↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春を待つ庭  作者: 牧静
PR
2/9

第二章 先生みたいになりたい

 扉を開けると、そこには大きな声がなかった。


 葵は、最初にそれを思った。


 集団塾の教室にあった、ホワイトボードを叩く音も、先生の声も、生徒たちが一斉に椅子を引く音も、ここにはなかった。


 あるのは、鉛筆が紙の上を動く小さな音と、誰かがページをめくる音と、少し低い声で説明する先生の声だった。


 教室は、思っていたより狭かった。


 長机がいくつか並び、その一つ一つに先生と生徒が隣り合って座っている。壁には大きな合格実績のポスターは貼られていなかった。代わりに、手書きの予定表や、少し色あせた学校案内のチラシが、まっすぐではない角度で貼られていた。


 完璧ではない感じがした。


 葵は、それに少しだけ安心した。


 入口の近くにいた丸眼鏡の男の先生が、葵と母を見て立ち上がった。


「森下さんですね。お待ちしていました」


 母が、すぐにきちんと頭を下げた。


「今日からよろしくお願いします」


 葵もあわてて頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 声が小さくなった。


 でも、その先生は聞き返さなかった。


「はい。じゃあ、今日は最初なので、担当の先生と少し話して、それから英語を見ていきましょう」


 葵は、英語、という言葉に少しだけ体を固くした。


 英語が特別嫌いなわけではない。けれど、最近は何を聞いても、受験、成績、志望校、という言葉につながっていく気がしていた。


 丸眼鏡の先生が、教室の奥に声をかけた。


「加奈先生」


 長机の一つで生徒のノートを見ていた女の人が、顔を上げた。


 白いブラウスに、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。髪は肩より少し長く、後ろでゆるくまとめていた。大学生、と聞いていたけれど、葵には大人に見えた。


