02.香炉
この時使った予備の客室は、床の間に香炉をひとつ、置いていた。
養父氏が懇意にしている骨董屋で求めた物だ。
骨董と言っても最近の物で、開国の四十年程前の品だ。まだ、百年を経ていない。
真鍮製で、凝った花飾りの細工が施されている。一目で気に入り、値段も手頃だったので、即断即決で買って帰った。
買ったその日は、書斎の書き物机の上に飾っておいた。
翌朝、畳の上に落ちていた。
女中が粗相したのかと思い、自分で元へ戻し、何も言わないでおいた。誰にでも間違いはあるものだ。
ところが、これが三日続いた。
仏の顔も三度と言う。養父氏は女中を呼び、何故、毎朝、香炉を落とすのか、問い質した。女中は知らぬ存ぜぬと言う。
金属で、それなりの重量があり、風で転ぶ筈もない。
何だかわからないが、机の上から転ぶなら、最初から畳の上へ置くことにした。書斎の隅に小盆を置き、その上に据えた。
果たして、翌朝。
養父氏が書斎の戸を開けると、香炉は盆から出て、二歩ばかり離れた畳の上に鎮座していた。
「全体に植物の装飾で、蔦が猫足の形になっている意匠なのですが、蔦が本当の足になって、歩いたとしか思えんのです」
「ふむ……」
宍粟探偵は、眉間に皺を刻み、胡麻塩頭に手を置いた。
人間が起こす事件は手掛けるが、怪異は探偵の埒外だ。
養父氏は、探偵の渋面に気付かぬフリで、話を続ける。
香炉は、日に日に移動の距離を伸ばし、終に書斎の戸口にまで達した。
流石の養父氏も薄気味悪くなり、これを買った骨董屋・氷ノ山へ問合せに行った。
氷ノ山の主人、朝来氏は寝耳に水だったようで、困惑しつつも、由来を語った。
以前の持ち主は、武家のお嬢さんで、香道に凝っており、自分専用の香炉を誂えた。
一人娘故、婿を取って家を継いだが、開国後、家運が傾いた。
何とかやりくりして凌ぎ、一人娘は天寿を全うした。
お家はその後、更に窮した。家人は終に、形見とも言える香炉をも、泣く泣く手放し、米に変えた。
それはつい最近のことで、氷ノ山が店へ並べた直後に、養父氏の目に留まった為、朝来氏は、怪異の件は知らない、と言う。
「今は代替わりして、息子さんが家長だそうです。氷ノ山を招いて、他の物と一緒に見せてくれたんだそうです。香炉の他にも何点か、茶道具の類を買取って、それはまだ店にあるんですが、特に何も怪しいことはないと言うんです」
宍粟探偵は、唸る他なかった。迂闊なことは言えない。
話が、やや横道に逸れた感がある。
改めて問うた。
「それで、その、お茶会後の怪異と言うのは、その香炉に関することなんですね」
「そうなんです。香炉の奴め、居なくなってしまったんですよ」
氷ノ山の朝来氏から聞いた限り、害があるようにも思えない。
だが、元の持ち主に買い戻させることは無理なようなので、持ち帰った。
書斎に置くのはいささか気味が悪く、さりとて仕舞いこむのは、折角の品が勿体ない。
そこで、普段あまり使わない予備の客間へ置くことになった。
香炉は、自力で障子や襖を開けられないのか、床の間から他の場所へ行っても、部屋の外へ出ることはなかった。
夜な夜な動くこと以外、特段の害はない為、朝、床の間へ戻すのが、半ば習慣になっていた。
「彼奴は、何の目的かわかりませんが、きっと、客人の荷物に紛れて、出て行ったに相違ありません」
「それで、養父先生は如何なさりたいので?」
「今のところ、害はありませんが、他所で何ぞ、悪さを働く心積もりやも知れません。怪しい物なので、うちで引き取り、やはり、寺へ預けようと思っております」
「香炉の行方を突き止め、回収する、と言うことで宜しゅうございますね」
「はい」
養父氏がしっかりと首を縦に振る。
書生の有年が、客の湯呑に茶のおかわりを注いだ。
宍粟探偵は、気になった点を聞いてみた。
「お茶会に来られた奥様方は、荷物に紛れていたことに気付かなかったのでしょうか? 金属で、重いんですよね?」
「重いと言っても、鶏の卵程の大きさですからね。お稽古のお道具と一緒なら、気付かぬやもしれません」
「鶏の卵……重さは如何程で?」
「せいぜい、文鎮の半分程度です」
「奥様方に、お尋ねにならなかったのですか?」
宍粟探偵の問いに、養父氏は力なく首を横に振った。
「香炉が勝手に歩くなぞ、なかなか信じてもらえますまい。私も見ていなければ、信じなかったでしょう」
「動く様子を、ご覧になられたんですか?」
「いえ、結果を見ただけです。一晩中貼り付くような暇は、ありませんので」
養父氏は、茶を一口すすり、口を湿して続けた。
「香炉がひとりでに荷物に紛れたなどと、俄かには信じられませんから、私どもが直接、奥様方にお尋ねしますと、泥棒扱いするようで、どうにも具合が宜しくありません。そこで、探偵さんにお願いしたいのですよ」
養父氏はそこまで言って、宍粟探偵を上目遣いに見た。