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夜の馬車

家の灯りは、まだ消えていなかった。


 遠くからそれを見つけたとき、リディアの足が、ようやく緩んだ。


 学校から、ここまで、ほとんど走り通しだった。脇腹が痛い。口の中が、からからに渇いていた。


 胸の石は、もう脈を打っていない。それでも、首のうしろの感じだけは、消えてくれなかった。


 あの足音は、途中で聞こえなくなった。撒けたのだとは、思えない。あれは、足を速めない。速める必要などないと、声のほうが言っていた。


「ここまで来れば」テオが、肩で息をしながら言った。「君の母さんの家だ。たぶん、今夜は入ってこない」


「たぶん、なんだ」


「たぶん、だ」テオはうなずいた。「嘘は、つきたくない」


 慰めの下手な人だ、と思う。けれど、その下手さは、いまは少しだけありがたかった。


 窓は、抜け出したときのまま、指一本ぶんだけ開いている。


 リディアは、そこへ手をかけた。


「テオ。……ここまででいい。あとは、ひとりで入る」


「いいよ」テオは、あっさり言った。「でも、僕は帰らない。塀の外にいる」


「どうして」


「君が、また、ひとりで何か決める顔をしてるから」


 言い返せなかった。


 窓から、体をすべり込ませる。


 部屋は暗い。布団は、出たときのまま、人がいるように膨らませてある。


 うまくいった。


 そう思った、その時だった。


 台所のほうで、灯りが、ゆれた。


     *


「リディア」


 声がした。


 やさしい声だった。


 やさしすぎて、かえって、足が動かなくなった。


 台所の入口に、母が立っていた。


 燭台を手にしている。灰色の髪が、ほどけて肩に落ちていた。眠っていた人の髪ではない。ずっと、起きて待っていた人の髪だった。


「どこへ、行っていたの」


 怒鳴り声なら、よかった。


 母の声は、低くて、静かで、だからこそ、逃げ場がなかった。


 リディアは、右手を背中に回した。


 握ったままの、破った紙。それを隠そうとして――やめた。


 隠すのは、もう、いやだった。


 手を、前に出す。


 くしゃくしゃの一枚。古い文字。端に、角のある王冠の印。


 母の目が、それを見つけた。


 燭台の炎が、小さく傾いだ。


「……それを、どこで」


「禁書庫」


 リディアは言った。声が、自分でも驚くほど、まっすぐ出た。


「学校の禁書庫に行ってきた。コレーの環のこと、書いてあった」


 母は、動かない。


「読んだよ」リディアは続けた。「冥王の核は、三つに分けられた。そのひとつを封じる器を、コレーの環と呼ぶ……って」


 言いながら、声が、少しかすれた。口に出すと、文字で読んだときより、ずっと重かった。


「お母さん」


 息を、吸う。


「わたし、その器なんだね」


 母は、すぐには答えなかった。


 燭台を持つ手が、わずかに下がる。炎が、母の顔を下から照らした。


 その顔を見て、リディアは、わかってしまった。


 驚いていない。問い返しもしない。


 知らないことを聞かれた人の顔ではなく、ずっと前から知っていた人の顔だった。


「……お母さんは、知ってたんだ」


 声が、震えた。怒りではない。怒れたら、まだ楽だった。


「ずっと。わたしが、何なのか。知っていて、これを、わたしの首にかけた」


「リディア」


「守るためだって、わかってる。本当に、わかってる」


 胸の石に、手を当てる。指のあいだで、石は、いつもどおり冷たい。けれど、その冷たさが、今夜は意味を持って感じられた。


「でも、守るって、こういうことなの。わたしを、いちばん見えない場所に、しまっておくこと」


 母の唇が、開いて、閉じた。


 ゆうべ、書庫の暗がりで考えたことが、そのまま口から出ていた。仕舞われたものの気持ちなら、自分がいちばんよく知っている、と。


「あなたに」母が、ようやく言った。「背負わせたく、なかった」


「もう、背負ってるよ」


 リディアは、紙を、胸に当てた。


「ずっと前から。ただ、名前を知らなかっただけ」


 器、という言葉が、まだ、舌に残っている。


 飲み込んでしまえば、消えてくれるだろうか。


 そう思っても、不思議と、涙は出なかった。


 出るかわりに、足の裏に、力が入った。


「リディア」母が、一歩、近づこうとした。


 リディアは、動かなかった。


 逃げたわけではない。ただ、いつもなら母の腕の中へ入っていく体が、今夜は、動いてくれなかった。


 その半歩のすきまを、母も、気づいたようだった。


 伸ばしかけた手が、宙で止まる。


 昨日まで、このすきまは、なかった。


     *


 母が、口を開いた。


「リディア。これには、わけが――」


 その先が、途中で止まる。


 目が、窓のほうへ動いた。