 加奈先生は、生徒に何かを短く伝えてから、静かに立ち上がった。


「森下葵さん?」


 呼ばれた声は、思っていたよりずっとやわらかかった。


「はい」


「今日から担当する加奈先生です。大学三年生。よろしくね」


 加奈は、先生です、と強く言わなかった。


 それなのに、ちゃんと先生に見えた。


 葵はもう一度、頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「じゃあ、こっちに座ろうか」


 加奈先生は、教室の端にある長机へ案内した。母は、丸眼鏡の先生と少し話をすることになり、葵だけが席に座った。


 椅子に座ると、机の表面に細かな傷があるのが見えた。


 誰かが消しゴムでこすった跡。


 シャープペンシルの先でついたような小さなへこみ。


 端の方には、うっすらと鉛筆の黒ずみが残っている。


 たくさんの人が、ここで問題を解いたのだと思った。


 加奈先生が、葵の横に座った。


「緊張してる?」


 葵は、どう答えればいいかわからなかった。


 大丈夫です、と言うのが普通だと思った。でも、大丈夫ではなかった。


 少し迷ってから、葵は小さくうなずいた。


「はい」


 加奈先生は、笑わなかった。


「そっか。じゃあ、今日はゆっくりやろう」


 ゆっくり。


 その言葉が、胸の中に落ちた。


 葵は、ここ最近、ずっと急いでいた気がした。


 早く慣れなきゃ。

 早く頑張らなきゃ。

 早く普通に戻らなきゃ。

 早く教室に入らなきゃ。

 早く塾に行かなきゃ。


 でも、加奈先生は、ゆっくり、と言った。


「最初だから、何ができるか見る日ね。できないところを探す日じゃなくて、今どこにいるか見る日」


「今、どこにいるか……」


「うん。地図みたいなもの。今いる場所がわからないと、どっちに行けばいいかわからないでしょ」


 葵は少しだけ顔を上げた。


 受験の話なのに、怒られている感じがしなかった。


 加奈先生は英語の問題集を開き、最初のページを指で押さえた。


「じゃあ、ここを一緒に見てみようか。わからなかったら止まっていいからね」


 止まっていい。


 それも、葵には不思議な言葉だった。


 塾では、止まったら置いていかれると思っていた。学校でも、みんながわかっている顔をしている中で、自分だけ止まるのは怖かった。


 けれど加奈先生は、止まっていいと言った。


 葵は問題を読んだ。


 英文は短かった。単語も、ほとんど見たことがあるものだった。けれど、並び方がわからなくなると、急に全部が遠くなった。


 葵の手が止まった。


 また止まってしまった、と思った。


 加奈先生がノートをのぞきこんだ。


「ここまで考えたのは合ってるよ」


「え」


「主語はちゃんと見つけられてる。動詞もこれで合ってる。今止まったのは、その後ろのかたまりのところだね」


 葵は、ノートを見た。


 自分では、全部わからなくなったと思っていた。でも加奈先生は、できているところを先に言った。


「ここ、全部間違いじゃないんですか」


「ううん。全部間違いじゃないよ。途中まで合ってる」


 途中まで合っている。


 それだけで、少し息がしやすくなった。


 加奈先生は赤ペンを持ったが、すぐには書きこまなかった。


「葵さん、まず自分で線を引いてみる? この中で、一つの意味のかたまりだと思うところ」


「はい」


 葵は、少し迷いながら線を引いた。


 加奈先生はうなずいた。


「うん、いいね。今の引き方、かなり近い」


 かなり近い。


 葵は、答えが丸かバツかだけではないことを久しぶりに思い出した。


 授業は、静かに進んだ。


 加奈先生は急がなかった。葵が黙って考えている時間にも、すぐに答えを言わなかった。けれど、放っておかれている感じもしなかった。


 わからないところで止まると、加奈先生は少し待ってから、


「今、どこで迷った?」

と聞いた。


 葵が答えられない時は、


「単語?」

「並び方?」

「日本語にするところ?」

と選べるようにしてくれた。


 葵は、久しぶりに問題だけを見ていた。


 先生の顔色でも、周りの音でも、怒られるかどうかでもなく、目の前の英文だけを見ていた。


 授業の終わりに近づいたころ、加奈先生が問題集を閉じた。


「今日はここまでにしようか」


「はい」


「疲れた?」


 葵は少し迷った。


 疲れていた。でも、嫌な疲れではなかった。


「少し」


「そっか。最初の日にここまでできたら十分だよ」


 十分。


 それも、久しぶりに聞く言葉だった。


 母はいつも、葵ならもっとできる、と言った。


 学校では、みんなやっている、と言われた。


 集団塾では、受験生なんだから、と言われた。


 十分、と言われることは、ほとんどなかった。


 加奈先生が、ふと思い出したように聞いた。


「葵さん、好きなものってある?」


「好きなもの、ですか」


「うん。勉強以外で」


 勉強以外。


 葵は、答えていいのか少し迷った。


 好きなものを言うのは、少し怖い。前に学校で、植物の話を少しだけしたことがあった。すると、あとから別の子が、「なんかおばあちゃんみたい」と笑っていた。


 直接言われたわけではない。


 でも聞こえてしまった。


 それから葵は、植物の話を学校でしなくなった。


 けれど、加奈先生の声は急かしていなかった。


「植物、です」


 小さく言うと、加奈先生の目が少し明るくなった。


「え、私も花好きだよ」


「本当ですか」


「うん。見るのが好き。春はネモフィラ見に行ったり、バラ園行ったり」


 葵の胸の奥が、少しだけ跳ねた。


「ネモフィラ、いいですよね。横浜だと少し遠いけど、広いところで見ると空みたいで。でも、鉢でも育てられるんです。徒長しやすいから、日当たりが大事で、あと水をあげすぎると根が弱くなって……」


 そこまで言ってから、葵は止まれなくなった。


「ラナンキュラスも好きです。今ベランダで育てていて、本当は春の花なんですけど、暑さに弱いから夏越しが難しくて。花が終わった後に葉っぱが黄色くなってきたら、水を切って、塊根を掘り上げるか、そのまま乾かすか迷うんです。でも塊根って球根みたいに見えるけど、本当は根が太ったものだから、チューリップとは違って……」


 加奈先生が、少しだけ目を丸くした。


 葵は続けてしまった。


「あと、クレマチスも種類で剪定が違うんです。新枝咲きと旧枝咲きと新旧両枝咲きがあって、間違えて切ると次の花が咲かないことがあるから、タグをなくしちゃだめで。ミニトマトも脇芽を取るタイミングがあって、でも取りすぎると寂しくなるし、バジルと一緒に植えると見た目もかわいくて……」


