第24話 神魚バハムート
風が完全に止まったその瞬間、世界はまるでミュートボタンを押されたかのように静まり返った。
バチェラシュのこの重武装艦隊は、本来、南方大洋において何物にも屈しない存在であるはずだった。
だが、数キロメートルにわたって横たわる深い青色の魚影の前では、十五隻の戦艦も水牛の体に付いたダニのように小さな存在に見える、神の呼吸の間にただ卑屈に漂うことしかできなかった。
空気には重苦しい威圧感が充満し、あまりの息苦しさに胸が詰まりそうになる。
静寂を破ったのは、一斉に何かが床に落ちる音だった。
俺が振り返ると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
艦隊司令や歴戦の船長から、つい先ほどまで油まみれの手で海蛇の肉を頬張っていた水手たちに至るまで、例外なく全員が武器や食器を投げ出していた。
彼らは魚影が泳ぎ去る方向へと向かい、両膝を突き、額を粗末な甲板に深く押し当てている。
バチェラシュの人々はバハムートを恐れてはいない。
少なくとも、それはネズミが猫に遭遇した時や、獲物が捕食者を前にした時のような純粋な恐怖ではなかった。
彼らの伝承において、バハムートはこの蒼き領域の唯一の主宰者である。
その尾鰭が引き起こす暴風は遥か内陸へと吹き込み、イチネ河の上流に万物を潤す降雨をもたらす。
南方を巡航すれば、都市をも破壊しかねない巨大な海獣を追い払い、悪逆な海賊を丸ごと飲み込んで海の糧とする。
彼らにとって、バハムートは父であり、母であった。
そして今、このバチェラシュの子供たちは、両親から厳しくも悲しげな眼差しを向けられているかのように感じていた。
自分たちがどこで間違えたのか分からぬまま、本能的にその心を締め付けるような重圧を感じ取っていたのだ。
「慈悲深き神魚よ……どうかお怒りをお鎮めください……」
艦隊司令は舵輪の傍らで膝をつき、震える声で呟いた。
幾多の刀剣を握り、タコだらけになったその手で甲板の隙間を必死に掴んでいる。皺を伝って、涙が無言で零れ落ちた。
祈りの声と懺悔の言葉が、十五隻の艦船から次々と沸き起こる。
「この感覚……怒りとは別の何かだわ」
シーリンは皆が気づいていない細かな違和感を鋭く察知したが、それでもその顔は蒼白だった。
神魚の放つ威圧感は、すでに人間の理性が耐えられる範疇を完全に超えている。
「この海域が……嘆いている」
ハスタナイもまた、この時は異常なほど真剣な表情を見せていた。
彼は素早くバックパックから、白檀の香りが漂う数本の薫香を取り出した。
自らの信仰する儀式に則り、彼は薫香を焚く。指先に翠緑色の神聖なエネルギーを纏わせ、水手たちの心を鎮めようと試みた。
船首の衝角の上では、先ほどまで威風堂々としていたグルル、ガルラ、チュパカの三人が、さらに原始的な反応を見せていた。
彼らは全身の鱗を硬く閉じ、腹部を甲板に密着させて、低く規則的な唸り声を漏らしている。
「ガーディアンの旦那……」グルルがその深い青を見つめたまま、絞り出すような声で言った。
「絶対に、あの方を怒らせるんじゃねぇぞ……」
俺は頷いた。
俺は、このバハムートを信仰する者たちのように、感覚だけで「天の啓示を受けた」と思い込むことはできない。
人生で初めて神に出会った時、俺はこっぴどく担がれた。その経験から、これからはもっと現実的な路線で行くと決めたのだ。
そして現実主義者である俺は今、巨大な難題に直面している。――神が何を言っているのか、さっぱり分からないのだ。
海が震え始めた。
海面と空が巨大なスピーカーになったかのように、重低音のエネルギーが俺の臓器を激しく震わせる。
海面には無数の波紋が現れた。それは波よりも強く、ミキサーのレベルメーターのように一定の音律に従って上下に跳ねている。
「バハムート様がお話しになられている!」
艦隊司令が狂信的に叫ぶ。
「我らの罪を裁いておられるのだ!」
「まさか……この中に指弾するような感情は感じられないぞ」
俺は眉をひそめ、その波紋を凝視した。
言語は違えど、感情の伝播の仕方は同じはずだ。
海面の波紋には明確なリズムがある。その跳ね方はまるで録音機のスペクトラムのようだ。これは間違いなく言語だ。
ただ、その発声方法は、我々人間が聞き取れるものとは根本的に異なっている。
象や鯨が超低周波で情報を伝達するように。
もしこの波動を録音し、機械で適切に分析することができれば……。
俺には翻訳者が必要だ。
種族や生命形態を超越し、情報伝達の本質を解読できる翻訳者が。
「ボール!」
俺は隣に立つ銀色のゴーレムへと勢いよく振り向いた。
忠実なる機械は、今や俺と完全に心を通わせているようだった。
俺が向き直った瞬間、ボールの胸にあるコアが平穏な青い光から、激しく明滅する赤白の光へと切り替わった。
重厚な金属装甲が微かに震え始め、自らのオーディオセンサーを調整している。
やがてボールのコアは完全に安定し、低く機械的でありながら、どこか神聖さを帯びた共鳴音を放った。
『死が……この海域を……汚している……』
