第19話 大海の力
金属と骨が擦れ合う耳障りな音が、狭い水路の終端に響き渡っていた。
俺たちの行く手を阻んでいるのは、大人の腕ほどもある太い十四本の鉄格子だ。
長年、塩気を含んだ湿気にさらされていたせいか錆び付いてはいるが、その重々しい存在感は絶望を抱かせるには十分だった。
背後からは、あの巨大な「血肉のスライム」が、吐き気を催すような湿った音を立て、崩落する山のごとく俺たちを押し潰そうと迫っている。
「ちっ! たかが錆びた鉄棒じゃねえか!」
俺は怒鳴り、心の底から湧き上がるプレッシャーを怒りで吹き飛ばそうとした。
一気に脚を振り上げ、中央の一本に向かって渾身の蹴りを叩き込む。
頭の中では、その気合の一撃が金属をへし折り、脆い障害物を吹き飛ばす光景を思い描いていた。
ゴンッ――!
鈍い衝撃音のあと、鉄格子は微塵も動かなかった。
それどころか、凄まじい反動が踵から脳天まで突き抜け、脚全体が痺れて感覚を失う。
滑りやすい地面で危うく無様に転びそうになった。
「ヤスト! 大丈夫か!?」
シーリンが慌てて俺の肩を支えてくれた。
彼女のもう片方の手はシャムシールを握り締め、十メートル足らずの距離まで迫った融合屍体を警戒している。
「だ、大丈夫だ……ちょっと脚が痺れただけだ」
俺は歯を食いしばって立ち上がり、不格好に脚を振った。
どうやらこのハイレベルな地下水路において、物理的な蛮力で強行突破しようとするのは甘すぎたようだ。
俺は深く息を吸い込み、『水門のガーディアン』の称号がもたらす、絶え間ない水元素の感覚に集中した。
周囲の空気中の湿気、足元を奔流する水流――それらすべてが俺の感覚の延長となったかのように感じられる。
「みんな、少しの間だけ時間を稼いでくれ! 出口の邪魔者を切り裂く!」
グルルがそれを聞き、奇声を上げた。
『グルッ! 陸の者、何を企んでいるかは知らんが急げ! あいつの臭いでワシの鱗が全部剥げ落ちそうだ!』
言いざま、彼と二人の戦士は再び胸を膨らませ、高圧ウォーターキャノンを連射して肉塊の進行を無理やり遅らせた。
俺は向き直り、目の前の鉄格子を凝視した。
十四本、その一本一本を正確に切断しなければならない。
右手の食指と中指を突き出し、剣指の形を作る。指先に魔力を高度に圧縮し、周囲の水蒸気を無理やり極細の、だが不安定な一本の「線」へと凝縮させた。
「ウォーターカッター……いや、『濁水カッター』だ!」
ボールが差し出してきた熱砂を融合させ、褐色の高圧水線が指先から迸った。
今度はすべてのエネルギーを一点に集中させる。
射出される水刃には強力な反動があり、そのすべてを俺の手首が受け止めなければならない。
その水線はチェーンソーが削るような鋭い唸りを上げ、錆びた鉄格子に接触した瞬間、飛び散った飛沫が俺の全身をびしょ濡れにした。
『ギギギギギッ――!』
高圧と熱砂の研磨剤による相乗効果で、
一本目の鉄格子は熱したナイフでバターを切るかのように容易く両断された。
二本、三本……。
俺は自分が精密なレーザーカッターを操っているかのような感覚に陥った。
額を伝う汗が目に入り、激しく痛むが、まばたきすら惜しい。
一本切り落とすごとに、俺の中の勝算が確実に増していく。
十四本目に差し掛かった時、俺の体力は既に大半を使い果たしていた。
手首はちぎれそうなほど痛み、指先は高頻度の振動によって血が滲み始めている。
「最後の一本……断てぇっ!」
最後となる金属の破断音が響き、上部の支持構造がすべて切り離された。
魔力を解き放ち、俺はよろめく鉄柱に向かって、残った全力を込めた一蹴りを叩き込んだ。
『パオンッ!』
今度は反動ではない。
金属が歪む断末魔の響きだ。
半分切断された十四本の鉄柱は、不気味な弧を描いてひしゃげ、大人が通り抜けるのに十分な隙間が生まれた。
「走れ! 出口が開いたぞ! 外へ!」
俺は声を枯らして叫んだ。
俺は隙間の傍らに立ち、シーリンを先に通してチャクルを外へ逃がした。
シーリンは俺の横を通り抜ける際、心配そうに俺の指先を一瞥したが、すぐに決然と前方の強い光の中へと飛び込んでいった。
続いて三人のサハギンたちが、去り際に強力なウォーターキャノンを置き土産としてぶちかまし、鮮やかに脱出していく。
俺は振り返り、目鼻の先に迫った融合屍体を見据えた。
数百もの頭部がすでに隙間にまで伸び、腐臭を放つ液体が俺のブーツに滴り落ちている。
「特大のプレゼントだ!」
俺は両手を交差させ、横一方向への巨大な濁水カッターを凝縮させた。
最後の余力を振り絞ってそれを横一閃に放ち、この巨大な化け物を真ん中から両断する。
すぐに再生するだろうが、この数秒の硬直があれば十分だ。
俺は満身創痍で鉄格子の隙間を潜り抜けた。
最後に穴から転がり出てきたのは、全身ずぶ濡れで少し重たそうに見えるボールだった。
手を貸そうとして触れた瞬間、指先に伝わる感触に違和感を覚えた。
もともとは細かく乾いていた熱砂が、この地下水路での徹底的な浸水の末、ボールの核にある魔力と奇妙な化学反応を起こしていたのだ。
それはもう、砂で構成された固体には見えなかった。代わりに粘り気のある、暗褐色の質感――まるで練りたての高級なクレイのような姿を呈していた。
テッテレー!
