表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/11

王都の門

王都は、音から、はじまった。


 丘をひとつ越えたところで、まだ街は見えないのに、低いうなりのようなものが、風に乗って届いた。人の声と、車輪と、蹄と、市場の鐘。数えきれないものが混ざって、ひとつの音になっている。


 関所を抜けてから、ふた晩が過ぎていた。


 ふた晩とも、何ごともなかった。何ごともない夜が、どれだけ長いものか、リディアは、もう知っている。


「見えるわよ」


 御者台の母が、言った。


 リディアは、母の隣に座っていた。あの夜営からあと、幌の中でひとりで揺られているのが、なんとなく、いやだったのだ。


 街道が、丘を下る。


 白が、見えた。


 白い壁だった。朝の光を受けて、丘の端から端まで、続いている。町の壁とも、関所の壁とも、比べものにならない。壁の向こうには、塔が、いくつも立っていた。いちばん高い塔の先で、金色の何かが光っている。


「中央教会の、鐘楼よ」母が言った。「あの鐘は、王都のどこにいても、聞こえるの」


 いくつもの街道が、合わさりながら、門へ流れこんでいく。荷馬車。家畜の群れ。背負い籠の行商人。川のようだった。


 リディアは、街道のうしろへ、耳を澄ました。


 あの湿った足音は、夜明け前から、聞こえなくなっていた。


 消えたのではない、と思う。あれは、消えない。ただ、どこかで止まって、こちらを見ている。離れてくれたのに、背中は、かえって落ち着かなかった。


 空には、二羽。


 黒い鳥は、白い壁が見えたあたりで、高く昇り、それきり、ついてこなくなった。


「この壁は、越えないんだ」テオが、幌から首を出して言った。「関所のは、翼も動かさずに越えたのに」


「越えないんじゃなくて」母は、前を見たまま言った。「越えれば、知られるのよ。ここの結界は、町のものとは、桁が違うから」


 じゃあ、安全だ。


 そう思えば、いいはずだった。


 門は、開いていた。人と荷の列が、吸い込まれていく。並ぶのだろうと思っていたら、母は、列の脇へ馬車を寄せた。


 門の影に、白い長衣の一団が、立っていた。


 待っていたのだ。わたしたちを。


 先頭の男が進み出て、頭を下げた。深い礼なのに、急いで覚えた礼に見えた。


「エレノア・アークライト様。魔術院より、お迎えに上がりました」


 男は、書面を広げた。


「総長アデルバート様のご指示により、ご一行を聖域までご案内いたします」


 母は、すぐには答えなかった。


「……出迎えなど、頼んでいないわ」


「街道の検問所より、報せが参りますので」


 男は、にこやかに言った。にこやかさの奥が、見えない人だった。


 ああ、そうか、とリディアは思った。


 関所で、手形を見せた。あのときから、もう、知られていたのだ。


 門をくぐるとき、リディアは、振り返った。


 白い壁の上の空で、黒い点がふたつ、円を描いていた。


 中には、入ってこない。


 ただ、覚えている、というように。


     *


 王都の中は、声で、できていた。


 売り声。呼び声。子どもの泣き声。石畳の上を、これだけの人が歩いているのに、誰ともぶつからないのが、ふしぎだった。


 生まれてから今日までに見た人の数を、リディアは、この一刻で追い越した気がした。


 そして、その誰ひとり、リディアを見なかった。


 いつものことだ。町でも、そうだった。


 かわりに、人々は、母を見た。


 白い長衣の一団と、その真ん中を行く灰色の髪の女。通りのどこかで、誰かがささやくと、ささやきは、荷車より速く通りを走った。


「……白暁の、魔女?」


「帰ってきたのか」


「ほんものか」


 窓が開く。子どもが屋根に登る。みんなが、伸び上がって、母を見ようとする。


 その視線は、母の隣のリディアの上を、すべって、落ちた。何十も、何百も。ひとつ残らず。


 母は、前だけを見て歩いていた。歩き方で、わかった。母はこの街を知っている。そして、好きではないのだ。


 ただ、先頭を行く白い長衣たちは、違った。


 彼らは、振り返るたび、列を確かめ、人数を数えた。


 数えられている。数え落とされては、いない。なのに、町で忘れられていたときより、肌が、寒い。


 大通りを抜けると、街の音が薄くなった。白い石塀が続き、その奥の丘が、まるごと白い建物だった。教会の鐘楼。魔術院の塔。それを囲む、たかい塀。


「聖域です」先頭の男が言った。「以後、院の定めに従っていただきます」


 聖域の門は、王都の門より、小さくて、厚かった。


 門の前で、男が、書面を読み上げた。


「『第三封印具の移送、ならびに保管について』――」


