第26話 神の風
「左舷帆角三十! 津波の吹き戻しを利用しろ!」
船長の咆哮は耳を劈く波濤の音にかき消されそうだったが、バチェラシュの水手たちは皆、ゼンマイを巻かれた人形のように正確な動作で命令を遂行していた。
今や、この十五隻の戦艦は独立した個体ではない。木材と鉄で編み上げられた、巨大な「浮動マトリックス」と化していた。
俺たちは帆の角度を調整し、山脈のごとく倒れ込んでくる波の壁へと向かう。
海嘯を前にして通常なら、船は粉砕を避けるために波の流れに沿って進むものだ。
だが、今の俺たちはあえてそれを利用しようとしていた。
切り立った波頭が空気を押し出し、強烈な上昇気流を生む。
その風が猛烈な勢いで帆に流れ込み、連結された島のような艦隊を、荒れ狂う海面の上へと爆発的に跳躍させた。
「まだ足りない……この程度の推力じゃ、あの三柱の神霊からは逃げ切れない!」
旗艦の船尾に立ち、俺は甲板の隙間に両足を固く固定した。
深く息を吸い、背後で逆巻く海水に両手を浸す。俺の意識は水面を突き抜け、この果てしない「青」の領域と直結した。
今回は、一過性の爆発的な衝撃を求めているんじゃない……。
「水門のガーディアンよ。
こんな真似、俺にできるか?」
指先の前に、十数個の微小ながらも高密度なボルテックスを凝縮させる。
エネルギーを一気に解放するのではなく、ジェットエンジンのように、高圧の水流を緩やかに、かつ持続的に後方へと噴射する。
『スキル使用手順を記録――ジェット・プロパルジョン』
今や水魔法は、俺の手の中で単なる殺傷用の弾丸ではなく、巨大な艦隊を動かす「外付け推進機」へと進化した。
青い魔力の光輝が船尾で爆発すると同時に、艦隊の速度は一気に跳ね上がり、海面に十五本の長く白い航跡を刻み込んだ。
それを見たベヒーモスの巨躯が、山岳のごとく高く跳躍し、再び艦隊の背後へと着水した。
呼応するようにリヴァイアサンが深海で暴れ、次々と巨大な波を巻き起こして俺たちを飲み込もうとする。
だが、今の俺にとって奴らの興す波風は、もはや恐怖の対象ではなかった。
俺のジェット・プロパルジョンによるエネルギーと、連結された十五隻の安定した質量があれば、どれほど巨大な波であっても、それは俺たちを先へと押し出す推力に過ぎない。
「成功だ! 引き離したぞ!」
グルルが興奮した様子で戦鎚を振り回した。
放たれた矢のごとく、俺たちは神霊の包囲網を突破し、三柱の巨大な神影がみるみる小さくなっていくのを見送った。
しかし、しばらくコンパスを眺めていたグルルの顔から、次第に興奮が消え、深い困惑へと変わっていった。
「ガーディアンの旦那、逃げ切れたのはいいんだが……この方向じゃ、まるで家に帰るのと変わらねぇんじゃねぇか?」
彼の言葉は冷や水となって、俺の達成感を一瞬で奪い去った。
「まずい……!」
脳裏に閃きが走る。この試煉に隠された真の罠に気づいたのだ。
俺たちはバハムートの意図をまた誤解していた。奴は確かに死闘を求めてはいないが、ただ命からがら逃げ出すことを求めているわけでもないのだ。
バハムートは死の海へと続く航路を封鎖している。
ただ後ろ向きに逃げるだけでは、それは前進をあきらめることに過ぎない。
俺たちは奴ら三柱を突き抜け、その防衛線を横切ってこそ、初めて試煉を越えたことになるんだ。
「全艦隊へ告ぐ! 反転だ、大きく旋回して戻るぞ!」
俺は舵輪の傍に立つ司令に向けて叫んだ。
「引き返すんだ! 奴らの真っ只中を突き抜ける!」
艦隊司令の皺刻まれた顔が僅かに引きつった。この荒れ狂う海上で反転するなど、自殺行為に等しい。
だが、彼は俺を深く見つめ、その不屈の眼差しで応えた。たとえこのまま地獄へ突っ込むことになっても、迷わず舵を取るという信頼。
「水門のガーディアンの命である! 全員注意せよ、面舵いっぱい――反転だ!」
十五隻の船は、俺の推進力と水手たちの超人的な操船技術により、波頭の上で奇跡に近いスピンターンを完成させた。
もう、背後を向いて怯えることはない。
「帆をすべて畳め! 最も高い波の壁に向かって突き進むぞ!」
重なる奇跡の数々に、船員たちはもはや俺を疑うことをやめていた。
俺が指し示した、数十メートルにも達する切り立った海壁に向かって、水手たちは咆哮を上げ、神霊の威圧へと真っ向から戦艦を衝突させた。
海上の船からすれば、波とは襲いかかってくるものではない。莫大なエネルギーによって、その場で高く引き抜かれているだけなのだ。
「登れ……登り詰めろッ!」
狂ったように魔力を出力する。こころが引き裂かれるような感覚に襲われる。
垂直に近い海壁を、これほどの質量を率いて上昇させる。一秒ごとに、神経を削り取るような致命的な負荷が襲いかかる。
「う……ああああああ!」
激痛で視界が暗転し、鼻からは鮮血が滴り落ちた。
魔力の激流による負荷はとうに限界を超え、制御が霧散し始める。艦隊は中空で激しく揺れ、墜落の危機に瀕した。
その時、冷たくも力強い手が、俺の手首をしっかりと掴んだ。
清涼な、草木の香りを孕んだ治癒のエネルギーが経絡へと流れ込み、傷ついた神経をなだめていく。
「旦那、無理ならそう言ってくれよ!
