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外れた力

関所は、思っていたより、大きかった。


 灰色の石壁が、街道をまたいで、左右の丘の上まで続いている。壁の上には見張りの塔。槍を持った兵の影が、小さく、ふたつ。


 壁だ、と思った。


 町の結界とは、違う。目に見えて、手で叩ける、石の壁。


 リディアは、幌の隙間から、首が痛くなるまで、それを見上げた。


 今朝から、頭の片隅で、ずっと鳴っている音がある。湿った、あの足音。どれだけ離れても、消えない音。


 その音が、この壁の手前で止まる絵を、つい、思い描いてしまう。


 門の前には、短い列ができていた。


 穀物を積んだ荷馬車。羊を追う親子。行商人の背負い籠。みんな、あたりまえの顔で、あたりまえの用事で、壁をくぐっていく。


 すこし前まで、リディアも、あちら側だった。


 配られる紙が一枚足りないことだけが悩みの、ただの、見つけてもらえない生徒だった。


「手形を」


 門の兵が、気だるそうに言った。


 母が、御者台から、革の包みを渡す。兵は中の紙をたしかめ、幌の中を、ちらりと覗いた。


「乗っているのは」


「娘と、その友人がひとり」


 兵の目が、テオの上で止まった。


 それから、リディアのいるあたりを、すっと通り過ぎた。


 通り過ぎて、戻ってこなかった。


「行っていい」


 馬車が、門をくぐる。


 分厚い壁の影が、幌の上を、ゆっくり流れていった。冷たい影だった。その冷たさが、今は、すこし、頼もしかった。


 石の壁。見張りの塔。槍。


 ここから先は、王都の側だ。


「ねえ、テオ」リディアは、小声で言った。「あれ、ここで止まるかな」


 テオは、すぐには答えなかった。


 幌の隙間から、空を見ていた。


「……壁はね、人を止めるためのものだよ」


「うん」


「あれ、人かな」


 リディアも、空を見た。


 黒い鳥が、ちょうど、壁を越えていくところだった。


 呼び止める声は、なかった。槍も、動かなかった。見張りの兵は、ふたりとも、街道だけを見ていた。


 翼は、一度も、動かなかった。


     *


 関所から半日走って、日が落ちた。


 街道をすこし外れた窪地で、馬を休ませることになった。三方を低い丘に囲まれていて、風が弱い。


 火は、焚かなかった。


「焚いても、いいのよ」と、母は言った。「あれは、目で探さない。火を消したところで、意味はないの」


「じゃあ、どうして焚かないの」


「……煙の匂いが、服につくから」


 たぶん、本当の理由ではない。意味がないと知っていて、それでも何かを、しないではいられないのだ。


 その気持ちは、わかる気がした。リディアは、それ以上、聞かなかった。


 固いパンと水だけの夕食のあと、テオが最初の見張りに立った。岩の上に座り、眠そうな顔のまま、暗い街道のほうを向いている。


「テオは、眠くないの」


「眠いよ。ずっと眠い」テオは、街道から目を離さずに言った。「でも、眠いのと、眠るのは、別だから」


 母は、馬車の反対側で、丘の稜線を見ていた。


 町を出てから、母が横になったところを、リディアは、一度も見ていない。御者台で、手綱を握ったまま、目だけ閉じる。それを眠りと呼ぶなら、呼べるのかもしれない。


 燭台もない、火もない夜の中で、母の輪郭は、ただの疲れた女の人のものだった。


 世界を救った人の背中は、思っていたより、細い。


 リディアは、毛布にくるまって、父の手帳を開いた。


 月明かりで、炭の字が、かろうじて読める。


 ユアン。ネリ。メル。テオ。


 今朝書いたばかりなのに、ずっと前に書いた字に見えた。指で、ひとつずつ、なぞる。


 ふと、五つ目を書こうかと、思った。


 お母さん。


 炭を持った手が、止まる。


 書かなくても、忘れるわけがない。わたしが忘れるわけも、お母さんが、わたしを見失うわけも。


 リディアは、手帳を閉じて、毛布の中で目をつぶった。


 眠りに落ちる、その手前だった。


 音が、消えた。


 遠くで鳴りつづけていた、あの湿った音が――止まった。


 虫の声も、やんでいた。


 テオが、岩を滑り降りる音。


 母は、もう、立っていた。


「リディア。起きて、馬車の陰へ」


「お母さん――」


「来るわ」


     *


 夜が、静かすぎた。


 風の音さえ、遠慮しているようだった。リディアは、毛布を肩にかけたまま、馬車の車輪のそばにうずくまった。テオが、その隣に来る。


 どこから来るの、と聞きたかった。声を出すのが、怖かった。


 待つ時間が、長かった。来るとわかってから来るまでの時間が、こんなに長いものだとは、知らなかった。


 最初に動いたのは、馬だった。


 杭につないだ馬が首を振り、前脚で地面を掻く。白目が、夜の中で光った。


 次に、匂いが来た。


 濡れた土の、すこし甘い、あの匂い。


 丘の上に、赤い点が、ふたつ、ともった。


 家の塀の外で見たときより、高い。――立ち上がっている。


 母の右手から、白い光が走った。


 今夜の光は、糸ではなかった。刃の形をして、丘の斜面を薙ぎ、影を割った。


 割れたはずの影が、煙のようにほどけて、別の場所で、また立つ。


 速い。


 家の前では、結界の外から押して、試していただけだったのだ。


 今夜は、壁がない。夜の野は、あれの庭だった。


「伏せて!」


 母の声が飛ぶ。リディアはテオと並んで、馬車の陰に身を伏せた。


 光と影が、窪地の中で、何度もぶつかる。白い光が走るたび、あたりが昼になり、すぐに、前より深い闇が戻った。


 馬が、悲鳴を上げた。


 夜のあいだ馬車から外して、杭につないであった馬だ。怯えきって棹立ちになり、革紐ごと杭を引き抜いた。馬車の脇をすり抜けて駆け出す勢いで、引きずられた杭が幌の骨を打ち、馬車が大きく揺れる。


