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春を待つ庭  作者: 牧静
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第一章 ごめんなさい

 四月の夕方。


 学校から帰ると、葵は制服のままベランダに出た。


 鞄を机の横に置いただけで、着替えもしなかった。


 教室にいた時間のざわざわが、まだ体のどこかに残っていた。


 ベランダに出ると、少しだけ息がしやすくなった。


 ラナンキュラスが、夕方の光を受けて咲きかけていた。


 葵はしゃがみ込み、まだほどけきっていない花びらを見つめた。


 薄い桃色の花びらが、幾重にも重なっている。外側の花びらは少し開いているのに、真ん中の方はまだ固い。


 急がせても開かない。


 水をやりすぎても、日なたに出しすぎても、うまくいかない。


 待つしかない。


 植物は、そういうところが好きだった。


 ちゃんと見ていれば、少しずつ変化がある。葉の色が薄くなったり、つぼみが少し膨らんだり、土の乾き方が昨日と違ったりする。


 言葉では何も言わない。


 でも、嘘もつかない。


 葵は鉢の土に指を触れた。


 まだ少し湿っている。


 今日は水をあげなくていい。


 メモ帳に、「四月八日 水やりなし。つぼみ三つ」と書いた。


 玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま」


 母の声だった。


 葵はメモ帳を閉じた。


 すぐに返事をしようとしたが、ベランダにいると声が届きにくい。葵は立ち上がり、室内に戻った。


 母は仕事用のバッグを肩にかけたまま、リビングのテーブルに封筒を置いていた。


「葵、ちょっと来て」


 その声を聞いた瞬間、葵は少しだけ体を固くした。


 母が「ちょっと来て」と言う時は、たいてい、何かを決める時だった。


 リビングのテーブルには、塾のパンフレットが三つ並んでいた。


 大きな文字。


 合格実績。


 第一志望合格。


 春から本気。


 その言葉を見るだけで、葵の胸の奥が少し固くなった。


 母はパンフレットを指でそろえながら言った。


「中三になったんだから、そろそろちゃんと塾に行かないと」


「うん」


「この集団塾、評判いいみたい。お母さんの会社の人のお子さんも通ってたって」


 葵はパンフレットを見た。


 教室の写真には、たくさんの生徒が前を向いて座っていた。先生がホワイトボードの前に立って、何かを力強く説明している。


 葵は、その写真だけで少し疲れた。


「個別じゃだめ?」


 思ったより小さい声が出た。


 母は少し眉を寄せた。


「最初から個別は違うと思う」


「でも……」


「葵」


 母の声が少し低くなった。


「受験生なんだから、周りの空気を見た方がいいの。みんながどれだけ頑張ってるか見たら、葵も変わると思う」


 周りの空気。


 葵はその言葉が苦手だった。


 空気は見えないのに、いつも葵の体に入ってくる。


 教室のざわざわ。


 誰かが怒られている時の沈黙。


 笑っているのに、本当は相手を馬鹿にしているような声。


 そういうものが、葵には強すぎた。


「集団は、ちょっと怖い」


 葵は言った。


 母はため息をついた。


「怖いって、まだ行ってないでしょ」


「でも、たぶん」


「たぶんで決めないの。みんな最初は不安なの」


 母は間違ったことを言っていない。


 葵にも、それはわかった。


 だから、言い返せなかった。


 母は葵の方を見て、少し表情をやわらげた。


「葵ならできるよ。ちゃんとやれば、できる子なんだから」


 できる子。


 その言葉は、褒め言葉のはずだった。

 でも葵には、細い糸のように首にかかる。


 できるなら、やらなければいけない。

 できるのにできないのは、怠けているから。


 そう言われている気がした。


「……わかった」


 葵はうなずいた。


 母はほっとしたように笑った。


「よかった。じゃあ体験授業、申し込んでおくね」


 母が笑うと、葵は少し安心した。


 お母さんが喜んでいる。


 だったら、これでいいのだと思おうとした。


 話が終わった後、葵はもう一度ベランダに出た。

 ラナンキュラスの鉢の前にしゃがみ込み、長いあいだ、ほどけかけた花びらを見つめていた。


「私も、ちゃんと咲かなきゃだめなのかな」


 もちろん、花は答えなかった。


     ◇


 最初の授業の日。


 葵は横浜駅から塾までの道を、母と一緒に歩いた。


 大きなビルの三階。


 受付には合格者の名前が貼られていた。壁には「中三春から差がつく」と書かれていた。


 母はそれを見て、少し満足そうにした。


「ほら、ちゃんとしてる塾でしょ」


 葵はうなずいた。


 ちゃんとしている。


 それが、余計に怖かった。


 教室に入ると、すでに何人もの生徒が座っていた。


 シャーペンを動かしている子。


 単語帳を見ている子。


 友達と模試の話をしている子。


 みんな、葵より先に受験生になっているように見えた。


 葵は一番後ろの席に座った。


 机の上に筆箱を置く。