 話しながら、葵は自分の声が少し大きくなっていることに気づいた。


 加奈先生は笑っていた。


 でも、それが困っている笑いなのか、面白がっている笑いなのか、わからなかった。


 急に、葵の胸が冷えた。


 またやってしまった。


 相手が少し花を好きだと言っただけなのに、自分だけが一気に話してしまった。


「すみません」


 葵は、うつむいた。


「え?」


「変ですよね」


 加奈先生が首をかしげた。


「変?」


「こういうの、いっぱい話すと……変だと思うので」


 葵は、机の傷を見た。


 言わなければよかった、と思った。


 好きなものは、心の奥にしまっておけば傷つかない。自分だけでベランダに出て、植物に話しかけていればよかった。


 加奈先生は、少しだけ考えるように間を置いた。


 その間が、葵には長く感じた。


「変じゃないよ」


 葵は顔を上げなかった。


「ただ、私、見るのは好きだけど、育てたことはほとんどないから」


「……はい」


「だから、今の話、半分くらいわからなかった」


 葵の肩が小さく下がった。


 やっぱり、と思った。


 でも加奈先生は続けた。


「でも、葵さんがすごく好きなのはわかった」


 葵は、少しだけ目を上げた。


 加奈先生は笑っていた。


 今度は、困っているようには見えなかった。


「花って、見るだけでもきれいだけど、育てる人はそんなことまで考えてるんだね」


「……考えます」


「そっか。すごいね」


 すごい。


 その言葉を聞いても、葵はすぐには受け取れなかった。


 すごい、ではなく、変、の方が近い気がした。


 加奈先生は時計を見た。


「じゃあ、今日はここまで。次は来週の同じ時間ね」


「はい」


 葵は教材をしまった。


     ◇


 母が迎えに来て、丸眼鏡の先生と少し話をしていた。加奈先生が母に、今日の授業のことを短く説明する。


「英文の読み方は、途中まではかなり見えていました。焦ると全部わからなくなった感じがするみたいなので、まずは区切って読む練習をしていきます」


 母は、安心したようにうなずいた。


「そうですか。よろしくお願いします」


 葵は、母の横で黙っていた。


 帰り道、母が言った。


「優しそうな先生でよかったじゃない」


「うん」


「ここなら続けられそう?」


 葵は少し考えた。


 続けられるかどうかは、まだわからない。

 でも、今日は教室から逃げ出さなかった。


 誰にも怒鳴られなかった。

 止まってもよかった。


「たぶん」


「たぶん?」


 母が少し笑った。


 葵はあわてて言い直した。


「うん。大丈夫だと思う」


 また大丈夫と言ってしまった。


 でも、今日の大丈夫は、前の大丈夫とは少し違っていた。


 家に帰ると、葵は着替える前にベランダに出た。


 五月の風は、四月より少し湿っていた。ラナンキュラスは、花びらの端が少し疲れ始めていた。きれいに咲いている花もあれば、もう中心がほどけて、形が崩れかけている花もある。


