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春を待つ庭  作者: 牧静
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第三章 夏期講習

 六月になると、ベランダの緑が少し濃くなった。


 ラナンキュラスの花は、もうほとんど終わっていた。


 少し前まで何枚も重なっていた花びらは、外側から色が抜け、薄い紙のように乾いていった。葵は、完全にしおれた花を一つずつ摘んだ。


 花が終わるのは、少し寂しい。


 けれど、終わったからといって、全部が終わるわけではなかった。


 株元には、まだ葉が残っている。けれど、その葉も少しずつ黄色くなってきていた。ラナンキュラスは、暑さに弱い。横浜の六月は、もう春ではない。


 葵は鉢を日陰に移した。


 水は控えめにする。


 元気がなさそうだからといって、たくさん水をあげればいいわけではない。暑くなって休もうとしているところに、水を入れすぎると、かえって根が傷む。


「今は、休む時期なんだよね」


 葵は、小さく言った。


 ラナンキュラスは何も答えなかった。


 その隣では、ミニトマトが伸び始めていた。


 五月に植えた苗は、最初は頼りないくらい細かった。でも、六月に入ってから急に茎が太くなり、葉の色も濃くなった。支柱に結んだ麻ひものあたりで、茎が少し曲がっている。


 葵は脇芽を見つけて、指でそっと摘んだ。


 小さな青い匂いがした。


 ミニトマトの匂いは、花の匂いとは違う。甘くない。少し青くて、少し強い。


 葵は、その匂いが好きだった。


 教室に行ける日が少しずつ増えていた。


 学校には行っていた。けれど、毎日ずっと教室にいられるわけではなかった。


 朝からずっと教室で過ごせる日もあれば、一時間目の途中で保健室へ行く日もあった。最初から保健室に向かって、昼過ぎに少しだけ教室へ戻る日もあった。


 それでも、四月や五月よりは、少し楽になっていた。


 理由は、自分でもよくわからない。


 でもたぶん、ステップバイステップに行く日ができたからだと思う。


 加奈先生の授業がある日は、朝から少しだけ違った。


 学校でうまく話せなくても。


 教室に長くいられなくても。


 英語の小テストで思ったより点が取れなくても。


 夕方になれば、あの少し曲がった文字の貼られた教室に行く。


 そこでは、大きな声で怒鳴られない。


 止まってもいい。


 わからないところを言ってもいい。


 そして最後に、少しだけ植物の話ができる。


 それだけで、一週間の中に小さな杭が打たれたみたいだった。


     ◇


「ミニトマトって、脇芽を取るんだよね」


 六月の半ば、授業の終わりに加奈先生が言った。


 葵は、英語のノートをしまいかけていた手を止めた。


「はい。取らない育て方もあるんですけど、基本は取ります」


「どれが脇芽なのか、写真見てもいまいちわからなくて」


 加奈先生はスマートフォンを出しかけて、少し迷ったように止めた。


「ここでスマホ出すの、先生っぽくないか」


「大丈夫だと思います」


 葵が言うと、加奈先生は少し笑って、画面を葵に見せた。


 そこには、ミニトマトの育て方のページが開かれていた。


「この、葉っぱと茎の間から出るやつ?」


「はい。主枝と葉っぱのつけ根から出てくるのが脇芽です」


「じゃあ、これを全部取るの?」


「最初は。大きくなると、あえて残すこともあります。でも、ベランダだと風通しが悪くなるので、私はけっこう取ります」


「風通し」


 加奈先生は、またノートの端に書いた。


 葵は、それを見るのが好きになっていた。


 加奈先生は、葵の言ったことを本当に書く。


 勉強の説明のためではなく、ただ植物のことを知ろうとして書く。


「風通しが悪いと、病気になります。葉っぱが混みすぎると、虫も見つけにくくなるし」


「なるほど」


「でも、取りすぎても、なんか寂しくなります」


「寂しく?」


「はい。葉っぱが少なすぎると、見た目が……なんというか、頑張らされてる感じになります」


 言ってから、葵は少し恥ずかしくなった。


 頑張らされてる感じ。


 植物にそんなことを言うのは、変かもしれない。


 でも加奈先生は、笑わなかった。


「そっか。実をつけるために整えるけど、整えすぎると寂しいんだ」


「はい」


「それも、勉強に似てるね」


「またですか」


 葵が思わず言うと、加奈先生は少し目を丸くして、それから笑った。


「また、だね」


 葵も少し笑った。


 加奈先生と話していると、植物の話が、ときどき勉強の話になる。


