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水門のガーディアン——Water Gate Guardian——  作者: 上部乱


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第10話 たらい一杯の水


「クレントラシュがどうしたの?

どうしてそこを避けなきゃいけないの?」

シーリンが疑わしげに聞いた。


「クレントラシュはもう……

……なくなった……生きてる人間はいない」


アンレイシの声には、

驚きと怒りが混じっていた。


「フェナリ……?」

シーリンが慎重にその名を口にする。


アンレイシはうなずき、

窓の外を見て、

外に誰もいないことを確かめた。


「忠告を聞け。

 ワハに戻って、村人たちを逃がせ。


 移住でもいい、散り散りでもいい……

 クレントラシュの滅亡は、

 最初で最後じゃない」


「だめ!

 私たちはバチェラシュへ行かなきゃ。


 あそこのベイは誰なの?

 どうして放っておくの!」


 シーリンは本気で怒っている。


「分からん……」


アンレイシは

どうしようもなさそうに言った。


「バチェラシュから

人が来なくなって久しい。


フェナリはデネシュムを

完全に掌握した。


内陸と港の行き来は、

全部あいつの顔色次第だ」


「デネシュムがフェナリに……

じゃあ、

どうやってバチェラシュへ行けばいいの!」

シーリンは途方に暮れた顔をした。


「そこは通らないといけない場所なのか?」

俺も話に加わる。


シーリンは俺の目を見る。


「もし、

二日余計に歩く覚悟があって、

全行程を野宿で、

補給の水もなしで行くなら、

デネシュムを通らずに済む」


「でもそれは自殺みたいなものよ。

それにクレントラシュでも補給はできない」


「それをやるなら、

イェスィルから出発だ。


丸五日、荒野に晒されることになる」


アンレイシは心配そうに俺たちを見た。


五日……。

もしその五日が昨日みたいな地獄なら、

絶対に持たない。


シーリンは失望したように机に突っ伏し、

肩を小さく震わせ、すすり泣いた。


「もし……

ひとつ思いついたんだけど……ごめん。

変なこと言ってたら、

聞かなかったことにして」


俺は、

そこまで絶望する必要はない気がしていた。


アンレイシは目で「言ってみろ」と促した。


「イチネは地下河だって言ってたよな?」

アンレイシはうなずく。


「なら、地下河に沿って下っていけば……?」


「い、いや……」

アンレイシは困惑した顔になった。


「できないのか?」


「できなくはない。

ただ……昔から誰も、

そんなことはしなかった」


「なんで?」

俺は食い下がった。


「疫病よ」

シーリンは涙をぬぐって、

姿勢を正しながら俺を見た。


「ずっと昔、イチネ流域の人々は、

確かに地下河を

使ってこの砂漠を行き来していた」


「でも流域が豊かになって、

地下河を使う人が増えたせいで、

疫病が広がったの」


「……ワハに伝わる話と、

イェスィルの話はだいたい同じだな」

アンレイシが言う。


「だから先人たちは水門ガーディアンを選び、

地下河を封鎖した。

井戸水と灌漑以外、

イチネ地下河は使わない――そう決めたの」


なるほど、祖先の判断は理解できる。

でも――。


「伝統は伝統。

でも今は、形だけ守ってる場合じゃない!」


「俺たち二人が出入りするだけなら、

疫病が広がるほどにはならないだろ?」


「新任の水門ガーディアンが

そこまで言うなら……」


アンレイシは

見た目ほど強硬じゃないらしい。


説得されやすいタイプなのだろう。


フェナリと簡単に協定を結んだのも、

きっとそのせいだ。


「シーリン……

もっといい方法があるなら、

俺だって固執しない」


シーリンは下唇を噛みしめ、

悔しそうにうなずいた。


アンレイシはむしろ、

その方向に話が進むのを歓迎しているようだった。

「ただし、その場合は必ずクレントラシュに入ることになる」


「どうして?」


「イェスィルには水門がない。

井戸が二つあるだけだ。