 葵はしゃがんだ。


「今日、加奈先生っていう先生だった」


 ラナンキュラスは、何も答えなかった。


「ゆっくりやろうって言ってくれた」


 葵は、指で鉢の縁をなぞった。


「でも、植物の話しすぎちゃった」


 風が吹いて、花びらが少し揺れた。


 やっぱり、話しすぎたと思った。


 加奈先生は優しかった。


 でも、本当は少し引いたかもしれない。


 次からは、あまり話さないようにしよう。


 葵はそう決めて、ベランダの床に置いていた小さなジョウロを見た。


 水をあげるには、少し遅い時間だった。夕方以降の水やりは、鉢の中が冷えたり、湿りすぎたりすることがある。


 だから今日は、水をあげなかった。


 土の表面だけを見て、まだ大丈夫、と確認した。


 植物は、見ればわかることがある。


 葉の色。


 茎の張り。


 土の乾き方。


 新芽の向き。


 でも人は、見てもわからない。


 加奈先生が本当はどう思ったのか、葵にはわからなかった。


     ◇


 次の授業の日まで、葵は何度か学校の保健室へ行った。


 教室に入れない日が、まだあった。


 朝、制服に着替えて家を出るところまではできる。校門を通ることもできる。廊下を歩くこともできる。


 でも、教室の前まで行くと、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 中から聞こえる笑い声。


 机を動かす音。


 誰かが大きな声で先生に話しかける声。


 それだけで、足が止まる。


 保健室の先生は、葵に無理に理由を聞かなかった。


「今日はここで少し休む?」


 そう言ってくれるだけだった。


 葵はうなずいて、保健室の端の椅子に座った。


 窓際に、小さな観葉植物が置いてあった。


 ポトスだった。


 少し葉が黄色くなっている。たぶん、水が多すぎるか、光が足りない。


 葵は言いかけて、やめた。


 また、変だと思われるかもしれない。


 植物のことになると、葵は余計なことを言いたくなる。


 でも、言わなければ安全だった。


 その日の夕方、ステップバイステップへ向かう時も、葵は少し緊張していた。


 今日は、植物の話をしない。


 聞かれても、少しだけにする。


 そう思いながら、古いビルの階段を上がった。


 ガラス扉の「ステップバイステップ」の文字は、やはり少し曲がっていた。


 葵は、その曲がり方を見て、ほんの少し息を吐いた。


 完璧ではなくても、ここにあっていい。


 そんなふうに見えた。


 教室に入ると、加奈先生が先に机に座っていた。


「葵さん、こんにちは」


「こんにちは」


 加奈先生の前には、英語の問題集と、ノートが置かれていた。


 その隣に、もう一枚、何か紙があった。


 葵は椅子に座った。


「先にちょっとだけ聞いていい?」


「はい」


 加奈先生は、その紙を葵の方へ向けた。


 そこには、プリントアウトされた植物の写真がいくつか並んでいた。


 丸く重なった花びらの花。


 細い茎に咲く紫の花。


 青い小さな花が広がる風景。


 葵は、すぐにわかった。


「ラナンキュラス……」


「うん。この前のラナンキュラスなんだけど」


 加奈先生は少し照れたように笑った。


「調べてみた」


 葵は、言葉が出なかった。


「夏越しって難しいんだね。暑さと湿気に弱いって書いてあった。横浜だとけっこう大変?」


「……大変です」


「あと、塊根って、球根じゃないんだね」


 加奈先生は、紙の端に自分で書いたらしいメモを見た。


「根が太ったもの、って書いてあった。チューリップみたいな球根とは違うって。これ、合ってる?」


 葵は、加奈先生を見た。


「調べたんですか?」


「うん」


「なんで……」


 加奈先生は少し首をかしげた。


「なんで、って」


 葵は、プリントの写真を見た。


 ラナンキュラス。

 クレマチス。

 ネモフィラ。


 葵がこの前、勢いで話してしまった花たちだった。


「私が、話したからですか」


「そうだよ」


 加奈先生は、当たり前みたいに言った。


「好きなこと話してる時の葵さん、楽しそうだったから」


 胸の奥で、何かが小さく音を立てた気がした。


 葵は、プリントから目を離せなかった。


 誰かが、自分の好きなものを覚えていてくれた。


 誰かが、それを家に持ち帰って、調べてくれた。


 それは、葵にとって、思っていたよりずっと大きなことだった。


 加奈先生は、紙を指で押さえながら言った。


「でも、私、本当に見る専門だったから、育てる話は全然わからなくて。間違ってたら教えて」


「……はい」


「クレマチスの剪定も見たんだけど、難しすぎない?」


 加奈先生が少し困った顔をした。


「新枝咲き、旧枝咲き、新旧両枝咲きって、名前からしてもう難しい」


 葵は、思わず笑いそうになった。


「難しいです。でも、慣れるとわかります」


「葵さん、わかるの?」


「少しだけです」


「少しだけで、それ?」


 加奈先生が目を丸くした。


 葵は、今度は少しだけ笑った。


「タグをなくさなければ、大丈夫です。あと、花が終わった後にどこで切るかが違って……」


 そこまで言って、葵はまた止まった。


 話しすぎてはいけない。


 けれど加奈先生は、ペンを持った。


「待って。今の、書く」


「え」


「タグをなくさない。花が終わった後、どこで切るかが違う」


 加奈先生はノートの端に、本当に書いた。


 葵は、それを見ていた。


 先生が、生徒の言葉をメモしている。


 そのことが、不思議だった。


「すごいね」


 加奈先生が言った。


「植物って、ただ水をあげればいいわけじゃないんだ」


「はい」


「葵さん、いつから育ててるの?」


「小学校の時からです。最初は朝顔で、そのあとミニトマトを育てて。学校のは夏休みに持って帰ったら枯れちゃったんですけど、悔しくて、家でまた育てました」


「悔しかったんだ」


「はい」


 葵は、少しだけ考えた。


「枯れると、かわいそうなので」


 加奈先生は、何も言わずに聞いていた。


「でも、枯らさないようにしようと思って水をあげすぎても、根腐れするんです。日が強すぎても弱るし、日が足りなくても花が少なくなるし。優しくするだけじゃだめで、ちゃんと見ないといけなくて」