 でも、それは嫌ではなかった。


 受験のために植物を使われている感じではない。植物のことをちゃんと聞いたうえで、そこから少しだけ、勉強にもつながるものを探してくれる。


「夏期講習もね、整えすぎないようにしよう」


 加奈先生が言った。


 葵の手が止まった。


「夏期講習……」


「うん。もうすぐ案内が出ると思う」


 夏期講習。


 その言葉を聞いた瞬間、教室の空気が少し重くなった気がした。


 受験生の夏。

 勝負の夏。


 ここで変わる。

 ここで差がつく。


 集団塾で見たポスターの言葉が、頭の中に浮かんだ。


 葵の胸の奥が、少し縮んだ。


 加奈先生は、それに気づいたように声を柔らかくした。


「いきなりたくさん入れないから大丈夫。葵さんの場合は、まず生活のリズムを崩さないことが大事だと思う」


「でも、受験生だから……」


「受験生だからこそ、かな」


 加奈先生は、英語の問題集を閉じた。


「夏に全部詰め込んで、九月に動けなくなったら困るでしょ」


 葵は、うなずいた。


 その言い方は、少し植物に似ていた。


 暑い時期に無理をさせすぎると、根が傷む。


「夏期講習って、毎日来るんですか」


「人によるよ。毎日来る子もいるし、週に何回かの子もいる。葵さんは、塾長とも相談だけど、最初は無理のない回数がいいと思う」


「無理のない」


「うん。頑張らないってことじゃなくて、続けられる形にするってこと」


 続けられる形。


 葵は、その言葉をノートの端に書きたくなった。


     ◇


 けれど、家ではそう簡単ではなかった。


 その日の夕食の後、母が夏期講習の案内をテーブルに広げた。


 ステップバイステップから渡された紙だった。


 白い紙に、日程とコマ数と料金が書かれている。集団塾のカラフルなパンフレットに比べると、ずっと地味だった。


 母は、ペンを持って表を見ていた。


「七月後半からね。思ったより自由に組めるのね」


「うん」


「英語と数学は入れた方がいいと思うけど、国語も少し見てもらった方がいいのかな。お父さんとも相談しなきゃね」


 葵は、味噌汁のわかめを箸でつついた。


 母は、悪いことを言っているわけではない。


 葵のために、お金も時間も使ってくれている。


 だから、嫌だとは言いにくかった。


 父に相談すれば、たぶん「葵が無理なくできる方でいいんじゃない」と言う。


 でも、最後に予定表へ丸をつけるのは、いつも母だった。


「加奈先生は、最初は無理のない回数でって」


「そうね。でも夏休みだから、普段よりはできるでしょ」


 母は、表から目を離さずに言った。


「学校もないんだし」


 学校もない。


 その言葉は、葵には少し違って聞こえた。


 学校がないから休めるのではない。


 学校がないから、逃げ場がなくなる気がした。


 夏休みは、みんなが受験生になる季節だった。


 朝から勉強する人。


 塾に一日いる人。


 過去問を始める人。


 志望校別の特訓に行く人。


 葵だけが、ベランダでミニトマトの脇芽を取っていたら、いけないのではないか。


「植物も、夏は見ないといけないから……」


 小さく言ったあとで、葵は自分でも失敗したと思った。


 母の手が止まった。


「植物?」


「うん。暑いと、水切れしやすいし、でもあげすぎてもだめで」


「それはわかるけど」


 母は、少し困ったように笑った。


「でも、今年は受験生だからね」


 今年は受験生。


 それは、何にでもつながる言葉だった。


 早く寝なさい、今年は受験生だから。

 スマホ見すぎないで、今年は受験生だから。

 学校に行きなさい、今年は受験生だから。

 植物はほどほどにしなさい、今年は受験生だから。


 葵は、味噌汁の中のわかめを見た。


「植物は、受験が終わってからでもできるでしょう」


 母の声は、強くはなかった。


 むしろ、普通のことを普通に言っている声だった。


 だからこそ、葵は何も言えなかった。


「……うん」


「今だけよ。ずっと我慢しなさいって言ってるんじゃないの。高校に入ったら、また好きなだけやればいいから」


 高校に入ったら。


 葵は、その高校に行きたい理由をまだ持てていなかった。


 みんなが行くから行く。

 行かないと困るから行く。

 母が心配するから行く。


 その先に、何があるのかはわからない。


 でも、植物は今ここにある。


 今日、水が必要な鉢は、今日見ないといけない。

 今日出た脇芽は、今日気づかないと大きくなる。

 今日弱った葉は、今日見つけないと病気が広がる。