 リディアは、よろけた。


 陰から、半歩、体がはみ出した。


 馬が、闇のほうへ駆けていく。


「馬を!」


 リディアが言うより早く、テオが駆け出していた。窪地の先へ、逃げる馬のあとを追って。


 その半歩と、その一瞬を、あれは、見逃さなかった。


 影が母の光の下をくぐって、低く来た。


 速いというより、近かった。気づいたときには、目の前に、赤い点があった。


 濡れた匂いが、顔にかかる。


 爪が、胸元を、かすめた。


 痛みは、なかった。


 かわりに、ちり、と細い金属の音がした。


 鎖が切れた音だと、わかったときには、黒い石が、胸を離れて宙にあった。


 リディアの手が勝手に伸びて、それをつかんだ。


 握った。たしかに、握っている。肌に、触れている。


 なのに、世界が、また、あの息を吸った。


 手のひらでは、だめなのだ。胸の、いつもの場所でなければ。


     *


 音が、遠くなる。


 かわりに、見えはじめる。


 丘の斜面を流れる魔力。土の下で眠る古い水脈。母の体の中で回っている、静かで巨大な光。テオの、小さくて、まっすぐな灯。


 そして、目の前の影の芯にある、黒く細い、飢えたもの。


 見える。


 また、見えてしまう。


 二度目なのに、慣れる気配は、すこしもなかった。体の奥から、あのあふれるものが、出口を探して押してくる。皮膚の内側を、叩かれているようだった。


 わたしという入れ物は、これには、小さすぎる。


 影は――動きを、止めていた。


 赤い点が、まばたきもせず、リディアを見ていた。


 もう、嗅ぐ必要がないのだ。夜の中で、リディアひとりが、燃えていた。丘の向こうからでも見えるだろう。もっと遠くの、もっと暗い場所にいる、何かたちからも。


 見つかっている。


 いま、世界じゅうから、見つかっている。


 手を上げれば、と、ふいに、わかってしまった。


 この押してくるものを、あの細い芯へ、すこし通すだけでいい。訓練場の騎士のように、あれは消える。音もなく。最初からいなかったみたいに。


 それで終わる。足音も。匂いも。この旅の、夜ごとの怯えも。


 手が、上がりかけた。


 その先に、テオがいた。


 影と、テオと、馬が、夜の中で重なって見えた。通したものが、どこまでを消すのか、わたしは知らない。訓練場のときも、知らないまま、思っただけで、撃っていた。


 止まって、と願っても、止まらなかったことだけを、覚えている。


 リディアは、上がりかけた右手を、左手で、押さえつけた。


 ユアン。


 胸の中で、呼んだ。


 ネリ。メル。テオ。


 炭で書いた、四つの名前。ひとつ呼ぶたび、ふくらみすぎた自分が、すこしずつ、わたしの寸法に戻ってくる。


 石を、握り直す。


 戻せば、どうなるかは、知っている。また誰かが、わたしを忘れる。この、いちばん危ない夜のまんなかで。


 戻さなければ、この火で、夜の目という目を集めつづける。


 どちらも、いやだった。


 でも、迷っていられる時間は、もう、なかった。


 リディアは、石を、胸に押し当てた。


 世界が、遠のく。


 水脈が消える。魔力の流れが消える。母の光も、テオの灯も、壁の向こうへ引いていく。


 体が、重い。


 そして。


 母の白い光が、リディアの上を、すっと、通り過ぎた。


 通り過ぎて、戻ってこなかった。


「リディア!?」


 母の声が、夜を探していた。さっきまでリディアのいた場所を。いまリディアのいる場所では、ない、ところを。


 呼ぶ声の、語尾が割れていた。世界を救った人の声が、迷子の子どもの声をしていた。


 母が。


 わたしを。


 見失っている。


 関所の兵とは、違う。茶屋の女とも、違う。世界じゅうが忘れても、最初からそこにいると知っていてくれたはずの、母が。


 怖かった。今夜のどの瞬間より、怖かった。


 でも。


 見つけてもらえるのを待つのは、やめたのだ。今朝、井戸のそばで、そう決めた。


 リディアは、息を吸った。


「ここ」


 声が、かすれた。


 小さすぎた。夜にも、届かなかった。


 いつもの声だ。言ったのに、聞こえない。呼んだのに、届かない。教室で、迷宮で、何度もそうだったように。


 ちがう。


