第18話 ウォーターカッター
「走れ! 振り返るな!」
俺は滑りやすい石畳の上を全速力で駆け抜けながら、背後へ向かってがむしゃらに手を振った。
五本の指先から淡い青色の魔力が輝き、俺の思考に呼応するように数発の『水弾』が唸りを上げて放たれる。
標的は、背後に迫る吐き気を催すような巨大な肉塊だ。
そいつが移動する時に立てる「ズズッ、ズズズッ」という音は、まるで巨大な濡れ雑巾を引きずっているかのようだった。
ただ、その雑巾には数百もの手足と、悲鳴を上げる人間の頭部がびっしりと生え揃っているが。
――パシュッ、パシュッ、パシュッ!
水弾は「血の痰」のような化け物の胴体に正確に命中し、黒い血が混じった火花を散らす。
しかし、無数の死体が融合して出来たこの化け物にとって、この程度の攻撃は痒い所に手が届く程度のものでしかなかった。
「くそっ、なんてタフな野郎だ……」
俺は荒い息を吐きながら、脳を刺すような痛みを感じていた。どうやら魔力が底を突きかけているらしい。
最後の一発を撃ち終え、魔力値が完全にゼロになって手詰まりになったその時、三つの素早い影が俺の横を通り抜けた。
グルルと、二人のサハギン戦士だ。
『グルルルッ! 陸の者、どけ!』
グルルが咆哮を上げ、発達したエラを激しく震わせる。
彼と二人の部下は同時に足を止め、振り返ると、胸を大きく膨らませて一気に濃縮された水流を吐き出した。
『ウォーターキャノン!』
大人の太ももほどもある三本の水柱が凄まじい衝撃力を持って、肉塊の中心部を直撃する。
その凄まじい水圧に化け物の動きがようやく鈍り、体表で暴れ回っていた残肢がバラバラに吹き飛ばされた。
これには流石の肉塊も、強力な反撃に激昂したらしい。
数百の頭部が同時にグルルの方を向き、耳を突き刺すような絶叫を上げると、移動速度をさらに速めた。
どうやら、この「乾いた」陸の生き物よりも、サハギンたちの方に興味が移ったようだ。
「ふぅ……ふぅ……助かったぜ、グルル!」
俺はその隙に一息つき、最前線から離脱した。
冷たい隧道の石壁に背を預ける。
身体は疲弊しているが、脳は高速で回転していた。この環境下で、頼りない基礎魔力だけに頼るわけにはいかない。
俺はすぐにシステム画面を開き、称号を水門のガーディアンへと切り替えた。
称号をセットした瞬間、奇妙な繋がりが全身を駆け巡る。
ここは地下河だ。周囲は薄暗く湿っているが、水源はほぼ無限にある。
「ガーディアン」として、俺は周囲の流水と共鳴するような感覚を覚えた。
「水源は無限、しかも今の称号なら水弾に魔力も使わない。……遠慮なくいかせてもらうぜ!」
俺は再び立ち上がり、両手を水平に構えた。今度は魔力の残量を気にする必要はない。湯水のように、狂ったように水弾を肉塊へと叩き込む。
――ドドドドドドドッ!
機関銃のように指先から水弾が連射される。
『水門のガーディアン』の加護により、一発一発の水弾が俺の魔力も体内の水分も消費することなく形成されていく。
隧道内に水弾が空を裂く鋭い音が充満し、肉塊の化け物は震えながら黒い液体を四方八方にぶちまけた。
だが、問題は解決していなかった。
普通の水弾は数こそ多いが、不定形の化け物に対して決定打に欠けるのだ。
肉塊に撃ち込まれた水弾は確かに風穴を開けるが、その化け物は自己修復能力を持つスライムのように、蠢く血と粘液ですぐに傷口を塞いでしまう。ダメージが蓄積しないのだ。
「このままじゃ時間の無駄だ……」
焦りが募る中、足元にボウリングの球のような勢いでボールが転がってきた。興奮したような緑色の光を明滅させている。
丸い身体がパカッと開き、中から熱せられた砂を一掴み差し出してきた。
「熱砂?」俺は一瞬呆気に取られたが、すぐに自分の頭を叩いた。「そうか! 水だけじゃない、お前の砂があったな!」
俺は迷わず、ボールが差し出した熱砂を形成中の水弾へと練り込んだ。
『濁水弾!』
次の瞬間、放たれたのは澄んだ青い弾丸ではなく、どす黒く濁り、研磨剤の効果を併せ持った濁水弾だった。
威力は劇的に跳ね上がった。肉塊に命中するたびに「ドスッ、ドスッ」と重い音が響き、腐肉を容易く貫通していく。
それでも、まだ足りない。巨大な化け物にとって、一発で一つの穴が二つに増えた程度の違いでしかない。一撃必殺の決め手に欠ける。
「もっとだ! もっと速く! もっと強く!」
俺は体内の魔力を限界まで絞り出し、濁水弾の連射速度を強制的に引き上げた。傷口が塞がる前に、本体から一部を完全に切り離してやる。
高速で魔力が循環し、指先に鋭い痛み走るが、止めるわけにはいかない。
速く、もっと速く!