 受験が終わってから、では間に合わないものもある。


 でも、それを母に言う言葉が見つからなかった。


     ◇


 七月に入ると、学校の教室は少しざわざわし始めた。


 期末テストが終わり、夏休みが近づくと、クラスの空気は一度ゆるむ。けれど中三の教室には、ゆるみきれないものがあった。


「夏期講習、何コマ?」


「うち、朝から夜まで」


「え、やば」


「志望校別のやつ取った?」


「取った。親に言われて」


 そんな会話が、あちこちから聞こえた。


 葵は、自分の席で英単語帳を開いていた。


 けれど、文字はあまり頭に入ってこなかった。


 何コマ。

 志望校別。

 模試。

 偏差値。

 内申。


 言葉だけが、教室の中を飛んでいた。


 葵の夏期講習は、週三回になった。


 母は本当はもっと入れたそうだったが、ステップバイステップの塾長と加奈先生が、最初は様子を見ながら、と言ってくれたらしい。


 それを聞いた時、葵はほっとした。


 でも同時に、不安にもなった。


 週三回で足りるのだろうか。


 みんながもっとやっているのに、自分だけ少なくていいのだろうか。


 放課後、保健室に行く途中で、同じクラスの女子二人が廊下で話しているのが聞こえた。


「森下さんって、最近また保健室?」


「みたいだね」


「受験生なのに大丈夫なのかな」


 悪口ではなかった。


 心配しているようにも聞こえた。


 でも、葵の足は止まった。


 受験生なのに大丈夫なのかな。


 それは、葵自身が一番思っていることだった。


 保健室には行かず、葵はそのままトイレに入った。


 個室の中で、しばらく立っていた。

 泣くほどではなかった。


 でも、教室にも保健室にも行きたくなかった。

 どこにも行きたくない時、人はどこに行けばいいのだろう。


 葵は、スマートフォンを出して、ベランダの写真を見た。


 ミニトマトの小さな黄色い花。

 クレマチスのつぼみ。

 切り戻したビオラの新しい葉。


 写真の中の植物たちは、何も言わなかった。


 大丈夫とも言わない。

 頑張れとも言わない。

 受験生なのに、とも言わない。


 ただ、そこにあった。


     ◇


 その週のステップバイステップで、英語の問題が一区切りついたころ、葵は加奈先生にその話を少しだけした。


「みんな、夏期講習いっぱい入れてるみたいで」


「うん」


「私、週三回で大丈夫なのかなって」


 加奈先生は、すぐには答えなかった。


 問題集を閉じて、少しだけ考えた。


「不安になるよね」


「はい」


「周りの量が見えると、自分の量が少なく見えるから」


 葵はうなずいた。


「でも、勉強って量だけじゃないから」


「でも、量も大事ですよね」


「うん。大事」


 加奈先生は、そこをごまかさなかった。


「量は大事。でも、葵さんの場合、今は量を増やす前に、ちゃんと吸収できる状態を作る方が大事だと思う」


「吸収できる状態」


「そう。水も、土が固くなってたら入っていかないでしょ」


 葵は少し目を上げた。


 また植物だった。


 でも、今度は葵の方が先に理解できた。


「表面だけ流れます」


「うん。だから、まず土を整える」


 加奈先生は、ノートの端に小さく「土を整える」と書いた。


「夏は、それでいこう」


 葵は、その字を見た。


 加奈先生の字は、きれいすぎない。丸みがあって、少し急いで書いたようなところもある。でも、読みやすかった。


「先生は、夏、忙しいですか」


 葵は、ふと思って聞いた。


 加奈先生は少しだけ表情を変えた。


「私?」


「はい。大学生って、夏休み長いんですよね」


「ああ、そうだね。大学の授業は少なくなるけど……」


 加奈先生は、そこで一度言葉を切った。


「私、今年はちょっと就活の準備もしなきゃいけなくて」


「就活」


 葵には、その言葉が遠かった。


 受験より、もっと大人の言葉に聞こえた。


「大学三年生だから。インターンとか、説明会とか、自己分析とか」


「自己分析?」


「自分が何をやりたいかとか、どんな仕事に向いてるかとか、そういうのを考えるやつ」


 加奈先生は笑った。


 でも、その笑い方は、いつもより少し薄かった。


「先生は、何をやりたいんですか」


 葵が聞くと、加奈先生は一瞬、答えに詰まった。


 ほんの一瞬だった。


 たぶん、他の人なら気づかないくらい短い間。


 でも葵は、気づいた。


 加奈先生が、今、止まった。


「まだ、ちゃんとは決まってないかな」


 加奈先生は、いつもの声に戻して言った。


「これから考えるところ」


