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大司教セラフィナ

朝課の鐘が鳴り終わらないうちに、迎えは来た。


 きのうの、灰色の尼だった。


「お支度がよろしければ、ご案内いたします」


 テオは、呼ばれていなかった。


「僕は、留守番」


 テオは、寝癖のついた頭のまま、ひらひらと手を振った。


 母は、旅の埃を払った外套をまとい、髪を結い直していた。出がけに、ひとつだけ、リディアの襟元へ手を伸ばす。石のかたちが服の上に浮き出ないように、合わせ目を直した。それだけだった。行きましょう、とも、こわがらなくていい、とも、言わなかった。


 廊下へ出るとき、朝課の鐘の尾が、まだ空に残っていた。


 その尾が消えぎわ、胸の奥で、とくり、とひとつ鳴った。


 ゆうべの夕の鐘で、ひとつ。いまので、ふたつ。


 気のせいでは、もう、すまされない数だった。


 リディアは、戸口を振り返った。


「テオ。お願いがある。鐘が鳴ったら、数えてて」


「鐘を?」


「鐘と、それから、変なことがあったら、ぜんぶ」


「いいよ。数は、嘘をつかないから」


 北翼の白い廊下を下り、渡り廊下をひとつ越えると、空気が変わった。


 石が、古くなった。


 床は木に変わり、まんなかだけ、すりへって色が薄い。何千人ぶんの足が、そこを歩いたのだ。壁のくぼみで太いろうそくが燃えて、蜜蝋の、すこし甘い匂いがする。どこか遠くで、低い歌が終わりかけていた。


 すれちがう人たちは、灰色や焦げ茶の衣で、目を伏せ、小さく礼をして過ぎていく。


 誰も、こちらの人数を数えなかった。


 書面も、杖も、出てこなかった。


 それだけのことで、こんなに歩きやすくなるなんて。


 尼は、小さな木の扉の前で足を止めた。


「大司教さまが、お待ちです」


 謁見、と聞いて、リディアは、玉座のような部屋を思い描いていた。高い天井。長い絨毯。遠くの椅子に、小さく見える偉い人。


 ちがった。


     *


 部屋は、せまかった。


 書きもの机と、すりきれた長椅子。棚には、背の割れた本が押し合っている。窓辺に小さな円卓があって、椅子が三つ、もう並べてあった。卓の上の茶器から、湯気が立っている。