 移送。


 保管。


 荷物に使う言葉だ、ということくらい、リディアにもわかった。


「『封印具ならびに保持者の身柄は、魔術院北翼にて、これを保護する。検めののち――』」


「お待ちなさい」


 母の声が、書面を途中で切った。


「保持者、ではないわ。娘の名は、リディア。リディア・アークライトよ」


 男は、頭を下げた。


「記載のままに、読み上げております」


 下げた頭は、すぐに上がった。


「続けます。『検めののち、入域を許す』。――検め師」


 長衣の列から、小柄な老人が出てきた。手に、透きとおった石のついた短い杖を持っている。


 老人は、リディアの前に立った。


 目が合う、と思った。


 合わなかった。


 老人の目は、リディアの顔の、すこし下を見ていた。襟元を。服の下の、石のあるあたりを。ずっと、そこだけを。


「失礼」


 杖の先が、胸元へ伸びてくる。


 体がこわばった。その杖の先を、横から、母の手が押さえた。


「触れないで」


 静かな声だった。けれど、列のぜんぶが、止まった。


「それは、石の検めでしょう。娘の体に触れていい、とは、どこにも書いていないはずよ」


「……規程ですので」と、男が言った。


「では、規程のほうを、直しなさい」


 男と老人が、目を見交わした。長い沈黙では、なかった。けれど、母の言葉がそのまま通った沈黙でも、なかった。


「――翳すのみ、と」男が言った。「検めは、省けません。総長のご指示ですので」


 母は、手を引いた。


 それが、母に通せる、ぎりぎりの線なのだとわかった。


 老人が、杖を、リディアの胸の手前にかざした。


 透きとおった石が、すっと曇って、灰色になった。


 老人の手が、止まった。


 白い長衣たちの列に、小さなざわめきが走って、すぐに消えた。何が見えたのか、リディアにはわからない。聞ける空気でも、なかった。


「……記録します」老人は、書面に何かを書きつけた。なんと書いたのかは、見えなかった。


「総長には、本日中に」と、先頭の男が老人に言った。


「は。お報せいたします」


 わたしの何かが、いま、量られて、書かれて、知らない人のところへ運ばれていく。


 名前は、一度も、呼ばれなかった。


     *


 北翼の入り口は、石の広間だった。


 長い机がひとつ。その向こうに、書記がひとり座っている。壁ぎわには、槍を持った衛兵がふたり。視線はまっすぐ前を向いたまま、動かない。


 書記は、分厚い帳面を開いて、羽根ペンを構えた。


「入域の登録を。――まず、エレノア・アークライト様」


 母が答え、書記が書く。


「次。同行の……」書記は、帳面と手元の書面を見比べた。「保持者」


「リディアです」


 声は、自分で思ったより、はっきり出た。


 ゆうべの夜営の、あの叫びにくらべれば、たやすかった。机の向こうの書記は、夜の闇より、ずっと近い。


「リディア・アークライト。それが、わたしの名前です。そう書いてください」


 書記が、顔を上げた。


 一瞬、ほんとうに一瞬だけ、書記の目が、リディアの目と合った。


「……備考欄に、記しておきます」


 目は、すぐ帳面へ戻った。羽根ペンが動き、保持者、という字の下に、小さな字が添えられた。遠目には、読めなかった。


 備考欄。


 わたしの名前は、この街では、備考なのだ。


「次。そちらの少年」


 書記のペンが、テオを指した。


「同行者の登録は、ご親族か、身元の保証ある方に限られます。あなたは」


「テオ。ただの、同級生」


「ご親族では、ない。保証人は」


「いない」テオは、あっさり言った。「僕、ここまでかな」


 あんまりあっさりしていたから、本気で引き返す気なのだとわかった。テオは、いつもそうだ。あるものは、ある。ないものは、ない。それで、怒らない。


 書記がうなずいて、ペンを動かしかけた。


 帳面から、テオの名前が、書かれないまま、こぼれ落ちようとしていた。


 メルの椀を、思い出した。数えそこなわれた、椀の数を。


 あのとき、わたしは、椀を数え直してとは、言えなかった。


 リディアは、机に一歩、近づいた。


「待ってください」


 書記の手が、止まる。


「テオは、わたしが連れてきました。わたしの同行者です。わたしが、保証します」


「……保持者に、保証人の資格は」


「リディアです」


 もう一度、言った。


「名前が、あります。名前で、保証します」


 広間が、すこし静かになった。衛兵の片方が、首だけこちらへ向けたのが見えた。


 書記は、困った顔で、白い長衣の男を見た。男が、何か言いかける。


 その前に、母が、リディアの隣に並んだ。


