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名前を呼ぶ練習

馬車は、夜どおし走った。


 幌の下は、揺れる。轍を踏むたび、骨まで揺れる。眠ろうとしても、体がいちいち起こされた。


 リディアは、膝を抱えて座っていた。


 隣で、テオが舟をこいでいる。あくびのうまい人だから、こんな揺れの中でも眠れるらしい。


 手の中に、二つ。


 片方は、破った紙。冷たい。指が、もう形を覚えている。


 もう片方は、父の手帳だった。


 家を出るとき、鞄に放り込めたのは、これだけだった。着替えも、櫛も、入れる間がなかった。それでも、手帳だけは、手が勝手に取っていた。


 革の表紙は、すり切れている。父の手の脂が、まだ残っている気がする。気のせいだと思う。父が死んだのは、もう十年も前だ。


 ページを開く間は、なかった。暗くて、読めない。


 ただ、握っていた。


 幌の隙間から、外を見る。


 星は、出ていなかった。


 黒い空の中を、もっと黒いものが、一つ、滑っていた。


 昨夜と、同じ鳥だ。羽音はしない。馬車と同じ速さで、同じ方向へ、ついてくる。


 追い払う方法を、リディアは知らない。母も、何も言わない。手綱を握ったまま、前だけを見ている。


 だから、見ないことにした。


 見ないことには、慣れている。


     *


 空が白みはじめたころ、馬が、足を止めた。


 街道沿いの、小さな水場だった。


 井戸が一つ。その横に、葦で葺いた茶屋が建っている。荷運びの御者たちが、馬を休ませる場所らしい。煮炊きの煙が、低く流れていた。


「少し、休むわ」母が言った。「馬に、水をやらないと」


 リディアは、幌から降りた。


 足が、しびれている。地面が、まだ揺れている気がした。


 朝の空気は、冷たかった。町の朝とは、匂いが違う。土と、馬と、知らない草の匂い。


 遠くまで来たのだと、足の裏が、先に知っていた。


 テオも降りて、井戸のへりに腰かけた。眠そうな顔のまま、あたりを見ている。見張り、ということだとわかる。


 母は、馬の口に、桶をあてがっていた。


 リディアは、手持ちぶさたに、井戸のそばに立った。


「おねえちゃん」


 声がした。


 見ると、茶屋の戸口に、小さな女の子がいた。


 五つか、六つか。前掛けが、煮汁で汚れている。母親の手伝いをしているらしい。


 その子が、まっすぐにリディアを見ていた。


 リディアは、少し、戸惑った。


 まっすぐ見られることに、まだ慣れない。


「……おはよう」


「おはよう」女の子は、にっと笑った。「おねえちゃん、どこから来たの」


「遠く」


「どれくらい遠く?」


「馬車で、ひと晩」


「ふうん」女の子は、井戸のへりによじ登った。「あたし、メル。おねえちゃんは?」


 名前を、聞かれた。


 誰かに名前を聞かれるのは、ひさしぶりだった。学校では、聞かれる前に忘れられる。


「リディア」


「リディア」メルは、まねて言った。「へんな名前」


「そう?」


「うん。でも、いい名前」


 いい名前。


 ゆうべ、書庫で「環」という字を見たときには、いい名前だとは思えなかった。


 でも、メルの言い方は、何の意味も知らずに、ただ音だけを面白がっていた。


 その軽さが、すこしだけ、ありがたかった。


「メル」茶屋の中から、母親の声がした。「お湯、見てて」


「はあい」


 メルは井戸を飛び降りて、戸口へ駆けていった。


 その背中を、リディアは見送った。


 へんな名前、と言われたのに、いやな気持ちはしなかった。


     *


 茶屋の女が、湯気の立つ椀を、盆にのせて運んできた。


 麦を煮た、簡単なものだ。それでも、温かいものは、ありがたい。


 女は、長椅子に椀を並べた。


 一つ。二つ。


 母の前と、テオの前。


 そして、そこで、手が止まった。


 女は、盆の上の、最後の椀を見た。それから、長椅子を見た。


 リディアは、母とテオのあいだに、座っている。


 ちょうど、女の正面に。


「……三人ぶんで、足りるかね」


 女が、母に言った。


 母の手が、椀をつかむ手前で、止まった。