射出速度はさらに加速し、視覚的には連射される濁水弾が残像によって一本の途切れない褐色の直線へと変わった。チェーンソーのような鋭い唸りが響き渡る。
「はあぁぁっ! 切り裂けッ! 水の刃でバラバラにしてやる!」
俺は咆哮し、両手を横一文字に薙いだ。
その瞬間、一直線に繋がった弾丸が高圧と流速によって、本当に薄氷のように鋭く、それでいて強靭な液体の刃へと変貌した。
【技能使用手順を記録——ウォーターカッター、濁水カッター】
「本当に成功したぞ!」
褐色の濁水カッターが横に一閃。今度は化け物の修復が追いつかなかった。
一列に並んだ腐った腕が綺麗に切断され、ボトボトと水の中に落ちて、激しい潮流に乗って流されていく。
化け物の哀号はより凄まじくなり、巨大な巨体が狂ったようにのたうった。
手応えを感じた俺は、さらに良い射撃ポジションへ移動してこの「血の痰」を木っ端微塵にしてやろうとしたが、突如、襟元を強く掴まれた。
グルルの水かきのついた大きな手が、俺を無理やり引き戻したのだ。
『グルッ! 陸の者、そっちへ行くな!』
グルルは真剣な表情で隧道の分岐点の一つを指差した。
『そこは貴様らの言う「内陸」へ続く支流だ。その化け物をそっちへ誘い込めば、水路を伝って人間の町に入り込むぞ』
背筋に冷たいものが走った。もしこの融合屍体が人間の居住区の排水システムに侵入すれば、それは紛れもないバイオハザードだ。
仕形がない。今の俺には『ウォーターカッター』があるが、これほど巨大なものを完全に消滅させるにはまだ時間がかかる。
「グルル、あんたが正しい」
俺は顔についた水飛沫を拭った。「……ってことは、逆に言えば、今走ってる方向は確実に海へ続いてるんだな?」
『その通りだ』グルルは化け物を牽制するためにウォーターキャノンを一発放ち、頷いた。
『下流は海へ直結している。そこがあの汚れ物の終着点だ』
「なら好都合だ!」シーリンが傍らでシャムシールを収め、チャクルに合図を送る。
「私たちの目的地、バチェラシュも海沿いにあるわ。なら、目的は一致したわね」
肉塊は異常なほど執拗で狂気じみてはいたが、その巨大で軟弱な巨体は、動く速度に限界がある。
走り続けさえすれば、海まで誘い込むのはそう難しくないはずだ。
こうして、この奇妙なパーティ――水刃を射出する現代人、砂漠の民の女、丸っこい熱砂ゴーレム、砂漠豹、そしてウォーターキャノンを吐き続ける三人のサハギン――は、薄暗い地下水路の中、背後の忌まわしい融合物をあしらいながら、全力で下流へと駆け抜けた。
それはまるで、悪夢のようなマラソンだった。
化け物の視界から外れて進路を変えられないよう、速すぎてもいけない。かといって、あいつらは疲れを知らない。少しでも遅れれば、無数の死者の手が俺たちの踵を掴もうとする。
体力は削られ、空気中の湿気と血生臭さが混じり合い、目眩を誘う。
どれほどの時間が経っただろうか。足が棒になりかけたその時、漆黒の隧道の先にようやく一筋の微かな光が見えた。
それと同時に、ねっとりとした地下の空気に、清涼感のある、塩気を含んだ微風が紛れ込んできた。
海風の匂いだ。
「見ろ! 光だ!」俺は歓喜の声を上げた。「やっと出口だ!」
俺たちは歩調を早め、光の源へと突き進んだ。
しかし、いざ水路の終端に辿り着いた時、その光景に俺たちは一斉に急ブレーキをかけた。
広大な海へと続く放水口の前には、錆びついているが異常なほど頑丈で巨大な鉄格子が、死神の歯のように立ち塞がっていた。
鉄格子の隙間は極めて狭く、人間やサハギンでは到底通り抜けることは出来ない。
そして背後からは、あの巨大な血肉の融合物が、どす黒い悪臭を引き連れて、地を這うような低い咆哮と共に迫っていた。