 窓辺の椅子から、小さなおばあさんが立ち上がった。


 白い髪。丸まった背中。袖口に、ほつれを繕った跡。


「リディア」


 名前が、いちばん先に来た。


 おばあさんは――大司教セラフィナは、歩み寄って、リディアの両手を取った。乾いた、あたたかい手だった。


「よく来たわね。長い道を、よく、無事で」


 用意してきたあいさつは、ぜんぶ、どこかへ行ってしまった。


「……はい」


 それだけ言うのが、やっとだった。


「眠れた? あの部屋、石が冷えるでしょう」


「毛布が、厚かったので」


「朝は?」


「パンを、食べました」


「そう。よかった」


 わたしは、いま、朝ごはんの話をしている。


 量られても、書かれてもいない。


 セラフィナは、母のほうへ顔を向けた。


「久しいわね、エレノア」


「ご無沙汰を、いたしました」


「老けたでしょう、わたくし」


「いいえ」


「嘘のへたなのは、変わらないのね」


 母が、わずかに目を伏せた。言い返さない母を、リディアは、はじめて見た。


 茶は、セラフィナが手ずから注いだ。注ぎ口が、かたかたと小さく鳴る。年のせいよ、と笑いながら、それでもこぼさずに、三つの碗を満たした。


「総長の書面は、わたくしのところにも来ました」


 すわるなり、セラフィナは言った。声が世間話のままだったから、意味のほうが、一拍おくれて追いついた。


「検めの水晶が、曇ったそうね」


 リディアの手が、碗の手前で止まった。


「魔術院はね、水晶に訊くのよ。わたくしは、あなたに訊くわ。――リディア。あなたは、自分の胸の石のことを、どこまで知っているの」


 ごまかすことも、できたのかもしれない。


 でも、この人は、わたしに訊いてくれている。水晶にでも、母にでもなく。


「……むかしの戦争の、わるいものの、かけらを、封じていること」


 ひとつずつ、言葉を選んだ。


「外れると、わたしの力があふれること。戻すと、まわりが、わたしを忘れること。それから、たぶん、わたしが、その……」


 器、という言葉は、のどに引っかかって、出てこなかった。


 セラフィナは、急かさなかった。


「じゅうぶんよ」


 それから、静かに続けた。


「では、その石が、どこから来たかは?」


 どこから。


 考えたことが、なかった。物心ついたときには、もう胸にあった。母がくれた、お守りだった。来た場所なんて――


 こと、と音がした。


 母が、碗を卓に戻した音だった。


「エレノア。わたくしの口から話しても、いいのだけれど」


「待ってください」


 言ったのは、リディアだった。自分でも、おどろくほど早く。


「お母さんの口から、聞きたい」


 母は、すぐには話さなかった。


 窓の外を見て、それから、リディアを見た。隠しごとをする人の目では、なかった。隠しごとを、ひとつ、手放す人の目だった。


「環は、ここにあったの」


 声は、ふだんの母より、すこし低かった。


「この丘の、いちばん深いところよ。戦いのあと、あれを三つに分けて、人の目の届かない場所へ、ひとつずつ封じた。そのひとつが、あなたの石」


 母は、一度、口を閉じた。


「わたしは、それを、ここから持ち出した。許しは、得ていないわ。誰の許しも」


 それから、言い直した。


「持ち出した、では、ないわね。――盗んだのよ」


 白暁の魔女が。


 お守りよ、と言って、これをわたしの首に掛けた手が。


 盗んだ。


 手の中の碗は熱いままなのに、その熱が、指まで届かなくなっていた。


 北の杭。赤い目の追っ手。あれから逃げる旅だと、思っていた。ちがった。母はずっと前から、人間からも逃げていたのだ。盗んだものを、娘の胸の上に隠したまま。


「どうして」


 声が、勝手に出た。


「どうして、そんなこと」


 母は、答えなかった。


 知っている沈黙だった。台所の沈黙。夜の馬車の沈黙。「今は言えない」の形をした、あの沈黙。


 ただ、今日はひとつだけ、ちがった。


 沈黙のあいだじゅう、母は、リディアから目をそらさなかった。


「責めるために、呼んだのではないのよ」


 セラフィナが言った。


「あのとき、わたくしは、追っ手を出させなかった。総長は、ちがう考えだったけれど。……長いあいだ黙っていたのだから、わたくしも、同罪ね」


 茶を一口飲んで、なんでもないことのように、つけ足す。


「総長は、いまでも言うわ。石は、あるべき場所へ、と。――あの人の言う『あるべき場所』にね、リディア。あなたの席は、ないの」


 そのとき、鐘が鳴った。


 朝のおわりを告げる、太く、深い音。窓の格子が、かすかにふるえる。


 とくり。


 胸の奥で、石が、ひとつ脈を打った。


 リディアは、襟の上から手で押さえた。


 黙っていることも、できた。でも、黙っていれば、いつかまた誰かが杖をかざして、勝手に調べて、帳面の小さな字にするのだろう。それなら、自分の口で言うほうがいい。


「いま、鳴りました」


 声に出した。


「この石。鐘が鳴ると、ここが、一度だけ、跳ねるんです。きのうの夕方から数えて、これで三度目」


 母が、顔ごと、こちらを向いた。


 知らなかったのだ。


 セラフィナは、おどろかなかった。


 目を閉じた。長い、祈りに似たまばたきだった。


「……呼び合うのよ」


「呼び合う?」


「あの鐘にはね、リディア。あなたの石の、兄弟が眠っているの」


 セラフィナの目が、窓の外へ向いた。丘のいちばん高いところで、鐘楼の金色の屋根が光っている。


「三つに分けたうちの、ふたつ目。記憶の核、と呼ばれているわ」


 禁書庫の図が、よみがえった。


 三つの器。ひとつは、わたし。ひとつは、墨で消されていた。そして、もうひとつ。


 わからなかったもうひとつが、王都のまんなかで、毎日、鳴っている。


「……こわく、ないんですか」


 聞いてしまってから、子どもみたいな問いだと思った。


「街の、まんなかですよ」


 セラフィナは、碗を置いた。


「こわいわよ」


 あっさりと、言った。


「だから、祈るの。毎朝、毎晩、あの鐘の下で。何百年ぶんの祈りを上から塗り重ねて、蓋にするの。祈りはね、守るためにあるのよ」


 それから、ほとんど同じ声のまま、つけ足した。


「けれど、守るためには、ときどき、扉を閉じなければならない」


 リディアは、北翼の扉を思い出した。


 外側にしか、鍵のない扉。


「……あの部屋の鍵も、ですか」


 口に出てしまったものは、引っ込めなかった。


 セラフィナは、笑わなかった。ごまかしも、しなかった。


「あれは、魔術院のやり方よ。わたくしのやり方では、ないわ。――でもね、リディア。わたくしは、あなたのために門を開けてあげられる人間でも、ないの。閉じる側の人間なのよ。若いころから、ずっと」


