第023話 落ちこぼれ王子
ギルベルト王子を舎弟にして数日。
早朝の旧校舎裏庭で、わたしはギルベルトの基礎トレーニングを監督していた。
「ほら、腰が高いわよ! 屈伸はもっと深く! 勢いだけでやらない!」
「は、はいッ! ……うぐぐ、もう足が……」
生まれたての子鹿のようにプルプルと震えるギルベルト。
まだ基礎体力が足りない。
これでは「漆黒の玉座」のメンテナンス(磨き上げ)を任せることすらできないわね。
その時だった。
背後の茂みから、ガサリと音がした。
「……誰?」
わたしは瞬時に鉄扇を抜き、殺気を飛ばした。
教団の監視者か? それともアリスの取り巻きか?
「ひゃうっ!?」
茂みから飛び出してきたのは、小柄な人影だった。
見覚えのある栗色の髪と、小動物のような瞳。
そして、その背中には……異様に巨大なリュックサックを背負っている。
「……ミリア?」
わたしは目を疑った。
そこにいたのは、帝国の貴族院で「レヴィーネ様親衛隊」を率いていたはずの、ミリア・コーンフィールド男爵令嬢だったのだから。
「レ、レヴィーネ様ぁぁぁッ!!」
ミリアは感極まった声を上げ、猛ダッシュでわたしに抱きつこうとした。
わたしはそれを鉄扇で額を押さえて止める。
「ちょっと待ちなさい。なぜあなたがここにいるの? 貴族院はどうしたの?」
「えへへ……。レヴィーネ様がいない学園なんて、茶葉の入っていない紅茶のようなものですから!」
ミリアは鼻息荒く言い放った。
「いてもたってもいられず、休学届を出して追いかけてきちゃいました! よいしょっと」
ミリアは巨大なリュックを下ろしながら事もなげに言う。
ズシン、と岩を落としたような音を立てて降ろされたリュックからは、どこか懐かしい匂いがした。
「追いかけてきたって……あなた単位は……いえ、それより国境はどうしたのよ? 海を渡るのよ?」
帝国とラノリアを結ぶ航路には「魔の海域」がある。
正規の交易船でさえ護衛が必要なのだ。
それをどうやってすり抜けてきたのか――いずれ、この件で誰かに見咎められないとも限らない。
頭の片隅にそう留めておく。
「貴族院の単位は全部取得済みです! それと海は貨物船の中に隠れて密航……あ、いえ、『非正規留学』してきました!!」
「……たくましいわね、あなた」
わたしは呆れると同時に、感心した。
魔力も腕力も乏しい彼女が、単身海を渡るなど正気の沙汰ではない。
それを可能にしたのは、純粋すぎる信仰心か。
その一点だけを評価すると、ひょっとしたら彼女はかなりの「怪物」なのかもしれない。
「あ、あの……姐さん。この方は?」
ポカンとしていたギルベルトが尋ねる。
ミリアの目が光った。
「姐さん……? あなた、新入りですね?」
ミリアはギルベルトに歩み寄り、ジロジロと値踏みするように観察した。
その態度は、さっきまでの忠犬のようなものとは一変し、古参信者としての貫禄に満ちている。
「あ、ああ。ラノリア王国第三王子のギルベルトだ」
ギルベルトが屈伸しながら応えた。
「王子殿下? ……ふうん。まぁ、身分なんて関係ありません。ここではレヴィーネ様への忠誠度と、筋繊維の太さが全てですからね」
ミリアはリュックからジャージを取り出すと旅装の上から羽織り、堂々と言い放った。
ジャージには「親衛隊長」と刺繍がされている。
「私はミリア。あなたの『姉弟子』にあたります。……その屈伸、型が甘いですよ? 膝がつま先より前に出ています!」
「えっ、あ、ああ。そうだな」
「レヴィーネ様の美学を体現するには、指先一つの角度までこだわらなくてはなりません……ほら、こう!」
ミリアが手本を見せる。
得体の知れない重そうな荷物を背負っての長旅直後だというのに、そのフォームは深く、美しく、そして一切のブレがない。
いつの間にか随分鍛えこんだようだ。
帝都でわたしの行く先々に現れ、これみよがしにトレーニングをしながらチラチラ見てくるのを見かねて、何度かアドバイスをしたのが功を奏したらしい。
「す、すごい……! なんてリズミカルでしなやかなんだ……!!」
ギルベルトが戦慄する。
わたしはフッと笑った。
使える手駒が増えた。
それも、わたしの流儀を熟知している、最高の即戦力が。
「いいでしょう、ミリア。その根性に免じて、随伴を許可します」
「本当ですか!? やったぁ!」
「ただし! ギルの指導係と、身の回りの世話、マネージャー業務、そして……現地の情報収集。こき使うわよ?」
「望むところです! 一生ついていきます、レヴィーネ様!!」
海外遠征先の裏庭で鍛錬をしていたら、舎弟が二人生えたのだった。
◆◆◆
その日の夕刻。
三人での初めての食事は、学園近くの安宿の食堂で取ることになった。
メニューを開いたわたしは、思わず眉根を寄せた。
「……パンと、具の少ないスープ。あとは干からびた葉野菜のサラダ、ですって?」
「ラノリアでは、質素倹約こそ美徳とされていますから。肉食は野蛮の証、贅沢は教義に反するとされているんです」
ミリアが給仕からもらった案内板を見ながら説明する。
わたしは運ばれてきたスープを一口すすり、こめかみを押さえた。
味付けは塩のみ。
出汁もなければ、旨味の欠片もない。
ただ茹でた水に近い。
「……ギル。これで筋肉が育つと、本気で思っていて?」
「え……? いや、その、皆こうやって育つものだと……」
ギルベルトが青い顔でパンをかじる。
パサパサとした干からびたパンは、まるで前世の非常食のようだった。
「あり得ませんわ。筋肉の材料は食事から作られるのです。たんぱく質も、脂質も、糖質も足りていない。これでは、いくら鍛錬を積んでも土台が育たない」
わたしは深いため息をついた。
思えば、この国の住民たちは皆、どこか覇気のない、虚ろな表情をしていた。
あれは精神汚染の影響だけではなく、単純な栄養不足も一因なのかもしれない。
「姐さん、でも……この国の食事情はどこもこんな感じです。市場を見て回りましたが、香辛料も、良い出汁になりそうな乾物も、ほとんど売られていません」
ミリアの報告に、わたしは腕を組んだ。
(栄養不足の虚ろな瞳の住民たち。精神汚染の温床。そして、鍛錬しても育たない体……)
これは、単なる食文化の違いでは片付けられない問題かもしれない。
「……いいでしょう。この国に足りないもの、わたしが持ち込んで差し上げますわ」
わたしはナプキンをテーブルに叩きつけると、静かに、しかし確かな決意を込めて立ち上がった。
ギルベルトとミリアが、揃って首をかしげる。
「レヴィーネ様……?」
「あなたたち、覚悟なさい。明日から、この国の食卓に――革命を起こしますわよ」