「四人よ」母が、静かに言った。


「四人?」女は、もう一度、長椅子を見た。リディアのいるあたりを、見た。見ているのに、見えていない目だった。「ああ……すまないね。年かね。一つ、数えそこなった」


 女は、戻って、もう一つ椀を運んできた。


 悪気は、なかった。ただ、数えそこなっただけ。


 いつものことだった。


 学校で、配られる紙が一枚足りないとき。掃除当番の表から、名前が抜けているとき。誰も悪くない。だから、怒るに怒れない。


 でも、ひとつだけ、ちがった。


 さっき、メルは、リディアの名を聞いた。リディアも、答えた。すぐ、そこで。


 なのに、その母親は、椀の数すら、合わせられない。


 リディアは、椀を、両手で包んだ。


 温かい。


 この温かさだけは、たしかに、自分の前に置かれた。それだけが、頼りだった。


「前より、早いね」


 テオが、麦をすすりながら、小声で言った。


「……早い?」


「町では、しばらく話して、それから忘れてた」テオは、椀の中を見たまま言う。「今のは、話した直後だ。数える、そのあいだに、もう抜けてた」


 リディアは、答えなかった。


 言われて、気づいてしまった。


 薄くなるのが、速くなっている。


 町を出てから、というより――首飾りが、勝手に脈を打ちはじめた、あの夜から。濃くなったり、薄くなったり。そのふり幅が、大きくなっている気がする。


 母が、こちらを見ていた。


 何か言いたげに、口を開きかけて、結局、閉じた。


 麦の湯気が、母の顔の前で、ゆれた。


     *


 休んでいるあいだに、メルが、また寄ってきた。


 今度は、手に、小さな木彫りの馬を持っている。御者の誰かが、削ってくれたものらしい。


「これ、見て」メルは、自慢げに差し出した。「うまでしょ」


「うん。上手だね」


「あたしも、おっきくなったら、馬車にのって、遠くにいくの」


「どこへ?」


「うーんとね……」メルは、首をかしげた。「わすれちゃった」


 わすれちゃった、と、メルは笑った。


 けろりと、していた。


 でも、リディアは、うまく笑い返せなかった。


 この子も、いつか、わたしを忘れる。


 いや――もう、忘れかけているのかもしれない。


 名を聞いて、いい名前だと言ってくれた、その子が。


 試したくなった。


 たしかめたく、なった。


 いやな予感ほど、たしかめずにいられない。


「メル」リディアは、しゃがんで、目の高さを合わせた。「わたしの名前、覚えてる?」


 メルは、きょとんとした。


 しばらく、リディアの顔を見ていた。


 それから、首を、横に振った。


「……だれだっけ」


 小さな声だった。


 ほんの少し前に、いい名前だと笑った、その口で。


 リディアは、しゃがんだまま、動けなかった。


 怒れたら、まだ、よかった。


 でも、メルは、ただ忘れただけだ。さっき笑ったことも、いっしょに。


 怒る相手は、どこにもいなかった。


 善いことをしても。やさしくしても。名乗っても。


 跡が、残らない。


 水に書いた字のように、すっと消える。


 いつか――と、ゆうべから何度も浮かんだ言葉が、また浮かんだ。


 いつか、誰も、わたしを思い出せなくなるんじゃないか。


 母も。テオも。ユアンも、ネリも。


 みんなが、メルみたいに、きょとんとして、だれだっけ、と言う日が、来るんじゃないか。


 その日が、思っていたより、ずっと近いのかもしれない。


     *


 リディアは、井戸のへりに、腰を下ろした。


 膝の上で、父の手帳を、開いた。


 朝の光が、ようやく、文字を読めるくらいになっていた。


 薬草の名前。天気の読み方。眠れない子の、蜂蜜湯の作り方。


 知っている字が、並んでいる。


 ページをめくる。


 あの一行が、あった。


 ――リディアは、探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。


 何度も読んだ。暗記するほど、読んだ。


 いつも、この言葉を、こう読んでいた。


 父は、わたしを探してくれた人だ、と。


 わたしは、探される側の子だ、と。


 でも――今朝は、違って見えた。