 前では、なかった。


 隣だった。


「娘の言葉に、わたしの名を添えます」母は言った。「それで、書けるでしょう」


 書記は、しばらくペンの先を見ていた。


 それから、書いた。


 テオ。リディア・アークライトの同行者。保証、同上。


「……君のおかげで、入れた」廊下へ歩きながら、テオが小声で言った。「変だね。見つけたのは、僕が先なのに」


「うん」


「今の、よかったよ。夜営のより、聞きやすかった」


 テオなりの、ほめ言葉だった。


     *


 あてがわれた部屋は、北翼の三階にあった。


 白い壁。白い寝台がふたつ。卓と、椅子。窓はたかい場所にひとつだけで、細い鉄の格子がはまっていた。テオは、隣の小部屋に通された。


 扉の鍵は、外側についていた。


 内側には、なかった。


「ご保護のためです」案内の男は言った。「廊下には、夜のあいだも衛兵が立ちます。ご安心を」


 扉が閉まると、母は、寝台のはしに腰を下ろした。


 町を出てから、はじめて見る、すわった母だった。


「お母さん。すこし、眠って」


 リディアは言った。


「ここには、壁が、いっぱいあるから」


 母は、目を閉じたまま、すこしだけ笑った。


「……そうね。壁だけは、いっぱいあるわね」


 壁の中の何かについては、言わなかった。


 言わないことが、答えのようなものだった。


 しばらくして、母の息が、深くなった。


 すわったまま、眠っていた。


 町を出てから、四日。御者台で目だけ閉じる夜を、眠りと呼ぶなら呼べるのかもしれない、と思っていた。呼べないのだと、いま、わかった。これが、眠りだ。肩から力が抜けて、手が、手綱の形を忘れている。


 リディアは、毛布を一枚取って、母の肩にかけた。


 起きなかった。


 世界を救った人が、鍵を外から掛けられる部屋で、ようやく眠っている。守るものが、毛布一枚しかない。それでも、掛けるのは、わたしでいたかった。


 リディアは、卓の上に、父の手帳を開いた。


 ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。


 五つの名前は、ゆうべと変わらずに、そこにあった。炭の字は、すこしかすれてきている。


 ふところの炭で、薄くなった字を、上からなぞった。ユアンの「ア」。メルの「ル」。一画ずつ。急がずに。


 ここでは、わたしが、名前を書く側だ。


 備考欄に、ではなく。


 そのとき、鐘が鳴った。


 太い、深い音だった。三つ数えるほどの長さで、ひとつ。床と、壁と、窓の格子が、かすかにふるえる。王都のぜんぶの上を、音がゆっくり渡っていく。


 胸の石が。


 とくり、と。


 ひとつだけ、脈を打った。


 リディアは、襟の上から石を押さえた。冷たい。いつもの冷たさだった。気のせい――にしては、はっきりしていた。けれど、鐘の音の尾が消えると、石はもう、ただの石だった。


 母は、鐘でも、起きなかった。


 扉が叩かれたのは、その直後だった。


 顔を上げると、母の目は、もう開いていた。鐘では起きずに、扉で起きる。そういう眠り方しか、できない人なのだ。


 灰色の衣の、年とった尼が立っていた。白い長衣たちとは、まとう空気が違った。腰が低くて、目が、ちゃんと人の顔を見る目だった。


「大司教さまの、お使いです」


 尼は、母とリディアを順番に見て、言った。


「セラフィナさまが、明日の朝、お会いになります。――エレノアさまと」


 それから尼は、リディアに向き直った。


「リディアさまと」


 リディアは、まばたきをした。


「……いま、名前で、呼びました」


「はい?」


「わたしを、名前で」


 尼は、ふしぎそうな顔をして、それから、すこし笑った。


「大司教さまが、そう仰せでしたので。――石ではなく、娘さんに会いたいのだ、と」


 尼が下がり、廊下の足音が遠ざかったあとも、リディアは、扉を見ていた。


 この街に入って、はじめて、名前を呼ばれた。


 会いたい、と言われた。石では、なくて。


 うれしい、はずだった。半分は、たぶん、ほんとうにうれしかった。


 でも、もう半分が、ゆっくり冷えていく。


 会ったこともない人が、どうして、石と娘を、分けて呼べるのだろう。


 この石が何であるかを、母のほかに知っている人が、この壁の中にいる。


 明日の朝、その人に会う。


 高い窓の格子の向こうで、暮れた空が、藍色になっていた。


 鐘の音は、もう、しなかった。


→ 次話「大司教セラフィナ」。ブックマーク・★評価で続きが届きやすくなります

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