第20話 ベイの招待
海辺の夕焼けは血のように鮮やかだったが、その壮麗さは、今の砂浜の光景とはあまりに不釣り合いだった。
排水口の出口で引き起こしたあの騒動は、決して簡単に隠し通せるような小さな事件ではなかった。
おぞましい不死の血肉塊が海へと押し流され、浸透圧によって萎縮し、三人のサハギンが放つ猛烈な水砲に晒され、さらには俺の、空気をさえ切り裂くような濁水カッターで薙ぎ払われたのだ。
――そして最後には、無数の残肢が積み上げられた火葬の山が海風の中で赤々と燃え上がり、その煙は天高く突き抜けていた。
こんな光景を目の当たりにして、近くの人間が集まってこないはずがなかった。
最初は、遠くで網を引いていた数人の漁師が手を止め、排水口から現れた化け物と変人たちの群れに驚愕して口をあんぐりと開けていた。
やがて、その知らせは翼が生えたかのように港の隅々まで広まっていった。
埠頭の荷役作業員、船を修理していた大工、さらには通りすがりの商人までもが続々と集まり、数十メートル先の砂丘から俺たちを指差してひそひそと囁き合っている。
そして最後には、整然とした甲冑の擦れる音とともに、バチェラシュ港の衛兵隊が到着した。
長槍を手にし、青白のタバードを纏った精鋭兵たちが、瞬く間に半円形の陣を敷いて俺たちを包囲する。
それを見て、俺は思わず後頭部が痺れるような感覚に陥った。
無意識に自分の姿を見下ろす。
全身はずぶ濡れで、服には正体不明の液体と海水の結晶がこびりつき、手の平には高頻度の振動による血が滲んでいる。
背後の排水口の鉄格子にいたっては、俺が蹴り飛ばしたせいで無残にひしゃげた鉄の屑と化していた。
……終わった。これじゃあ「公物損壊」か、あるいは「正体不明の遺体の勝手な焼却」の罪で逮捕されるに違いない。
俺が心の中で絶望していた、その時だった。予想していた怒号は飛んでこなかった。
衛兵隊長――丁寧に整えられた顎髭を蓄え、鋭い眼光を放つ男が、俺たちの五歩手前で足を止めた。彼は剣を抜くどころか、厳かに右手を胸に当て、深く腰を折ったのだ。
「水導きし偉大なるお方へ、敬意を。
私はバチェラシュの衛兵隊長です」
隊長の声は朗々と響き、その語気には畏怖に近い謙譲さが込められていた。
「皆様のお越しを、すぐにお迎えにあがれなかった非礼をお許しください」
俺は呆然と立ち尽くした。
魔力を解いたばかりの指先を所在なげに握りながら、隣に立つシーリンへと助けを求めるように視線を送る。
シーリンは対照的に落ち着いた様子で、優雅にシャムシールを鞘に収めると、深い瞳で周囲の兵士たちを見渡した。
彼女のその表情は、まるで「ようやくこの地に常識のある人間が現れた」とでも言いたげだった。
「ヤスト、抜けた顔をしてるわよ」
シーリンは微笑みながら俺の耳元で囁いた。
「あそこで何度も『ウォーターカッター』や『水弾』の連射を見せたでしょう? 水源こそが命であるこの国で、あのレベルの水元素操作を偽ることなんてできないわ。
今や彼らは、貴方のことを『水門のガーディアン』以外の何者でもないと確信している。それに……」
彼女は言葉を切り、俺が切り裂いたあの太い鉄柱に目を向けた。
「……貴方の見せた破壊力は、おそらくイキネイ流域全体で見ても、ここ数百年で最強のガーディアンと言えるでしょうね」
俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
まさか最強だなんて……俺はただ、生き延びたかっただけなんだが。
その場に奇妙な沈黙が流れたとき、海面から派手な水音が響いた。
「おっ! こんなに大勢でおいらたちを歓迎してくれるのか? この港の奴らは実に情熱的だな!」
グルルの野太い声が、張り詰めた空気を打ち破った。
三人のサハギンたちが巨大な網袋を背負い、波間から堂々と這い上がってきたのだ。
彼らの手には、それぞれキラキラと光り、
いまだにのたうち回っている海産物の束が握られていた。
地底湖の覇者であるサハギンの潜水能力と狩りの腕は、並の漁師を遥かに凌駕している。
彼らが無造作に掴んできたのは、普段なら深海の岩礁地帯でしかお目にかかれない珍品の数々だった。
拳ほどもある紫ウニ、おぞましい風貌のアンコウ、さらには銀色に輝く丸々と太ったハマダイまである。
遠巻きに見ていた漁師たちは、最初こそ魚の頭を持つ異族に警戒心を見せていたが、その稀少な獲物を目にした途端、強欲と好奇心が恐怖を塗りつぶした。