ガーディアンが倒れちまったら、
俺たち艦隊全員お陀仏なんだからよぉ!」
ハスタナイは相変わらずの緊張した面持ちだったが、その普段は不真面目な瞳には、確かな信頼の光が宿っていた。
彼は単に治療しているのではない。
俺の神経にかかる負荷を、共に肩代わりしてくれているのだ。
「助かる……これからはもっと、お前たちを頼らせてもらうよ」
感謝を込めてその手を強く握り返すと、視界が再び鮮明になった。
「出力、全開――!!」
噴射推力がこの瞬間に頂点に達する。
十五隻の戦艦は、ついに奇跡を成し遂げ、波頭の最頂点へと這い上がった。
その瞬間、時間が止まったかのように感じた。
俺たちは波の頂に立ち、雲の端に漂う白金の巨龍――バハムートの化身と視線を交わした。
ルビーのごとき巨大な双眸の中に、怒りはなかった。
そこにあったのは驚きであり、人間の胆力に対する賞賛であり、そして……成長を見守る長老のような、欣快の色だった。
直後、重力が世界を支配した。
大波が崩落し、猛烈な落差によって艦隊は深淵へと自由落下を始める。内臓が浮き上がるような無重力感に、全員が絶望的な悲鳴を上げた。
『帆を張れ。』
神聖で、壮大で、威厳に満ちた声が、全員の魂に直接響き渡った。
バハムートの本体そのものの声だ。
考える余裕などなかった。俺たちは本能的にその意思に従った。
「帆を! 早く帆を下ろせ!」
水手たちが転がるように索具に飛びつき、十五枚の巨大な帆が中空で一斉に開かれた。
艦隊が水面に叩きつけられ、砕け散る寸前。背後から、途方もなく巨大な神の風が吹き抜けた。
振り返れば、そこにはプラチナの巨龍がいた。奴は空を覆う両翼を、俺たちの背に向けて力強くあおいだのだ。
整然とした艦隊はその風を孕み、海面上を驚異的な距離で滑走した。そして最後は、まるで一枚の羽毛のように静かに、平穏を取り戻した海面へと着水した。
やはり神というべきか。今回のバハムートには、ボールの翻訳すら必要なかった。
『貴殿らは優れた水手であり、勇気ある冒険家である。』
神魚の影が再び水面に浮上する。
重低音の響きが、全員の胸を震わせた。
『死の海を越える資格がある。
我はそれを認めよう。』
神魚はゆっくりと艦隊の傍らへと泳ぎ寄る。その体躯は、どの島よりも雄大だった。
『行け、死の海の先へ。だが忘れるな。海上の死物どもと徒に戦ってはならぬ。
貴殿らの戦場は海にあらず、陸にある。
汚れの根源たるフィナリの勢力を討て。
死の蔓延が止まれば、大海の生命力が自ずと穢れを飲み込むであろう。』
「よしきた! これで俺たちの目的と、
ベイからの任務が一つに繋がったな!」
俺は鼻血を拭い、仲間たちに向けて勝ち誇るように手を高く掲げた。
『最後にもう一度、我の送り火を授けよう。異世界のガーディアンよ。』
バハムートが優雅に尾を揺らすと、海面の深部から淡いブルーの輝きを放つ強大な海流が巻き起こった。
俺たちの艦隊はその海流に乗り、凄まじい速度で、影に閉ざされた死の海域へと突き進んでいった。