「そうなんですか」


「うん。大学に入ったら自然に見つかると思ってたんだけどね。意外と、そうでもなかった」


 加奈先生は、少し困ったように笑った。


 葵は、何と言えばいいかわからなかった。


 加奈先生にも、わからないことがある。


 それは少し不思議だった。

 葵から見た加奈先生は、いつもちゃんとしている。優しくて、頭がよくて、教え方もうまくて、植物のことまで調べてくれる。


 そんな人が、自分のやりたいことがわからないと言う。


「でも、先生なら何でもできそうです」


 葵は、自然にそう言った。


 加奈先生は少し目を細めた。


「そう見える?」


「はい」


「そっか」


 加奈先生は、ノートを閉じた。


「そう見えるなら、先生としては成功かな」


 その言い方が、少しだけ寂しく聞こえた。


 葵は気になったが、それ以上は聞けなかった。


 加奈先生はすぐに明るい声に戻した。


「じゃあ、今日はここまで。次から夏期講習の前に、英語の文法を少し整理していこう」


「はい」


 葵はうなずいた。


 けれど、帰り道も、加奈先生の言葉が残っていた。


 大学に入ったら自然に見つかると思ってたんだけどね。


 葵は、高校に行けば何かが変わると思おうとしていた。


 高校に入ったら。

 受験が終わったら。

 普通に戻れたら。


 でも、加奈先生は、大学に入ってもまだ探していると言った。


 そのことが、不安でもあり、少しだけ安心でもあった。


     ◇


 夏休みが始まる少し前、ベランダのミニトマトに最初の実がついた。


 まだ緑色で、小指の先ほどの大きさだった。


 葵は、朝起きてすぐにそれを見つけた。


「あ」


 思わず声が出た。


 花が咲いていたのは知っていた。黄色い小さな花がいくつか揺れていて、実になるかもしれないとは思っていた。


 それでも、実際に小さな実を見つけると、胸が弾んだ。


 まだ食べられない。

 まだ赤くない。

 まだ収穫できない。


 でも、実は確かについていた。


 葵はスマートフォンで写真を撮った。


 学校に行く前に、何度も見返した。


 その日の夕方、ステップバイステップで加奈先生に見せた。


「先生、見てください」


 葵がスマートフォンを差し出すと、加奈先生は画面をのぞきこんだ。


「え、かわいい」


「ミニトマトの実です」


「本当だ。小さい」


「まだ緑なんですけど、ここから赤くなります」

「どのくらいで?」

「種類にもよりますけど、何日かかかります。急に赤くなるわけじゃなくて、少しずつ色が変わっていきます」


 加奈先生は写真を見たまま言った。


「そっか。少しずつなんだ」


「はい」


「いいね」


 加奈先生の声は、いつもより少しやわらかかった。


 葵は少し嬉しくなった。


 その日の授業は、夏期講習前の確認だった。


 加奈先生は、葵の英語の弱いところを一つずつ整理してくれた。


 be動詞と一般動詞の混乱。

 三単現のs。

 疑問文の語順。


 長い文になると、途中で主語と動詞を見失うこと。


 ノートには、加奈先生の字で、


「まず文の骨を見る」

「全部を一度に訳そうとしない」

「止まった場所を言葉にする」


と書かれていった。


 葵は、そのノートを見るのが嫌ではなかった。


 できないところが書かれているのに、責められている気がしない。


 植物の育て方メモに似ていた。


 この鉢は水切れしやすい。

 この花は暑さに弱い。

 この苗は風通しが必要。


 弱いところを知るのは、悪いことではない。


 ちゃんと見るために必要なことだった。


     ◇


 終業式の日、学校はいつもより少し浮ついていた。


 夏休み前の教室は、明るい。


 通知表を見せ合う声。

 部活の予定を確認する声。

 海に行くとか、映画に行くとか、そんな話。


 でも、中三の夏休みは完全には明るくなれない。


 担任の先生が、最後のホームルームで言った。


「この夏は、本当に大事です。受験生にとって、夏は一番伸びる時期です」


 葵は、机の上で手を重ねた。


「ただし、生活リズムを崩さないこと。勉強時間を確保すること。苦手から逃げないこと」


 苦手から逃げないこと。


 葵は、その言葉を聞きながら、窓の外を見た。


 校庭の隅に、アジサイがまだ少しだけ残っていた。色はもう褪せていて、花びらに見える部分の端が茶色くなっている。


 終わりかけの花は、教室の中から見ると少し汚く見えるかもしれない。


 でも葵は、終わりかけの花も嫌いではなかった。


 咲き終わった後に、どう切るか。


 どこまで残すか。