【環境因子による影響――熱砂ゴーレムの材質が進化しました】
【新材質:クレイ・ゴーレム 生成】
「クレイ?」俺は一瞬呆気に取られたが、すぐに歓喜がこみ上げてきた。
このシステムは意地悪だが、こういう土壇場でのアップグレードに関しては意外と太っ腹だ。
だが、今は祝っている暇はない。
あのスライムのような屍体の山は、驚くべき執着を見せていた。
あいつは俺が蹴り曲げた隙間に向かって狂ったように押し入ってきた。
隙間は本体よりも遥かに小さいというのに、自らの肉体を裂くことも厭わず、無理やり鉄格子の間から這い出してきたのだ。
いくつかの残肢が鋭利な金属の角に引っかかって千切れ、地面に落ちて無意識に蠢いている。
だが本体は、より小さく、そしてより狂暴な血の球となって再び集結し、俺たちに向かって這い寄ってきた。
「海よ! あっちに海があるわ!」
シーリンの叫び声が前方から聞こえた。
俺が顔を上げると、視界は瞬間に眩いほどの蒼に支配された。
海だ。
果てしなく、壮大な大海原だ。
清々しい海風、目に刺さるような太陽の光。
冷たく湿った地下水路に長く居すぎたせいか、急に浴びた日光に俺たちの目は乾き、涙が溢れた。
だが、その涙の中で、俺は希望を見た。
「砂浜へ走れ!」俺は叫んだ。
俺たちの背後には、
蠢く腐肉の塊が続いている。
絶景の海を背景に、
それは極めて異質な光景だった。
俺たちは柔らかな砂を踏みしめ、なりふり構わず白い波飛沫の中へと飛び込んだ。
――ザッパーーーン!
押し寄せた巨大な波が、すぐ後ろに迫っていた肉塊を正面から捉えた。
化け物の巨体も、荒れ狂う波の前ではあまりにも無力だった。
海水の力は単なる衝撃だけではない。
その隙間なく入り込む流動性が、粘液に依存していた化け物の構造を瞬時に瓦解させたのだ。
そして、俺たちを最も驚かせる出来事が起きた。
地下水路であれほど無敵を誇った怪物が、海水に入った途端、比重の軽さから水面に浮かび始めたのだ。
足場を掴むことができず、あいつは巨大な水母のように行動不能に陥った。
さらに奇妙なことに、波に洗われるたびに、その体積が目に見える速さで萎縮していく。
「どういうこと? まさか、この化け物は海水が苦手なの?」
シーリンは流れてきた残肢を斬り捨てながら、驚きの声を上げた。
俺は萎縮していく組織を観察し、脳裏に高校の生物の授業内容を思い浮かべた。
「偶然の産物だが、当たったみたいだ、シーリン!」
俺は興奮気味に説明した。
「たぶん、浸透圧のせいだ。塩漬けの肉を作ったことはあるか? 塩を振りかけると、肉の中の水分が外へ絞り出されて、肉はどんどん小さく、硬くなっていくんだ」
「塩漬けの肉?」シーリンが怪訝な顔をする。
「簡単に言えば、海は超巨大な塩の瓶なんだ! あの怪物は血液と粘液でできているから、含水率が異常に高い。高濃度の海水に入ったことで、体内の水分が無理やり引き抜かれたんだよ!」
グルルが傍らで骨槍を振り回し、干し肉のように縮んだ頭部を弾き飛ばしながら大笑いした。
『グルルルッ! 陸の者の知識は面白い。だがこんな塩漬け肉、海のサメだって食わねえだろうな!』
弱点が判明した今、俺たちは最も効果的な反撃に打って出た。
俺は波を蹴立て、萎縮し、もがく肉塊に向かって容赦なく濁水カッターを放った。
一太刀、また一太刀と、巨大な主体を無数の破片へと切り刻んでいく。
破片は海水に触れるたびに急速に脱水し、干からびて脆くなっていった。
かつてあれほど恐ろしかった怪物は、今や熱湯に放り込まれた氷のように、急速に消滅していった。