 探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。


 これは、探す人への言葉だ。


 探される子のことを書いているけれど、書かれているのは、探す人の、心がけだ。


 毎日ちゃんと探すこと。


 父は、それを、自分への決めごとにしていた。


 待っていたんじゃない。父は、毎日、こちらから、探しに来てくれていた。


 リディアは、手帳のうしろのほうを開いた。


 白いページが、何枚か、残っている。


 父が、書ききれなかったページ。


 ふところを探って、御者が落とした、炭の燃えさしを拾った。それで書けるか、試してみる。


 手が、すこし、震えた。


 書く、ということを、誰かに見つけてもらうためにする日が来るとは、思っていなかった。


 でも、これは、見つけてもらうためじゃない。


 白いページに、リディアは、書いた。


 へたな字で。炭が、かすれる。


 ――ユアン。下がってろ、と言ったあと、無しだ、と言った。耳まで赤かった。


 ――ネリ。手が震えていた。それでも、離さないからね、と言って、握ってくれた。


 ――メル。へんな名前、でも、いい名前、と言った。木彫りの馬を、見せてくれた。


 書いた。


 忘れないように。


 いつか、わたしが、みんなを忘れる日が来ても。この字が、覚えていてくれるように。


 いつも、忘れられるのを、待っていた。見つけてもらえるのを、待っていた。


 待つのは、やめる。


 わたしが、覚える。わたしが、探す。


 炭の先が、ページの上で、止まった。


「何、書いてるの」


 テオが、いつのまにか、隣にいた。


「名前」リディアは言った。「忘れないように」


 テオは、手帳をのぞきこんだ。それから、めずらしく、すぐには茶化さなかった。


「僕のは?」


 リディアは、テオを見た。


 書いていなかった。


 なぜなら――テオのことは、忘れる気が、しなかったから。


 でも、それは、言わなかった。


 かわりに、炭を、もう一度、ページにあてた。


 ――テオ。足音が薄い。わたしの薄さに、最初に気づいた。眠そうな顔で、いっしょに来てくれた。


「これでいい?」


「字、へただね」


「初めて言われた」


「うそだ。絶対、前にも言われてる」


 へらず口なのに、とげがない。テオの言葉は、いつも、そうだった。


 リディアは、すこしだけ、笑った。


 今朝、はじめて、笑えた。


     *


 馬に水をやり終えた母が、こちらへ来た。


 リディアの手の中の手帳を見て、母の足が、ほんの一瞬、止まった。


 父の手帳だと、すぐにわかったのだろう。


「持って、来ていたの」


「うん。これだけ」


 母は、何も言わなかった。


 ただ、その目が、すこし、やわらいだ。


 リディアは、思いきって、聞いた。聞かなければ、ずっと胸につかえる気がした。


「お母さん」


「なに」


「わたし、だんだん、薄くなってる。さっきの人、椀の数も、合わせられなかった。メルは、名前を、もう忘れた」


 母の表情が、固くなる。


「それは――」


「ねえ、お母さん」リディアは、まっすぐ、母を見た。「このまま薄くなったら、いつか、誰も、わたしを思い出せなくなるの?」


 母は、答えなかった。


 すぐに、答えなかった。


 その沈黙が、いつもの沈黙だった。知っているのに、言わない。守るために、隠す。


 リディアは、もう、その沈黙の形を、知っている。


「……そうは、させない」母が、ようやく言った。「王都に着けば、手立てがある。だから、急ぐの」


 手立て。


 また、それだ。母は、行き先を言う。理由は、言わない。


 昔だったら、それで、黙っていた。


 でも、今朝は、もう、ひとつ、わかっていた。


「お母さんは、わたしを、探してくれてるんだよね」


 母が、まばたきをした。


「……どういう、意味」


「お父さんは、毎日、わたしを探してくれてた。手帳に、そう書いてある」リディアは、ページを、指でなぞった。「お母さんは、わたしを、隠した。隠して、守ろうとした。でも、隠したものを、お母さんは、見失わなかった。ちゃんと、覚えてた。ずっと」