 届かないんじゃない。届く前に、やめていたのだ。どうせ届かないと、自分で決めて。


 リディアは、足を踏ん張って、腹の底から、もう一度、声を出した。


「ここ!」


 自分の声とは、思えなかった。


「お母さん、ここ! わたしは、ここにいる!」


 白い光が、止まった。


 戻ってきた。


 母の目が、声をたどって、リディアを、つかまえた。


 その瞬間、母の光は刃から壁に変わった。リディアと影のあいだに白い壁が立ち上がり、影を、丘の上まで押し戻す。


 影は、もう、押し返してこなかった。


 赤い点が、ふっと薄れて、丘の向こうへ引いていく。


 濡れた足音が、遠ざかっていった。来たときと、同じ速さで。


 頭の上で、黒い鳥が、ひと声、鳴いた。


 この旅で初めて聞く、声だった。


 その声は、こちらへではなく、夜の遠くへ向かって、尾を引いた。


     *


 切れた鎖は、母がつないだ。


 指先の小さな光で、輪と輪を、ひとつずつ。迷宮の夜と、同じ手つきだった。


「……自分で、戻したのね」


 母は、手を動かしたまま言った。


「うん」


「迷わなかったの」


「迷った」


 リディアは、正直に言った。


「外したままなら、あれを、たぶん、どうにかできた。でも、どこまで消えるか、わからなかったから。テオも、馬も、いたから」


 母の手が、止まった。


「それで、戻したの」


「……呼んだら、お母さんが、見つけてくれると思ったから」


 母は、しばらく、黙っていた。


 それから、つなぎ終えた鎖を、リディアの首に、かけ直した。石が、いつもの場所に収まる。いつもどおり、冷たかった。


「リディア」


「ん」


「次に外れたときも、呼びなさい」


 母の声は、静かだった。


「何度でも。わたしが何を見失っても、あなたの声だけは、聞こえるから」


 探す、とは言わなかった。見つける、とも。


 夜の向こうから、蹄の音がした。


 テオが、馬を引いて戻ってきた。革紐を握った手が、すりむけている。


「ねえ」あくびまじりに言う。「僕、いいもの聞いた」


「……なに」


「君が、自分から、ここ、って言うの。初めて聞いた」


「悪い?」


「よかった」テオは、真顔だった。「君は、いつも、いないほうの側にいたから」


 それから、テオは、すこしだけ声を落とした。


「でも、ひとつ、変だ」


「なにが」


「あれ、君を連れていこうとは、しなかった。爪は、体に届く距離だったのに、鎖だけ、切っていった」


 リディアは、胸の石に、手を当てた。


 切られた。外された。そして、あの火を、夜の隅々にまで、見せた。


 もし、それが、あれの用事だったのだとしたら。


 空が、白みはじめていた。


 車輪も、幌の骨も、折れてはいなかった。母が手綱を取り、馬車は、王都への街道に戻った。


 リディアは、揺れる幌の下で、もう一度、石に触れた。


 外れていたのは、十を数えるほどのあいだだった。


 そのあいだ、世界じゅうが、わたしを見ていた。


 戻した瞬間、母でさえ、わたしを見失った。


 ちょうどいい場所は、この石のどこにも、ついていなかった。


 リディアは、手帳を開いた。


 炭の燃えさしは、まだ、ふところにあった。


 五つ目の名前を、書く。


 ――お母さん。わたしを見失っても、声で、見つけてくれた。


 ゆうべは、書かなくてもいい名前だと、思っていた。


 そのとき、開いたページの上を、影が、よぎった。


 羽音は、ない。


 朝の低い日が、幌の隙間からページまで届いている。その光の帯を、黒いものが横切ったのだ。


 見慣れた、あの鳥の影。


 書いたばかりの、お母さん、の字が、いったん翳って、もどる。


 息をつく間もなく。


 ふたつ目の影が、同じ字の上を、よぎった。


 リディアは、ページから、目を上げられなかった。


 一羽じゃ、ない。


 二羽目は、ゆうべ、わたしが燃えた窪地のほうから、追いついてきたのだ。


 十数えるあいだの火を、夜は、覚えていた。


 戻したのに。ちゃんと、戻したのに。


 増えた目は、もう、減らない。


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