ボールの言葉が拡音機能を通じて旗艦全体に響き渡る。
その言葉を聞いた水手たちはさらに深く平伏し、自分たちの懺悔が神に届いたのだと信じて、狂ったように額を叩きつけた。
「ボール、続けろ」
俺はこの事態を解決する方法を見出した。
ボールのコアが点滅し、より長く、完全な一文を翻訳する。
『迷える子らよ、これ以上進んではならぬ。汝らが手にするのは果てなき死のみ。魂は蝕まれ、肉体は堕落の一部と化すであろう……引き返せ、陸の地へ』
「バハムート! 汝はこの海の人々を守っているのか!」
俺は一歩前へ踏み出し、平穏ながらも威厳に満ちた海面に向かって大声で問うた。
俺の声は空虚な海域に虚しく響き、自分たちの存在がいかに小さく見えるかを思い知らされる。
周囲の海面が激しく一度跳ねた。
『私は彼らを守り、同時にこの海をも守っている……彼らを、「死の海」を潤す養分にさせるわけにはいかないのだ』
「死の海?」シーリンが俺の傍らに並び、答えを見つけたかのように言った。「それはバチェラシュの航路にある脅威のことなの?」
ボールが同期して翻訳を続ける。
『巨大な死の集合体。不浄なる儀式によって失われた無数の命。その怨嗟と腐肉が陸の水道より集まり、この清浄なる青へと浸食している』
俺の心臓がどきりと跳ねた。
数日前、イチネの下流で処理したあの血肉の塊を思い出す。強制的に繋ぎ合わされ、蠢き続けるあの冒涜的な「産物」だ。
まさか、あれですら「死の海」の氷山の一角に過ぎないというのか。
「それならば、なおさら退くわけにはいかないわ」
シーリンが船べりに足をかけ、海風に髪をなびかせながらも、彫像のように毅然とした姿で立った。
「不浄な儀式で死んだ命がどこから来たのか、私は知っている。それはフィナリの手下が仕組んだことよ。私たちの目的は、その儀式を執り行う者たちを終わらせること。今引き返せば、死の力は肥大し続けるだけだわ!」
サハギンたちも立ち上がった。
グルルは戦鎚を握り直し、足はまだ震えていたが、その瞳には闘志が宿っていた。「これほど面白そうな冒険、見逃す手はねぇな!」
ハスタナイも頷き、いつもの軽薄さを消して法杖で甲板を叩いた。「あんな不浄なものがのさばるのを放っておくわけにはいかない。バハムート様が悩んでおられるなら、魔法と医術を使える僕らが加われば、少しは勝算も上がるんじゃないかな?」
俺は深く息を吸い、足下の戦艦の振動を感じながら、巨大な魚影を見上げて俺の考えを叫んだ。
「俺は水門のガーディアンだ。俺とここにいる仲間の幾人かは、その不浄なる死に直面し、それを乗り越えて生き延びてきた。これだけで……俺たちが十分に強いという証明にはならないか?」
海面は長い沈黙に包まれた。
その瞬間、極めて深く、遠い場所から放たれた視線が、俺の魂と仲間の全員をなぞっていくのを感じた。
やがて、バハムートの魚影が緩やかに浮上した。
ほんの一部ではあったが、銀藍色の背が水面に現れる様は、海の中に山脈がそびえ立つかのようだった。
鱗の間から滝のように海水が流れ落ちる。その一枚一枚の鱗が、救命ボートよりも巨大だった。
ボールのコアが、かつてないほどの強烈な振動を放つ。
『水門のガーディアン……いや、異世界からの被害者よ。汝の身に宿る水元素の喧騒が聞こえる。汝の魂は、混沌と強引に衝突する旋風そのものだ』
巨大な神魚が雲を切り裂くほどの鳴き声を上げた。それはまるで壮大な叙事詩のような響きだった。
『試練を受けよ。汝らの意志を、そして死に呑み込まれぬほどの強さを私に示せ。合格すれば、この海域は汝らの進むべき道を指し示すだろう。叶わぬならば……汝らの遺骸は私が預かり、海の輪廻へと還そう。あの堕落した死の集合体の餌食にさせるよりは、幾分かマシなはずだ』
つまり、この試練で死ぬこともある、という意味だ。
「試練とは何だ?」俺は拳を握り締めて問うた。
バハムートは答えなかったが、周囲の海水が猛烈な勢いで回転を始めた。
十五隻の戦艦はその強大な力に引き寄せられ、神魚を中心に直径数キロメートルの巨大な渦を形成していく。
『我は三位一体の死の海の門番。我はリヴァイアサン、我はベヒーモス、我はバハムートなり。我が追撃から逃れてみせよ。私から生きて逃げ切ることができたなら、死の海とて汝らを阻むことはできぬと信じよう』
バハムートの言葉が終わると同時に、渦の中心で無数の透明で純粋な水元素が凝縮し始めた。
水元素はゆっくりと、三つの巨大な神の影へと姿を変えていく。
深い藍の巨鯨リヴァイアサン。真紅の巨獣ベヒーモス。そして白金の巨龍バハムート。
テッテレー!
『ゴーレムレベルアップのイベント開始――神魚バハムートの試練』
やはりな。これほどの大事件だ、ボールがアップグレードされないはずがない。
「総員、戦闘準備!」俺は艦隊全体に向かって叫んだ。「バチェラシュの戦士に、神の瞳を直視する資格があることを証明するぞ!」
シーリンはシャムシールを抜き放ち、グルルは咆哮を上げ、ハスタナイの法杖が眩い光を放つ。
俺の手には周囲から水分が集まり始めていた。
ここは海の上だ、俺の弾丸は無限だ!