クレントラシュから入らないなら、

ワハへ戻るしかない」


正直、その話を聞いたら、

ますますその村へ行くのが怖くなった。


そこは……皆殺しにされた村なんだ。



「これが唯一の道ね」

シーリンも気持ちを整え、

現実を受け入れた。


「早く休もう」


彼女は俺の手から、

あの古いタオルを取り上げた。


「うん、二人とも早く寝ろ」

アンレイシは部屋を出ていった。


残ったのは俺たち二人。

俺は、アンレイシが用意してくれた部屋を見回す。


「えっと……ベッド、一つしかないな」


「うん。

一つしかないけど、それがどうしたの?」


俺はシーリンのほうを見て――固まった。


彼女は上着を脱ぎ、

たらいの前に座って体を拭いていた。


全部見えた。

こんなに無頓着だとは思わなかった。


「いや、その……

同じベッドで寝るわけにはいかないだろ?」

俺は慌てて顔を背けた。


「え?

あなたのところの夫婦って、

一緒に寝ないの?」


シーリンの問いが、

完全に俺の不意を突いた。


「夫婦?」

俺はパニックになった。


「うん。もう結婚三日目だし、

そろそろ大きな声で言ってもいいでしょ――夫婦、って」

シーリンはぎこちなく言う。


「お、俺、

いつ結婚したんだよ!

知らないぞ!」


完全に状況が飲み込めない。


シーリンは少し怒って、

少し寂しそうだった。


「一昨日の朝。うちで!

あなたがうちの家族にならなかったら、

どうして父さんが水門の鍵をあなたに託せるの?

あれは父子でしか受け継げないものよ」


「お前が俺の妻になるなんて、

誰も言ってなかっただろ!」


「結婚式の日は言っちゃだめなの!

女悪神ジャヒに妬まれるから!」


「け、結婚式!?

いつやったんだよ!」


「一昨日の朝!」


「俺は送別会だと思ってた!」


「食卓に沙羯の肉が出てたのに、

じゃあどれだけ盛大なのがよかったの?

自分が大ヴィジルだとでも思ってるの?」

シーリンは目尻に涙を溜めた。


俺、最低だ……。

だめだ。俺はクズ男にはなりたくない。


十八で結婚?

うちの祖父母だってみんなそうだったし――

いや、

今はそれどころじゃない。


俺は踏み込んで、シーリンを抱きしめた。


「ごめん。

俺、ここの習俗を全然分かってなかった」


彼女は押し返そうとした。

でも俺は、もっと強く抱きしめた。


「こんな勇敢な子と夫婦になれるなんて、光栄だ」


「……もう!」

シーリンは力いっぱい俺を押し返した。


「私こんなに汚いのに。

あなたはもう洗ったんでしょ、

そんなに強く抱かないで」


シーリンはそのタオルと、

たらいの水で体を拭き始めた。


その水は、

さっき俺が使ったあとで、

ひどく汚れている。


でもシーリンはまったく気にしていない。


だけど、俺は――俺の妻に、

そんな思いをさせたくなかった。


俺はひらめいた。

たらいを持ち上げ、

床にばしゃっと全部ぶちまける。


シーリンは呆然とした。

さっきまで優しかったのに、

急に意地悪をしたように見えたのだろう。


俺は称号を水門ガーディアンに切り替える。


「水弾!」


たらいに向けて水弾の魔法を使う。


案の定、

床にこぼした水は「水源」と

判定されたらしく、

精神力を一切消費せずに、水分が再びたらいへ集まっていった。


『スキル使用手順を記録:水浄化』


「ほら、清い水が一たらい!」


俺は新婚の妻に、

砂漠でいちばん貴重な贈り物を差し出した。


しかも――

俺の可愛いゴーレムが、

さらに気を利かせる。


ボールちゃんが

陶器のたらいの下へ自動で転がり込み、

熱を放ち始めた。


溢れた水滴がその体に染み込み、

ボールちゃんはますます粘土みたいになっていく。


清い水、だけじゃない。

ぬくぬくの――お湯だ。


拭くだけじゃない。

熱いお湯で、ちゃんと身体を洗える。


ボールちゃん、

お前……できるじゃん。


シーリンは感謝の目で俺を見つめ、

俺の首に腕を回すと、

目を閉じてキスをしてきた。


砂漠の夜は冷たいと思っていた。

でも今夜は、やけに温かかった。

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