 手が少し冷たい。


 授業開始のチャイムが鳴った。


 先生が勢いよく教室に入ってきた。


「はい、始めるぞ!」


 大きな声だった。


 葵の背中が固まった。


「中三は甘くない。ここから一年、本気でやれるやつだけが伸びる。わかってるな」


 生徒たちが「はい」と返事をした。


 葵も遅れて小さく言った。


「はい」


 授業は速かった。


 先生の声。


 ホワイトボードにマーカーが走る音。


 ページをめくる音。


 答えを言う生徒の声。


 葵は必死にノートを取った。


 でも、周りの生徒がすぐに答えるたびに、自分だけが遅れている気がした。


 途中で、一人の男子が指された。


「じゃあ、ここ。答えは?」


 男子はしばらく黙っていた。


「……わかりません」


 先生の声が変わった。


「おい!ここ、宿題の範囲だぞ!」


 男子は目をそらした。


 「お前、宿題やってないだろ」


 教室の空気が、すっと冷たくなった。


 葵はシャーペンを握ったまま、動けなくなった。


「受験生だぞ!何しに来てんだよ!」


 葵はびくっとした。


 怒られているのは自分ではない。


 それなのに、胸の奥が小さく縮んだ。


 男子は笑ってごまかした。


 先生はさらに声を強くした。


「笑ってる場合じゃないだろ。やる気ないなら帰れ」


 教室が静かになった。


 葵はシャーペンを握ったまま、動けなくなった。


 やる気ないなら帰れ。


 受験生だぞ。


 何しに来てんだよ。


 その言葉が、自分に向けられているような気がした。


 授業が終わった時、葵のノートには、途中から字がほとんど残っていなかった。


 帰り道、母が聞いた。


「どうだった?」


 葵は少し迷った。


 怖かった。


 苦しかった。


 もう行きたくない。


 でも、母の顔を見ると、言えなかった。


「……大丈夫だった」


「そう。よかった」


 母は嬉しそうだった。


「慣れれば平気よ。最初だけよ」


 葵はうなずいた。


 最初だけ。


 そうかもしれないと思いたかった。


 けれど、次の授業の日が近づくにつれて、葵のお腹の奥がきゅっと縮むようになった。


     ◇


 朝、ベランダに出ても、ラナンキュラスの変化をうまく見られなかった。


 つぼみが一つ開きかけている。


 本当なら嬉しいはずなのに、葵の頭の中には塾の教室が浮かんでいた。


 先生の声。


 ホワイトボードの音。


 宿題を忘れた子を責める声。


 葵はじょうろを持ったまま、しばらく動けなかった。


 それでも葵は、塾には行った。


 行きたくないと言えば、母が悲しむと思った。


 行けませんと言えば、自分が負けたことになる気がした。


 塾の日が近づくと、お腹の奥がきゅっと縮む。駅に向かう道では、何度も足が止まりそうになる。


 それでも、葵は塾の教室に入った。


 帰るたびに、もう無理だと思う。


 でも次の週になると、また行く。


 それを繰り返しているうちに、学校も苦しくなった。


 それまでも、教室が得意だったわけではない。


 でも、何とか座っていられた。


 授業を聞いて、休み時間は本を読んで、昼休みは静かに過ごしていた。


 それで十分だった。


 けれど、集団塾に通い始めてから、教室の音が前より大きく聞こえるようになった。


 男子の笑い声。


 女子の小さな陰口。


 先生が注意する声。


 誰かが椅子を引く音。


 全部がばらばらに飛んできて、葵の体に刺さった。


 塾に通い始めて三週間たった、ある日の一時間目。


 隣の席の子がプリントを忘れて、先生に注意された。


 強い言い方ではなかった。


 普通の注意だった。


 それでも葵の手は冷たくなった。


 息が浅くなる。


 黒板の字が少し遠くなる。


「葵さん、大丈夫?」


 先生に聞かれて、葵はうなずいた。


 でも、次の瞬間、涙が出そうになった。


 葵は保健室に行った。


 保健室の白いカーテンは、風で少しだけ揺れていた。


 養護の先生は、何も責めなかった。


「少し休もうか」


 そう言われて、葵はベッドの端に座った。


 休んでいるだけ。


 そう思おうとした。


 でも、教室に戻れなかった。


 その日から、葵は少しずつ保健室にいる時間が増えた。


 母には、言えなかった。


 聞かれたら答える。


 でも、自分からは言わない。


     ◇


 母は学校からの連絡で知った。


 その日の夜、食卓で母は言った。


「保健室に行ってるの?」


「……うん」


「どうして?」


「ちょっと、教室が」


 母は少し眉をひそめた。


「でも、塾には行けてるんでしょ?」


「うん」


「じゃあ、学校も頑張れないの?」


 葵は箸を握ったまま、しばらく黙っていた。


「……塾も、ほんとは、個別にしたい」


やっと言えた声は、自分でも驚くほど小さかった。


母の眉が少し動いた。


「またその話?」


「集団は、ちょっと苦しい」


「でも、まだ始めたばかりでしょ」


「うん」


「もう少し頑張ってみなさい」


 母の声には、責める響きがあった。


 葵は小さくうなずいた。


 母はしばらく黙った。