 言いながら、葵は自分で驚いた。


 植物の話をしているのに、少しだけ、自分の話をしている気がした。


 加奈先生は静かにうなずいた。


「ちゃんと見る、か」


「はい」


「それ、勉強も少し似てるかもね」


 葵は顔を上げた。


「勉強もですか」


「うん。頑張れって言うだけだと、真夏の陽に当てすぎるみたいになることがあるし、守りすぎても弱っちゃうし。今どこが苦しいのか、ちゃんと見ないといけないのかもね」


 葵は黙った。


 加奈先生の言葉は、母の言葉とは違っていた。


 頑張れ、ではなかった。


 逃げるな、でもなかった。


 ちゃんと見る、だった。


「じゃあ、今日は英語もちゃんと見ようか」


 加奈先生が問題集を開いた。


「ラナンキュラスの続きは、最後にまた聞かせて」


 葵は、はい、と答えた。


 その日の授業は、前より少しだけ早く進んだ。


 でも、急がされている感じはしなかった。


 加奈先生は、問題を解く前に、


「今日はここが目標」

と小さく区切ってくれた。


 葵が途中で止まると、


「今、頭の中で何が引っかかった?」

と聞いた。


 葵は、少しずつ答えられるようになった。


「このthatが、何なのかわからないです」


「いいね。そこに気づけたら大事」


「いいんですか」


「うん。わからない場所が言えるのは、かなりいい」


 わからないことを言ってもいい。


 それがわかるだけで、問題は少し小さくなった。


 授業の最後、加奈先生はまたプリントを出した。


「で、ラナンキュラスは、花が終わったらどうするの?」


 葵は、今度は少しだけ迷ってから話した。


「葉っぱが黄色くなってきたら、水を減らします。完全に地上部が枯れたら、掘り上げる人もいます。私は去年、掘り上げたら小さい塊根が折れちゃって……だから今年は鉢のまま乾かそうか迷ってます」


「折れるんだ」


「折れます。けっこう繊細なので」


「そっか」


 加奈先生は、ラナンキュラスの写真を見た。


「こんなに花びらが多いのに、根っこは繊細なんだね」


 葵は、その言葉を聞いて、少し胸が痛くなった。


 加奈先生は、たぶん何気なく言っただけだった。


 でも葵には、その言葉がしばらく残った。


 花びらが多いのに、根っこは繊細。


 きれいに咲いているように見えても、土の中では弱いところがある。


「葵さん?」


 加奈先生に呼ばれて、葵は我に返った。


「大丈夫?」


 葵は少しだけ笑った。


「大丈夫です」


 今度の大丈夫は、前より少し本当だった。


     ◇


 その帰り道、葵はいつもより少しだけ歩くのが速かった。


 母は仕事が長引いていて、今日は一人で帰ることになっていた。駅までの道には、夕方の人の流れがあった。会社員、高校生、買い物袋を持った人、スマートフォンを見ながら歩く人。


 その中で、葵は鞄の中に入れたプリントのことを考えていた。


 加奈先生が調べてきてくれたラナンキュラス。


 クレマチス。


 ネモフィラ。


 ただのプリントだった。


 インターネットで調べれば、誰でも出せるものだった。


 でも、葵には宝物みたいに思えた。


 家に帰ると、母はまだ帰っていなかった。


 葵は制服のままベランダに出た。


 ラナンキュラスは、夕方の光を受けていた。花びらの端は少し乾いて、色も少し薄くなってきている。それでも、中心の方にはまだ濃い色が残っていた。


 葵はしゃがんだ。


「加奈先生、塊根のこと、調べてくれたんだよ」


 声に出すと、胸の奥が少し熱くなった。


「球根じゃないって、ちゃんと覚えてた」


 ラナンキュラスは、何も答えなかった。


 けれど、花びらが風で少し揺れた。


 葵は、鉢の横に置いていた小さなスコップを手に取った。土の表面を、ほんの少しだけ整える。


 水は、まだいらない。


 あげすぎないことも、世話だった。


「先生、すごいんだよ」


 葵は、小さく言った。


「優しくて、頭がよくて、ちゃんと見てくれる」


 自分の好きなものを笑わずに聞いてくれる。


 わからないことを、わからないままにしないで、調べてくれる。


 問題が解けない時も、できているところを見つけてくれる。


 葵は、ラナンキュラスの少し開きすぎた花を見た。


「私も、加奈先生みたいになれたらいいな」


 その言葉は、思っていたより自然に出た。


 誰かみたいになりたいと思うのは、久しぶりだった。


 普通になりたい、ではなく。


 ちゃんとしなきゃ、でもなく。


 加奈先生みたいになりたい。


 葵は、その違いをまだうまく言葉にできなかった。


 ただ、胸の奥に、小さな芽のようなものが出た気がした。


 まだ、花ではない。


 葉でもない。


 土の中で、何かが少し動いただけ。


 葵はそれを、そっと見つめていた。


 葵はまだ知らなかった。


 加奈先生もまた、自分の先に何があるのかわからずに、立ち止まり始めていることを。


 先生に見えたその人も、本当はまだ、自分の春を探している途中なのだということを。


 ベランダのラナンキュラスは、夕方の風に揺れていた。


 咲き終わりに近づいた花の下で、次の季節のための小さな根が、土の中に静かに残っていた。

続きも読んでみたいと思っていただけましたら、

ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。