃなくて、悪役令嬢よ」
アリスがガバッと起き上がる。
「えっ、レヴィーネ!? ……って、ええええ!? な、なによその格好……! ダサっ……いや、なんか逆に一周回ってアリなような……」
「うるさいわね。オフくらい好きにさせなさいよ」
わたしはお椀に味噌汁をよそい、彼女に差し出した。
「ほら。飲みなさい。……毒なんて入ってないわよ」
アリスはおずおずとお椀を受け取る。
湯気と共に立ち上る香りに、彼女の瞳が揺れた。
一口、啜る。
その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……美味しい。……懐かしい味……」
「でしょうね。ミリアの実家の味噌よ。意外と本格的なの」
わたしも自分の分を啜り、ソファの反対側に座り込んだ。
五臓六腑に染み渡るとはまさにこのことだ。
戦いの疲れが、温かい汁と共に溶けていく。
意外なことに、アリスは管理者に飲み込まれている間のことを全て覚えていた。
自分が何をさせられていたのか、世界中を巻き込んで何をしようとしていたのか。
その罪の重さを、今の彼女は正確に理解していた。
「……その、助けて、くれたんだよ……ね?」
「ええ。ぶん殴って、ひっくり返して、無理やり引きずり出したわ」
「そっか……。ありがとう、レヴィーネ」
アリスは膝を抱え、ポツリポツリと語り始めた。
気がついたらこの世界の赤ん坊になっていたこと。
生まれつき「魅了」の固有スキルと高い光魔法の適性を持っていたこと。
それを教団に見出され、「聖女」として祭り上げられたこと。
そして教皇――管理者に、「ここはゲームの世界だ」「君はヒロインだ」と囁かれ続け、いつしか現実感を失い、用意されたシナリオに溺れていったこと。
「神様に会ったわけでもないのに、都合の良い力が手に入って……。だから、本当にゲームなんだって信じちゃったの。自分が特別なんだって、思い上がって……」
アリスは何度も袖で涙を拭った。
彼女は加害者だが、同時に、この国の歪な仕組みが生み出した被害者でもあったのだ。
「あんたのその力も、この国にとっては都合の良い『集金装置』兼『洗脳装置』だったってわけ」
わたしは淡々と事実を告げた。
「この国は、大聖堂という巨大な魔導装置を使って、信者から魔力を吸い上げ続けていた。あんたの『魅了』は、その効率を上げるための撒き餌であり、世界中に信者を増やして内乱を起こさせるための兵器だったのよ」
「……私、なんてことを……」
「ええ、ひどいことだったわ。三流以下のシナリオだった。……でも、終わったわ。元凶はぶっ壊した」
わたしは空になったお椀を置き、彼女を見つめた。
「これからは、あなたの時間よ」
「私の、時間……」
「そう。こんなのは悪役の言うことじゃないけれど……強く生きていきましょ。ここが乙女ゲームなのか、小説なのか、よくわからないけれど……もう一回、生きるチャンスをもらえたんだから、さ」
それは、レヴィーネとしての言葉ではない。
かつて病室で死にゆく運命を呪い、それでも「生きたい」と願った、渡辺鷹乃としての言葉だった。
「リセットボタンはないけれど、コンティニューはできるわ。……せっかくの健康な体なんだもの。使い潰すくらい、楽しまなきゃ損でしょ?」
アリスは涙を拭い、味噌汁を飲み干した。
その瞳には、聖女でもヒロインでもない、等身大の少女の光が宿っていた。
「……うん。……ありがとう、レヴィーネ」
彼女は少しだけ笑った。
憑き物が落ちたような、弱々しくも確かな笑顔。
「ねえ。……もう少し、『昔』の話をしてもいい?」
「……ええ。付き合うわよ」
窓の外が完全に明るくなるまで、私たちは語り合った。
コンビニのスイーツのこと、アニメのこと、ゲームのこと、満員電車の不快さのこと。
この世界にはない、けれど私たちの魂に刻まれた、遠い遠い故郷の話を。
それは、最強の悪役令嬢と、元・聖女だけの、誰にも知られることのない「秘密の夜会」だった。
◆◆◆
事件の後、ラノリア王国は大混乱に陥った。
だが、ギルベルト王子があれ以降も拡大したちゃんこ道場門下生たちを率いて治安維持に当たり、「古代遺物による支配」の証拠を公表して新しい国づくりを宣言したことで、民衆は彼を熱狂的に支持した。
聖女アリスは、記憶の多くを――特に管理者による洗脳を受けたフリをして、レヴィーネへの感謝と友情の記憶だけを胸に、ギルベルトの温情により、辺境の修道院で静養することになった。
そして、わたしは。
「……さて。この国も随分と騒がしくなりましたわね」
港の桟橋で、わたしは出航の準備を整えていた。
見送りには、ギルベルト王子と、ミリア率いる「親衛隊」の大群衆が押し寄せている。
彼らの手には、お土産の「聖都煎餅(焦がしショーユ味)」や、新名物となった「農家のミソ」の瓶が握られている。
そう、わたしの父が手配した交易船によって、帝国から大量の醤油と味噌が届き、ラノリアには空前のミソ・ショーユブーム、そして「ちゃんこブーム」が到来していたのだ。
「姐さん! 本当に行ってしまうのですか!?」
ギルベルトが男泣きしている。
立派な筋肉がついた腕で涙を拭う姿は、もう以前のひ弱な王子ではない。
「ええ。ここの『掃除』は終わりましたもの。それに……向こうのスポンサーから、新しい依頼が届いたのよ。『さらに厄介な害虫が見つかった』ってね」
わたしはニヤリと笑い、彼らに背を向けた。
別れの言葉はいらない。
背中で語るのが、悪役の流儀だ。
「レヴィーネ様ー! どこへ行っても応援してますー!」
「筋肉万歳! 物理万歳! ちゃんこ万歳!」
熱狂的な歓声を背に、わたしはタラップを登った。
手には鉄扇。
影には最強の相棒『漆黒の玉座』。
そして心には、揺るぎない悪役の矜持。
「さあ、次のリングへ向かいましょうか。……世界中を、わたしの色に染め上げるために!」
船が汽笛を鳴らす。
最強の悪役令嬢の旅は、まだまだ終わらない。
彼女が振るう「漆黒の玉座」が、理不尽なシナリオを全て粉砕し、この世界を「最高のエンターテインメント」に変えるその日まで。
【第4部 聖教国ラノリア・殴り込み編】、これにて完結です。
次章ではいよいよ帝都に帰還。数値至上主義への粛清が始まります。
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それではまた次の部でお会いしましょう。
押忍!!