 あたたかい手の人が、それを言った。


 奥の見えないにこやかさより、ずっと正直だった。


 セラフィナは、茶器の蓋を、音を立てずに閉じた。


 帰りぎわ、セラフィナは、もう一度リディアの両手を取った。


「また、いらっしゃい。お茶だけでも。今度は、石の話ではなくて、あなたの話をしましょう」


 それから、節のついた古い言葉を、低く唱えた。


「――あなたの名が、呼ばれつづけますように」


 顔を上げて、すこしだけ笑う。


「古い祈りよ。むかしの人は、知っていたのね。それがいちばん、失われやすいものだと」


     *


 帰りの渡り廊下は、来たときより長く感じた。


 尼は、気をきかせたのか、数歩先を歩いている。中庭で、細い木が一本、風に揺れていた。


「……怒って、いいのよ」


 母が、先に言った。


「盗んだ人に、守られてたんだね、わたし」


 口に出してから、ちがう、と思った。言いたいのは、そんな嫌味じゃない。


 リディアは、足を止めた。


「ひとつだけ、教えて」


 母も、止まった。


「盗んだこと、後悔してる?」


「いいえ」


 間が、なかった。


 ああ、と思った。


 理由は、今日も聞けなかった。でも、これだけはわかってしまった。もう一度おなじ夜が来ても、母は、もう一度おなじものを盗む。それが母の選んだ守り方で、わたしはまだ、その値段のぜんぶを知らない。


「いつか、ぜんぶ話して」


 リディアは言った。


「待ってるんじゃなくて、わたしから、聞きに行く。何度でも。……だから、そのときは、ちゃんと負けて」


 母は、息だけで笑った。


「手ごわいわね、あなた」


「誰の娘だと思ってるの」


 言えた。


 言ったら、胸の上の石が、すこしだけ軽くなった気がした。気のせいだ。気のせいでも、よかった。


 それから、母は、歩く速さをすこしだけゆるめた。


 リディアが、ちょうど隣に並べるくらいに。


     *


 夕方、テオが部屋に来た。


 扉は、日のあるうちは、まだ開く。夕食の盆を、わざわざ自分で運んできた。


「鐘、数えたよ」


 すわるなり、言った。


「朝課の鐘。昼の鐘。それから――」


 テオは、指を一本立てた。


「夕の鐘のあとに、ひとつ、変なのが鳴った」


「変なの?」


「鐘の尾が消えて、しばらくしてから、小さいのが、ひとつ。打った、というより、触った、みたいな音。きのうは、なかった」


 夕の鐘なら、リディアも聞いた。石は今日も、ひとつ鳴って、それきり静かだった。


 でも、遅れて鳴ったという小さな音には――石は、こたえなかった。


「聞きまちがいじゃ、なくて?」


「かもしれない。でも、僕、耳はいいんだ」テオは、パンをちぎった。「それに、頼まれたからね。ぜんぶ、って」


 鐘に、誰かが、触った。


 あの鐘に何が眠っているか、今朝、聞いたばかりだった。


 言おうか、迷った。聞けばテオはきっと、いつもの淡々とした顔で、いちばんいやなところを言い当てる。


 今夜は、それを聞きたくなかった。


「テオ。明日も、数えてて」


「いいよ」


 理由を、テオは聞かなかった。そういうところが、ありがたかった。


 夜更け、扉の外で、衛兵の交代の声がした。


「あとを頼む。……ええと」


 短い沈黙。


「どうしました」


「いや。……おまえの名は、なんだったか」


「は?」


「名だ、おまえの。……いや、いい。疲れてるな、おれは」


 低い笑いと、遠ざかる靴音。それきり、廊下は静かになった。


 リディアは、寝台の上で、起き上がっていた。


 メルの茶屋で、ひとつ足りなかった椀を、思い出した。


 あの忘れ方なら、誰よりも知っている。


 でも、いま忘れられたのは、わたしの名前じゃなかった。


 石は、胸の上で、いつもどおり冷たいままだった。わたしのせいで起きる忘れ方は、わたしの名前に起きる。廊下のあれは、ちがう。


 ちがうなら――なんだ。


 リディアは、卓の手帳を引き寄せた。


 炭で、五つの名前を、上から濃くなぞる。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。


 それから、すこし迷って、六つ目を書いた。


 ――リディア。


 自分の名前を、自分で書くのは、はじめてだった。


 書いた字は、ほかの五つとおなじ濃さで、そこにあった。


 高い窓の外で、王都の夜は静かだった。


 耳の奥で、昼間の祈りが、もう一度聞こえた。


 ――あなたの名が、呼ばれつづけますように。


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