第017話 裏の依頼
その日の深夜。
貴族院の女子寮にある自室で、わたしは優雅にティータイムを楽しんでいた。
(……ふむ。今週は十五人の「患者」を治療したわね。ペースとしては悪くないけれど、モグラ叩きの域を出ないわ)
わたしは手元のリスト――治療した生徒の名前と、その背後関係を記したもの――を眺め、ため息をついた。
その時だった。
部屋の隅、蝋燭の光が届かない影が、不自然に濃くなった。
「……深夜に淑女の寝室に忍び込むなんて、感心しませんわね。どなたかしら?」
わたしが影に向かって声をかけると、そこから音が滲み出るように、聞き慣れた冷ややかな声が返ってきた。
「――警戒心は合格点ですね。ですが、殺気を隠しきれていませんよ、レヴィーネ様」
影が人の形を成し、そこからオルガ先生が姿を現した。
そして、先生の背後の闇から、二つの人影が静かに浮かび上がった。
一人は、知的で穏やかな風貌の青年。
貴族院の三年次に在籍しているはずの、第二皇子殿下。
もう一人は、氷の彫像のように美しい女性。
二年次に在籍する第一皇女殿下だ。
わたしは慌ててソファから立ち上がり、カーテシーの姿勢を取った。
内心では「マジかよ、皇族直々のカチコミ!?」と焦りまくっていたが、顔には出さない。
「楽にしてくれ、ヴィータヴェン嬢。見ての通り、今日はお忍びだ」
第二皇子が穏やかな声で言った。
彼らは、わたしの学院での『活動』――生徒たちへの暴行と、奇妙な『治療』行為について全て把握していた。
「礼を言う。君のおかげで、最悪の事態は免れている」
皇子が苦笑する。
「あの黒い魔力の霧は、同盟国であり仮想敵国でもある隣国、ラノリア王国が開発した精神汚染術式なの」
皇女がそう説明した。
彼女自身も影魔法の使い手であり、母である皇妃から、帝国の暗部を担う諜報機関『宮家の影』の長を継いで、独自に調査を進めていたのだという。
(……ラノリア)
我がヴィータヴェン辺境伯領と国境を挟んだ隣国であり、同盟国――そして仮想敵国。
そして歴史上の関係としては、我がヴィータヴェン家とも浅からぬ因縁がある。
その国の名を聞いて、幼い頃に学んだヴィータヴェン家に纏わる記憶が、胸の奥でほんの少し疼いた。
(今は、目の前の話に集中しなければ……)
「だが、君が現れ、まだ部分的にではあるが物理的に問題を解決してくれている、というわけだ。……レヴィーネ・ヴィータヴェン。一つ、正式に頼みを聞いてほしい」
皇子の声色が、わずかに真剣なものへと変わった。
「工作員による陰謀の根源を断ち、この学院を洗脳から解放してほしい。……ただし、先に言っておかねばならないことがある」
「なんでしょう」
「これはあくまで『裏』の依頼だ。この問題を君が解決したとしても、表立って褒賞を得ることも、名誉を得ることもない。それどころか――」
皇子は、少し言いにくそうに続けた。
「今の、辺境から来た傍若無人な暴力令嬢という評判を、さらに強めることになるだろう。我々は、表向きは何も知らなかった顔をする。君だけが、全ての『悪評』を被ることになる」
部屋に、静かな沈黙が落ちた。
オルガ先生が、わずかに眉をひそめてわたしを見た。
皇女もまた、値踏みするような視線をこちらに向けている。
誰も褒めてくれない。
誰にも感謝されない。
それどころか、さらに嫌われ者になる。
(……ふぅん)
わたしは、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
「殿下の今のお言葉で、わたくしの気持ちは八割ほど決まりましたわ」
「……ほう?」
「ですが、なにしろ急なことです。どうか一晩だけ、考える時間をいただけませんこと?」
我ながら意外な返事だった。
二つ返事で受けてもよかったはずだ。
悪役として名を上げる、これ以上ない申し出なのだから。
けれど、頭の片隅を過ったのは、父の優しい笑顔、母の凛とした佇まい、祖父の豪快な笑い声、そしてオルガ先生の厳しくも温かい指導の日々だった。
(もしこれを受ければ、わたし個人だけでなく、ヴィータヴェン家の評判にも傷がつくかもしれない。それだけは、一晩、頭を冷やしてから決めたい)
「良いだろう。急かすようなものでもない」
第一皇女が小さく頷いた。
「では、明日の同じ時刻に、返事を聞かせてもらおうか」
皇子はそう言うと、皇女と共に、来た時と同じように影の中へと姿を消した。
部屋に静寂が戻る。
わたしは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
窓の外、月明かりに照らされた庭園を眺めながら、わたしは自分の胸に手を当てた。
(悪役の汚名を被ること自体は、望むところ。むしろ本望だわ)
けれど、それが『わたし個人』で完結する話なのか、『ヴィータヴェン家』全体に及ぶ話なのか。
その線引きだけは、はっきりさせておかなければならない。
わたしは冷めきったティーカップに手を伸ばし、口をつけた。
渋みだけが舌に残る、味気ない一杯だ。
思えば、こんな風に立ち止まって考えることは、この人生ではあまりなかった。
いつだって、勢いのままに突っ走ってきた。
この世界に転生したのだと知った日も、自分がすくすくと悪役令嬢顔に育っていると認識した日も、獣の穴への入門を志願した日も、迷いなど欠片もなかったはずだ。
それなのに、今夜だけは違う。
嬉しいはずの申し出を前に、こんなにも慎重になっている自分がいる。
(それだけ、大切なものが増えたということかしらね)
守るべき居場所と、愛する人たちの顔。
悪役として生きると決めた日から、わたしの拳は誰よりも自由だったはずなのに、今は不思議と、その自由の意味を噛み締めている。
一晩、考える。
今夜だけは、悪役令嬢ではなく、ただの『レヴィーネ・ヴィータヴェン』として。