 来年の花芽を考えて、いつ剪定するか。


 終わりにも、次の準備がある。


 ホームルームが終わると、クラスの子たちが一斉に立ち上がった。


 葵は、少し遅れて鞄を持った。


 その時、隣の席の女子が言った。


「森下さん、夏休みどこの塾?」


 急に話しかけられて、葵は少し驚いた。


「えっと、個別」


「そうなんだ。いいなあ、個別。うち集団で毎日だよ。まじで終わった」


 その子は、軽く笑った。


 悪気はなかった。


 けれど、別の男子が横から言った。


「個別って楽そうじゃね?」


「そうなのかな」


「だって自分のペースでしょ。集団の方がきついって」


 葵は、うまく笑えなかった。


 個別は楽。


 そう見えるのかもしれない。


 大きな声で怒られない。


 競争も少ない。


 自分のペースでできる。


 でも葵にとっては、その場所に行けるようになるまでが、すでに大変だった。


「楽じゃないよ」


 そう言えたらよかった。


 でも言えなかった。


「そうかも」


 葵は小さく笑って、教室を出た。


 廊下は、夏休み前の声でいっぱいだった。


     ◇


 夏期講習の初日、空は朝から白く光っていた。


 葵は、いつもより早く起きた。


 ベランダに出ると、鉢の土はもう乾き始めていた。朝のうちに水をあげないと、昼にはしおれてしまう。


 ミニトマトの実は、少しだけ大きくなっていた。


 まだ緑色だったが、表面につやがある。


 葵は、鉢底から少し水が流れるくらいまで、ゆっくり水をあげた。


 バジルの葉にも触れた。


 指に、甘くて少しスパイシーな匂いが残った。


 夏の匂いだった。


 母はキッチンで朝食を用意していた。


「今日から夏期講習ね」


「うん」


「無理のない回数にしたんだから、その分ちゃんと集中しないとね」


 葵は、パンを皿に置いたままうなずいた。


「うん」


 母は、悪気なく言ったのだと思う。


 でも、無理のない回数にしたんだから、という言葉が、葵の胸に少し残った。


 少なくしてもらった分、失敗してはいけない。


 そう聞こえた。


 ステップバイステップに着くと、教室はいつもより少し人が多かった。


 夏期講習の時間割で、昼間から来ている生徒がいる。小学生も、中学生もいた。先生たちも、いつもより忙しそうだった。


 それでも、大きな声はなかった。


 葵は、それだけで少し安心した。


 加奈先生は、いつもの長机にいた。


「おはよう、葵さん」


「おはようございます」


「夏期講習初日だね」


「はい」


「じゃあ、初日だからこそ、飛ばしすぎないでいこう」


 葵は、思わず加奈先生を見た。


 加奈先生は笑っていた。


「初日に頑張りすぎると、三日目くらいで嫌になるから」


「先生もそうなんですか」


「私?」


「はい」


 加奈先生は少しだけ目をそらした。


「私は、わりとそうかも」


 そう言ってから、すぐに問題集を開いた。


「だから、今日はここまで」


 加奈先生はノートに線を引いた。


「ここまでできたら合格。余裕があったら次。なかったら終わり」


 葵は、その線を見た。


 ここまででいい。


 それは、少し怖くもあり、ありがたくもあった。


 授業が始まると、葵は思ったより集中できた。


 午前中の教室は、夕方より明るかった。窓の外から入る光が、長机の上に四角く落ちている。鉛筆の影が短く伸びていた。


 加奈先生は、いつもより少しだけ疲れているように見えた。


 説明の途中で、一度だけペンを落とした。


「あ、ごめん」


 加奈先生はすぐに拾った。


 葵は、ふと気になった。


「先生、寝不足ですか」


「え」


「なんか、少し眠そうです」


 言ってから、失礼だったかもしれないと思った。


 でも加奈先生は怒らなかった。


「わかる?」


「少し」


「昨日、インターンのエントリーシート書いてて、寝るの遅くなっちゃって」


「エントリーシート?」


「就活で出す書類。自分の強みとか、学生時代に頑張ったこととか書くの」


「自分の強み……」


 葵は、その言葉を繰り返した。


 加奈先生なら、たくさんありそうだと思った。


 優しい。


 頭がいい。


 教え方がうまい。


 人の好きなものを調べてくれる。


 でも加奈先生は、少し苦笑いした。


「自分で書くとなると、何もない気がするんだよね」


「先生でもですか」


「先生でも、です」


 加奈先生は、少しだけ肩をすくめた。


「葵さんから見たら、私は先生かもしれないけど、大学ではただの大学生だから」


 ただの大学生。