「葵、受験生なんだよ」


「うん」


「ここで逃げ癖がついたら、高校に行っても同じことになるよ」


 逃げ癖。


 葵はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。


 逃げているのだろうか。


 自分は逃げているのだろうか。


 塾に行きたくない。


 教室にも行けない。


 大きな声が怖い。


 それは全部、逃げなのだろうか。


「ごめんなさい」


 葵は言った。


 母は少し困った顔をした。


「謝ってほしいんじゃないの。ちゃんとしてほしいの」


 ちゃんと。


 葵はうなずいた。


 でも、ちゃんとする方法がわからなかった。


     ◇


 五月の連休明け。


 塾の授業で、また宿題チェックがあった。


 葵は宿題をやっていた。


 全部やった。


 間違いも直した。


 それなのに、チェックの時間になると心臓が強く鳴った。


 自分が怒られるわけではない。


 でも、誰かが怒られるかもしれない。


 その「かもしれない」だけで、葵の体は固まった。


 思った通り、一人の生徒が宿題を忘れていた。


 先生が眉をひそめた。


「何回言わせるんだ」


 教室が静かになった。


「受験生だろ!」


 声が響いた。


 葵の視界が白くなった。


 音が遠くなる。


 指先がしびれる。


 息を吸おうとしても、うまく入ってこない。


 隣の子が小さく言った。


「大丈夫?」


 葵は立ち上がろうとした。


 でも足が動かなかった。


 先生がこちらを見た。


「どうした?」


 みんなの視線が集まる。


 迷惑をかけている。


 授業を止めている。


 ちゃんとできない。


 また、できない。


 葵はやっと立ち上がり、小さく頭を下げた。


「ごめんなさい」


 それだけ言って、教室を出た。


 廊下に出た瞬間、涙がこぼれた。


 受付の人が慌てて近づいてくる。


 でも、葵は何も言えなかった。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 頭の中で、その言葉だけが繰り返された。


     ◇


 その夜、母は長い時間、黙っていた。


 リビングのテーブルには、集団塾のテキストが置かれていた。


 分厚いテキスト。


 赤いペン。


 宿題のチェック表。


 葵はそれを見るだけで、体が少し震えた。


「そんなに無理なの?」


 母が言った。


 葵はうなずいた。


「うん」


「みんな頑張ってるのよ」


「うん」


「怒られるのが嫌なのは、誰だってそうでしょ」


「うん」


「葵だけが特別つらいわけじゃないと思う」


 葵はうつむいた。


 たぶん、そうなのだ。


 自分だけが特別つらいわけではない。


 だから、自分が弱い。


 自分が普通ではない。


 そう思った。


 母はため息をついた。


「……個別にする?」


 葵は顔を上げた。


「いいの?」


「このまま何もしないわけにはいかないでしょ」


 母は言った。


「ただし、個別にしたから楽になると思わないで。ちゃんと勉強するのよ」


「うん」


「受験は待ってくれないんだから」


「うん」


 葵はうなずいた。


 母の言葉は、まだ重かった。


 でも、あの教室に戻らなくていい。


 そのことだけで、胸の奥に少し空気が入った。


 翌朝。


 葵はベランダに出た。


 ラナンキュラスは、昨日より少しだけ開いていた。


 花びらが何枚も重なっている。


 中心はまだ見えない。


 葵は鉢の前にしゃがみ込んだ。


「ごめんね」


 また、その言葉が出た。


 自分が何に謝っているのか、わからなかった。


 塾をやめること。


 母をがっかりさせたこと。


 学校に行けないこと。


 ちゃんとできないこと。


 それとも、花を見ても心から喜べなくなっていたこと。


 ラナンキュラスは何も言わなかった。


 ただ、朝の光の中で、少しずつ花びらを開いていた。


     ◇


 五月の土曜日。


 葵は、個別指導ステップバイステップのガラス戸の前に立っていた。


 横浜駅から少し離れた、古いビルの二階。


 大きな合格実績のポスターはない。


 ガラスには、手作りの文字で「ステップバイステップ」と貼られていた。


 少しだけ曲がっている。


 葵は、その曲がり方を見て、なぜか少し安心した。


 完璧じゃない。


 ちゃんとしているけれど、少しだけ手作りで、少しだけ不器用。


 葵は深呼吸をした。


 この扉の向こうにも、大きな声の先生がいるかもしれない。


 また、うまくできないかもしれない。


 また、謝ることになるかもしれない。


 それでも、ここまで来た。


 葵はそっとガラス戸に手をかけた。


 まだ知らなかった。


 この扉の向こうで、自分の好きなものを知ろうとしてくれる人に出会うことを。


 そして、何度も「ごめんなさい」と言ってきた葵が、いつか誰かに、


「そのままでいいと思います」


 と言えるようになることを。

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