 母の唇が、震えた。


「だから――お母さんも、探してくれてたんだと思う。隠しながら、探してた。やり方が、お父さんと、逆だっただけで」


 母は、何も言えずに、立っていた。


 目のふちが、光っていた。


 それでも、母は、泣かなかった。泣くかわりに、リディアの髪に、手をのせた。


 いつもの、髪をなでる手だった。


 でも、今朝は、その手が、すこし、ためらっていた。


 なでるのではなく、ただ、そこにいることを、たしかめるように。


     *


 日が、昇りきった。


 馬車に、戻る時間だった。


 リディアは、立ち上がる前に、茶屋のほうを振り返った。


 メルが、戸口で、木彫りの馬を、ひとりで走らせて遊んでいた。


 もう、リディアのことなど、覚えていない。


 リディアは、その子に、近づいた。


「メル」


 名前を、呼んだ。


 自分から、誰かの名を呼ぶのは、いつぶりだろう。いつも、呼ばれるのを、待っていた。届かない声で、呼ぶのが、怖かった。


 メルが、顔を上げた。


「だれ?」


「通りすがり」リディアは言った。「あのね、その馬、ほんとに上手だよ。遠くまで、行けるよ」


 メルは、きょとんとして、それから、にっと笑った。


「うん!」


 覚えては、もらえない。


 たぶん、馬車が見えなくなる前に、忘れる。


 それでも、いい、と思った。


 メルが忘れても、わたしが、覚えている。木彫りの馬と、いい名前、と言ってくれた声を。


 忘れられても、跡が残らなくても。


 覚える側に、立つことは、できる。


 首飾りにも、あの力にも、できないことが、ひとつだけ、あった。


     *


 馬車が、動きだす。


 水場が、茶屋が、メルが、うしろへ流れて、小さくなっていく。


 リディアは、幌の隙間から、それを見ていた。


 メルは、一度も、こちらを見なかった。


 それでいい。


 手帳を、胸に抱く。中には、四つの名前。ユアン、ネリ、メル、テオ。へたな炭の字で、四つ。


 守りきれるかは、わからない。いつか、この字さえ、読めなくなるかもしれない。


 でも、今は、ある。


 幌の外で、母の声がした。


「リディア。昼すぎには、関所に着くわ。そこを抜ければ、王都まで、あと二日」


「うん」


 王都。


 答えがある場所。三つの器の、残りのふたつ。墨で消された、三つ目。わたしが、何なのか。


 近づいている。


 それから、リディアは、空を見た。


 黒い鳥が、まだ、ついてきていた。


 昼の光の中では、よけいに黒く見えた。羽音は、しない。同じ速さで、同じ方向へ、滑っている。


 そして、その下の、地面を。


 馬車は、もう、ずいぶん遠くまで来た。馬は、夜どおし走り、また走っている。


 なのに。


 うしろの、ずっとうしろの、街道の土の上に、濡れた足音が、まだ、あった。


 細く。長く。急がずに。


 どれだけ離れても、消えない。


 リディアは、手帳を、ぎゅっと、抱いた。


 わたしは、四つの名前を、覚えた。


 でも、あの足音は――わたしの、においを、覚えている。


 覚えられたいと願う相手には、忘れられて。


 忘れられたいと願う相手には、覚えられて。


 世界は、いつも、逆だった。


 それでも、と、リディアは思った。


 馬車は、止まらなかった。


 覚えた名前を、ひとつずつ、口の中で、呼んでみる。


 ユアン。ネリ。メル。テオ。


 呼ぶたびに、その人が、ほんの少し、近くにいる気がした。


 遠ざかっていく町と、追ってくる足音の、ちょうどあいだで。


 リディアは、はじめて、自分から、名前を呼ぶ練習を、していた。


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