 葵には、その言葉が不思議だった。


 加奈先生は、加奈先生なのに。


「でも、先生はすごいです」


 葵が言うと、加奈先生は少し笑った。


「ありがとう」


 それ以上は、加奈先生は何も言わなかった。


 けれど葵には、その「ありがとう」が、うまく受け取れていないように聞こえた。


     ◇


 夏期講習が始まって一週間が過ぎると、葵の毎日は少しずつ形を変えた。


 朝、植物を見る。

 水をあげる。

 学校の宿題を少しやる。


 昼前か午後に塾へ行く。

 帰ってきて、また植物を見る。

 夜に英単語を少し覚える。


 完璧な受験生の夏ではなかった。


 でも、葵にとっては、初めて自分で保てそうな夏だった。


 ミニトマトの実は、少しずつ増えた。


 一つ目の実は、まだ赤くならない。けれど、二つ目、三つ目の実がついた。花房の先に小さな緑の玉が並ぶと、それだけでベランダが少しにぎやかに見えた。


 バジルは葉を増やした。


 切り戻したビオラは、暑さで弱りながらも、小さな葉を出していた。


 クレマチスは、花が終わった後のつるをどうするか、まだ迷っていた。


 葵は、迷うことが少し怖くなくなっていた。


 すぐに答えを出さなくてもいい。


 今どこにいるか見ればいい。


 続けられる形にすればいい。


 加奈先生が言った言葉が、少しずつ葵の中に根を張っていた。


 けれど、加奈先生の方は、少しずつ忙しそうになっていった。


 授業の終わりに植物の話をする時間が、前より短くなった。


「ごめん、今日は次の子の準備があって」


「このあと説明会に行かなきゃいけなくて」


「エントリーシートの締切が近くて」


 加奈先生はいつも謝ってくれた。


 葵も、もちろん仕方ないと思った。


 大学三年生。

 就活。

 インターン。

 自己分析。


 加奈先生には、加奈先生の夏がある。


 わかっている。


 でも、少し寂しかった。


 ある日、授業の最後に葵がミニトマトの写真を見せようとすると、加奈先生は時計を見て言った。


「あ、ごめん。今日はちょっと急いでて」


「はい」


「次、見せて」


「はい」


 葵はスマートフォンをしまった。


 加奈先生は急いで教材をまとめ、教室の奥へ行った。


 葵は一人で鞄を閉じた。


 仕方ない。


 仕方ないのに、胸の奥が少し冷えた。


 自分の好きなものを見てくれた人が、少し遠くなる。


 それは、思ったより怖かった。


     ◇


 七月の終わり、ミニトマトの最初の実が赤くなった。


 朝見た時は、まだオレンジに近かった。


 夕方帰ってきた時には、ちゃんと赤くなっていた。


 葵は、しばらくその実を見ていた。


 緑だったものが、いつの間にか赤くなる。


 急に変わったように見える。


 でも本当は、毎日少しずつ変わっていた。


 葵は、そっと実を摘んだ。


 指の中に、温かさが残っていた。


 夏の夕方の熱を、実がそのまま持っているみたいだった。


 食べるのがもったいなかった。


 でも、食べないまま置いておくと傷んでしまう。


 葵は台所で洗って、小皿に置いた。


 母はまだ帰っていなかった。


 葵は一人で、そのミニトマトを食べた。


 皮がぷちっとはじけて、少し酸っぱくて、少し甘かった。


 すごくおいしい、というほどではなかった。


 でも、自分で育てた味がした。


 葵は、スマートフォンで写真を撮った。


 次の授業で、加奈先生に見せようと思った。


 けれど、その夜、ステップバイステップから電話があった。


 母が出た。


「はい。……あ、いつもお世話になっております」


 葵は、リビングの端で英単語帳を開いていた。


 母の声が、少しだけ変わった。


「そうですか。はい。わかりました。本人に伝えます」


 電話を切ると、母が葵の方を見た。


「明日の授業、加奈先生お休みだって」


「え」


「代わりの先生になるみたい。急な用事らしいわ」


 葵は、英単語帳を見たまま動けなかった。


「急な用事……」


「大学の方じゃない? 就活とか言ってたでしょう」


「うん」


「一回くらい大丈夫よ」


 母は、そう言ってキッチンへ戻った。


 一回くらい。


 葵も、そう思おうとした。


 一回くらい大丈夫。


 加奈先生にも予定がある。


 先生だからって、いつも自分のためにいるわけではない。


 わかっている。


 でも、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 明日見せようと思っていたミニトマトの写真が、急に行き先をなくしたみたいだった。