そして『クレイ・ゴーレム』へと変貌したボールが、凄まじい戦闘力を見せつけた。
今のボールに恐れるものはない。
水はもう砂のように身体を崩すことはなく、むしろ理想的な可塑性を与えていた。
ボールは俺たちの革手袋を装備し、暗褐色の粘土で構成された二つの大きな腕を伸ばした。
怒れるジャイアントと化したボールは、肉塊の山に突っ込んでそれを引き裂き始めた。
掴み取るたびに大きな組織を剥ぎ取り、それを力任せに海水へと叩きつける。
最後には、町を一つ滅ぼしかねなかった巨大な肉塊は、十数匹の小さなスライムのような蠢く生き物となり、砂浜で断末魔を上げていた。
チャクルが優雅に飛び出し、残った血肉の中から手足を抜き取って砂浜に放り出した。
シーリンは手早く近くの高台で燃料を集め始めた。
乾燥したヤシの葉や、海辺の植物の枯れ枝が積み上げられる。
海風が吹き荒れる中、種火が灯された。
海水で完全に分解できなかった脱水済みの残骸をすべてかき集め、巨大な火葬の山を築く。
オレンジ色の炎が立ち上がるとともに、かつてクレントラシュの村人だった苦痛の残骸は、ようやく灰となり、海風に乗って水平線の彼方へと消えていった。
長く苦しい「地下水道の掃除人」の任務が、ようやく幕を閉じたのだ。
テッテレー!
『「下水道掃除人」イベント終了。ゴーレムコアが昇級しました。』
『クレイ・ゴーレム Lv5
全ステータス +2
機能スロット ×2 開放
新材質開放:フレッシュ・ゴーレム』
夕日が沈み、海面を黄金色に染め上げていた。
グルルは砂浜に座り、濡れた腹を叩いて俺を振り返った。
『陸の乾燥した野郎、あんたらの水魔法もなかなかのもんだ。あの水の制御の正確さ、まるで伝説の「水門のガーディアン」じゃねえか』
俺は身体についた砂を払い、少し苦笑いした。
「……なあグルル、実は俺、本当に『水門のガーディアン』なんだよ」
グルルの突き出た死魚のような目が大きく見開かれ、続いて妙な笑い声を上げた。
『おいおい! 本物だったのかよ! 道理で上の人間がわざわざ下水道に入ってきてボランティア活動なんてしてるわけだ、ププルーッ』
俺はこの神経の図太いサハギンを見ながら、心の中でツッコミを入れた。
こいつ、最初から最後まで人の話を全然聞いてなかったな? こいつの脳内に「詳細」なんて言葉は存在しないらしい
『フルルー! 久々にこの海域に来たぜ。』
グルルは立ち上がり、二人の部下に合図を送った。
『任務も終わったことだし、新鮮な海の幸でも獲って帰るか! 祝杯だ!』
言い終えるなり、三人のサハギンたちは俺たちのことなど完全に無視して、興奮気味に荒波打つ大海原へと飛び込んでいった。
「本当に自由な奴らだ……」
俺は感嘆の声を漏らした。
シーリンが俺の隣に歩み寄ってきた。
彼女の軽装は汗と海水でびしょ濡れだったが、夕日に照らされたその深い瞳は、格別に優しく見えた。
彼女は地平線の向こうを見つめている。
そこには、微かに繁華な街の明かりが見えた。
「やっと着いたわね……」
彼女は静かに、そして安堵の微笑みを浮かべて言った。
「ヤスト、見て。あそこが、バチェラシュ港よ」
俺は彼女の指差す先を追った。
海岸線の延長に、砂漠の様式とは全く異なる巨大な貿易港が両腕を広げて俺たちを待っていた。
無数のマストが立ち並び、カモメたちが赤い夕映えの中で円を描いている。
俺たちはついに暗闇の地下水路を抜け出し、この生命力に満ちた海の都へと辿り着いたのだ。