「おい! そこのサハギンの旦那! そのアンコウ、いくらで譲ってくれる!?」一人の勇気ある漁師が叫んだ。
グルルは上機嫌にエラを震わせ、鋭い牙の並ぶ口を大きく開けて笑った。
「売るだと? グルルおおじじ様は、お前らの持ってる光るだけの石ころなんて興味ねえ! 誰か、極上の砥石か丈夫な麻縄を持ってる奴はいねえか!? それと交換だ!」
一瞬にして、厳粛だった衛兵の包囲網は、混沌とした物々交換の市場へと変貌した。
グルルは太っ腹だった。巨大な鯛を数匹放り投げ、精巧な細工の革製矢筒や数樽のヤシ油を手に入れている。
さらに彼が真珠をいくつか取り出し、適当に放り投げようとしたときには、数頭の砂羯と荷車を引いて交換を申し出る者まで現れた。
陸の上で見事に立ち回る魚人たちの姿を見て、俺の張り詰めていた神経も少しずつ緩んでいった。
その時、衛兵隊長が再び一歩前へ踏み出し、粛然とした面持ちで俺を見つめた。
「ガーディアン様、バチェラシュのベイ――ラハトラマ様が、すでに監視塔からの報告を受け取っておられます」
隊長は誠実に言葉を継いだ。
「ベイ様は、貴方が示された奇跡に深く感銘を受けておられます。ぜひベイの屋敷へお招きし、直接お会いしたいとのことです。
すでに旅の汚れを落とすための浴場と、盛大な晩餐の用意も整っております」
「浴場」という言葉を聞いた瞬間、俺の目からは感動の涙が零れそうになった。
今はただ、この身体にこびりついたベタベタの海塩と汚れを根こそぎ洗い流したかった。
そこへグルルがズカズカと割り込んできた。突き出た死魚のような目で衛兵隊長を睨みつけ、不機嫌そうに鼻息を吹く。
「へっ! そこの乾いた陸の野郎ども、よく聞け!」
グルルは手にしたウニを振り回し、脅すように言った。
「この若者は強大なグルル様と共に戦った戦友だ。おいらたちサハギンの同盟者だぞ!
もしこいつに無礼を働いたり、政治的な陰謀に巻き込もうとするなら、それは地下河水系すべてのサハギンを敵に回すことだと思え、分かったか!」
衛兵隊長の口角が僅かに引きつった。
おそらく、ウニを握った魚に脅されたのは人生で初めてだろう。
だが彼は冷静だった。再び深く一礼する。
「ガーディアン様に無礼を働くつもりなど毛頭ございません。むしろ、その逆なのです……」
隊長の表情が曇り、声のトーンが重くなった。
「我らがベイ様には、どうしても水門のガーディアン様のお力を借りねばならぬ、喫緊の『厄介事』があるのです」
その言葉が発せられた瞬間、
グルルと魚を交換していた漁師たちの手が、
ピタリと止まった。
賑やかだった市場に、まるで静音ボタンが押されたような沈黙が訪れる。
年配の漁師たちは笑顔を消して互いに目配せをし、黙々と漁網の整理に戻った。
女たちは慌てて子供の手を引き、不安げな表情で街の中へと去っていく。
太陽と潮の香りに満ちていた空気に、突如として不穏な圧迫感が染み込んでいった。
まるで、この港の住人全員が、その「厄介事」の正体を知っているかのようだった。
「厄介事?」
俺の直感が告げていた。
それは決して、領主の庭の噴水を修理するといった類のご機嫌取りではない。
俺は隊長の期待と絶望が入り混じった瞳を見つめ、それから灰となったあの死骸の山へ視線を戻した。
シーリンが俺の傍らに立ち、そっと俺の腕に手を添えた。
彼女の視線もまた険しさを増している。
どうやら、この港の華やかさの裏側には、地下水路にも劣らない「汚れ」が潜んでいるらしい。
「ガーディアン様?」
隊長が再び問いかけてくる。
俺は溜息をついた。
身体は酷く疲れ切り、腹も悲鳴を上げている。
この物語のテンプレートにおいて、俺に拒否権なんて選択肢はないことくらい分かっていた。
「案内してくれ」
俺は傍らで、すでに安定した形を保っているクレイ・ゴーレムの頭を軽く叩いた。
「ただ、ベイに会う前に、どうしても風呂に入りたい。それから……最高にデカいパエリアを、一人前頼む」
衛兵隊長は安堵したように微笑み、脇に退いて道を開けた。
「承知いたしました。バチェラシュへようこそ、水門のガーディアン様」
夕陽の残光の中、俺たちはガーディアン、砂漠牧民の少女、クレイ・ゴーレム、砂漠豹、そして三人のサハギンという奇妙な一行を引き連れ、衛兵たちに護衛されながら、海の都の中心へと続く大通りをゆっくりと歩み始めた。