 葵は、スマートフォンを開いた。


 赤くなったミニトマトの写真。


 小さな実が、小皿の上に一つだけ乗っている。


 それを見ていると、さっき食べた味が戻ってきた。


 少し酸っぱくて、少し甘い。


 葵は、画面を閉じた。


     ◇


 翌日の授業は、別の先生だった。


 若い男の先生で、悪い人ではなかった。


 説明もわかりやすかった。


 声も大きすぎなかった。


 間違えても責めなかった。


 でも、葵はずっと落ち着かなかった。


 先生の説明を聞きながら、加奈先生ならここでどう言うだろうと思った。


 加奈先生なら、ここで「どこで迷った?」と聞く。


 加奈先生なら、ノートの端に小さくまとめてくれる。


 加奈先生なら、最後にミニトマトの写真を見てくれる。


 代わりの先生は、授業の最後に言った。


「森下さん、基礎はちゃんとできてるから、あとは演習量だね」


「はい」


「夏休み、頑張ろう」


「はい」


 普通の言葉だった。


 何も間違っていない。


 でも葵は、その日、帰り道で少し疲れていた。


 家に帰ると、ベランダのミニトマトが夕方の風に揺れていた。


 二つ目の実が、少し色づき始めていた。


 葵はしゃがんで、それを見た。


「加奈先生、今日いなかった」


 小さく言った。


 ミニトマトは何も答えなかった。


「忙しいんだって」


 葉の裏に、小さな虫がいないか確認した。


 土の乾き具合を見た。


 支柱に結んだ麻ひもがきつくなっていないか触った。


 やることは、ちゃんとあった。


 植物は待ってくれない。


 けれど、人は、いつもそこにいてくれるわけではない。


 葵は、そのことを少しだけ知った。


     ◇


 八月が近づくにつれて、暑さはさらに強くなった。


 ベランダの鉢は、朝に水をあげても、夕方には土の表面が乾いていることがあった。


 ビオラはもう限界に近かった。


 葉が小さくなり、花はほとんど咲かない。


 春にはあんなに咲いていたのに、今は緑を残すだけで精一杯に見えた。


 葵は、切り戻すか、処分するか迷った。


 夏越しは難しい。


 わかっている。


 でも、簡単に捨てる気にはなれなかった。


 ステップバイステップでも、夏期講習の空気が濃くなっていた。


 小学生が計算プリントを解いている。

 中学生が英単語を覚えている。

 高校生らしい人が、黙って長文を読んでいる。


 それぞれが、自分の夏を抱えていた。


 加奈先生は、次の週には戻ってきた。


「この前はごめんね」


 席に座るなり、加奈先生が言った。


「いえ」


「急にインターンの面接が入っちゃって」


「面接……」


「うん。オンラインだったんだけど、準備が全然終わってなくて」


 加奈先生は笑った。


 でも、目の下が少しだけ疲れていた。


 葵は、ミニトマトの写真を見せようか迷った。


 一つ目の実の写真。

 二つ目の実が色づいた写真。

 バジルの葉を摘んだ写真。


 見せたい写真は、いくつかあった。


 けれど、加奈先生は忙しそうだった。


「先生、大丈夫ですか」


 葵が聞くと、加奈先生は少し驚いた顔をした。


「私?」


「はい」


「大丈夫だよ」


 加奈先生は、すぐにそう答えた。


 葵は、その言葉を聞いて、少しだけ胸が痛くなった。


 大丈夫。


 自分も、よく言う言葉だった。


 本当は大丈夫ではない時にも、言ってしまう言葉。


 でも、葵はそれ以上聞けなかった。


 加奈先生が問題集を開いた。


「じゃあ、今日は不定詞やろうか」


「はい」


 授業は、いつも通り進んだ。


 加奈先生はちゃんと教えてくれた。


 わからないところで待ってくれた。


 できているところも見つけてくれた。


 でも、最後の植物の時間はなかった。


 加奈先生が時計を見て言った。


「ごめん、今日このあと面談があって」


「はい」


「また今度、ミニトマト見せて」


「はい」


 葵は、スマートフォンを出さなかった。


 教室を出る時、入口の近くに夏期講習のポスターが貼られているのが見えた。


 手書きの文字で、


「夏は、少しずつ進む」


と書かれていた。


 誰が書いたのかはわからない。


 でも葵は、その言葉を見て、少し立ち止まった。


 少しずつ進む。


 そう思いたかった。


 でも、少しずつ離れていくものもあるのかもしれない。


     ◇


 その夜、母が帰ってくると、リビングのテーブルに模試の案内を置いた。


「八月に模試があるみたいね」


「うん」


「夏期講習の成果を見るには、受けた方がいいと思う」


 葵は、ミニトマトの写真を整理していたスマートフォンを伏せた。


「加奈先生に聞いてみる」


「そうね。でも、たぶん受けることになると思うわよ。受験生なんだから、今の位置を知っておかないと」


 今の位置。


 加奈先生も同じようなことを言っていた。


 でも、母が言うと少し違って聞こえた。


 加奈先生の「今の位置」は、地図を見ることだった。


 母の「今の位置」は、順位を見ることのように聞こえた。


「夏期講習、ちゃんと集中できてる?」


「うん」


「植物ばっかりになってない?」


 葵は、すぐに答えられなかった。


 母は、責めるような声ではなかった。


 でも、言葉はまっすぐだった。


「この前もベランダに長くいたでしょう。好きなのはいいけど、今は受験が優先だからね」


「……うん」


「高校に入ったら、園芸部とかある学校もあるかもしれないし。今はまず、選べるように勉強しないと」


 園芸部。


 葵は、その言葉に少し反応した。


 高校に園芸部があるかもしれない。


 考えたことがなかった。


 でも母は、すぐに続けた。


「そのためにも、偏差値を上げないとね」


 偏差値。


 その言葉で、さっき生まれかけた小さな光は、すぐに見えなくなった。


「うん」


 葵は、スマートフォンを持って自分の部屋へ行った。


 ベランダには出なかった。


 出ると、また長く見てしまうと思った。


 植物ばっかりになってはいけない。


 受験生なのだから。


 葵は机に向かい、英単語帳を開いた。


 けれど、文字はにじんで見えた。


 窓の外に、ベランダの鉢の影が少し見えた。


 ミニトマトは、今日も赤くなっているかもしれない。


 バジルは、水が足りないかもしれない。


 ビオラは、もう切り戻した方がいいかもしれない。


 でも葵は、見に行かなかった。


 見に行ったら、また怒られる気がした。


 誰に怒られるのかは、わからなかった。


 母かもしれない。

 学校かもしれない。

 受験生という言葉かもしれない。

 自分自身かもしれない。


 葵は、英単語帳の一行目を見た。


 文字は、頭に入ってこなかった。


 その時、リビングから母の声がした。


「葵、ちょっといい?」


 葵は、英単語帳を開いたまま顔を上げた。


 母はスマートフォンを見ながら、少し困ったような顔をしていた。


「ステップバイステップから連絡。明後日の授業、加奈先生じゃなくて、また別の先生になるみたい」


「……また?」


「大学の用事だって。就活かしらね」


 葵は、画面を見たわけではないのに、その文字が見えた気がした。


 二回目。


 一回くらいなら大丈夫だと思った。


 でも二回目になると、何かが少し違って見えた。


 加奈先生は忙しい。


 就活がある。


 大学がある。


 自分の未来がある。


 葵のミニトマトを見ている場合ではない。


 机の上の英単語帳に、部屋の明かりが白く反射していた。


 外では、夏の夜の湿った風が、ベランダの植物を揺らしていた。


 葵は、その音を聞かないように、単語帳の文字を見つめた。


 けれど胸の奥で、小さく、何かがしぼんでいく感じがした。


 ラナンキュラスの花が終わった時よりも、ずっと静かに。


 夏は、まだ始まったばかりだった。

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