 リディアも、気づいた。


 空気が、変わった。


 古い紙と、薬草の匂いに満ちていた家の中に、別の匂いが、薄く混じりはじめている。


 濡れた土のような、すこし甘い、嫌な匂い。


 禁書庫で嗅いだのと、同じ匂いだった。


「お母さん、これ」


「下がっていなさい」


 母の声が、変わった。やさしさが、すっと引く。かわりに出てきたのは、迷宮で黒い影を討ったときの、あの声だった。


 母は燭台を置き、窓辺へ寄った。


 外の闇へ、右手をかざす。


 指先から、白い光が、糸のように伸びて、家の周りへ流れていった。


 その光が、塀の手前で、何かに触れた。


 ぴた、と、止まる。


 闇の中に、ふたつ、赤い点が浮かんでいた。


 目だった。


 濡れた足音は、もう、すぐそこまで来ていた。光の壁の、向こう側。あと、数歩のところ。


 動かない。ただ、こちらを、見ている。


 赤い点が、ゆっくりと、横へ動いた。光の壁に沿って、すきまを探すように。


 母の指先が、わずかに震える。糸のような光が、その動きに合わせて、張りつめた。


 張りつめて――きしむような、低い音がした。


 結界が、押されている音だった。


「……においで、来たのね」母が、低くつぶやいた。「結界は、目をごまかせる。気配も、消せる。でも、においは、消せない」


 母が、振り返った。


 その顔には、リディアの知らない計算が、走っていた。


「この家にいても、もう、隠せない。あれは、においを追う。壁を張っても、いつかは越えてくる」


 母は、リディアの腕を取った。


「リディア。王都へ行くわ」


 王都。


 その言葉に、リディアの心臓が、ひとつ、跳ねた。


「東じゃ、ないの」


「東は、隠れる土地。でも、もう隠れても無駄なら――守れる場所へ行くしかない」母は早口だった。「王都には、聖域がある。昔の、知った顔もいる。あれを追い払える力が、あそこにはある」


 また、母が決めている。


 ゆうべと、同じだ。わたしのいない場所で、わたしの行き先が決まっていく。


 リディアは、唇を噛んだ。


 でも――今度は、少しだけ、違った。


 王都には、答えがある気がした。


 三つの器の、残りのふたつ。墨で消された、三つ目。それを、誰が、どこに隠したのか。わたしが、何なのか。


 ここで母に手を引かれて逃げるだけなら、ゆうべと同じだ。


 でも、自分の足で、答えのほうへ行くのなら。


 それは、もう、隠れることではない。


「……行く」


 リディアは言った。


 母が、少し驚いた顔をした。


「ただ、逃げるためじゃない」リディアは、母を見た。「連れて行かれるんじゃなくて、わたしが、行く。それなら、行く」


 母は、すぐには答えなかった。


 それから、ほんの少し、目を伏せた。


「……あなたは、本当に」


 言いかけて、やめる。


 お父さんに似てきた、と――たぶん、そう言いかけて、母は、のみ込んだ。


     *


 裏口を開けると、テオが、塀のそばに立っていた。


 帰っていなかった。言ったとおりに。


 母が、テオを見た。一瞬で、すべてを察した目だった。


「あなたが、連れ出したの」


「逆だよ」テオは、眠そうな顔のまま言った。「連れ出されたのは、僕のほう。鍵の場所を、教えただけ」


「……お家へ、お帰りなさい」母の声は、丁寧だった。丁寧すぎた。「ここから先は、あなたの背負うことじゃない」


「うん。背負わない」テオは、肩をすくめた。「ただ、ついていくだけ」


「危険なの」


「知ってる」


 テオは、リディアを見た。


「君の母さんも、君と同じこと言うんだね」


 その一言が、リディアの胸に、ことりと落ちた。


 危ないから、関わるな。あなたのためだから、離れていなさい。


 それは――ゆうべ、自分がユアンとネリに、言いかけたことだった。


 巻き込みたくない。だから、何も話さずに、ひとりで来た。


 遠ざけることで、守ったつもりになっていた。


 母を、あんなに責めたのに。わたしも、同じだった。


 ふたりの顔が浮かんだ。震える手で、握ってくれたネリ。耳まで赤くして、巻き込まれてる、と言ったユアン。


 ふたりには、何も言わずに、出てきてしまった。守るつもりで。


 離さないからね、と言って握ってくれた、ネリの手を思い出す。あの手を、何も言わずに、ほどいてきたのだ。


 リディアは、テオの前に立った。


「テオ。ほんとに、いいの。わたし、たぶん、ろくなことにならない」


「知ってる、って、何回言わせるの」テオは、あくびをかみ殺した。「君は、いてもいなくても気づかれない。僕も、いてもいなくてもどうでもいい。似た者同士は、いっしょにいたほうが、まだ、見つかる」


 変な理屈だった。


 でも、いやな気持ちは、しなかった。


 母が、小さく息をついた。


「……止めても、無駄なのね。ふたりとも」


「ごめんね、お母さん」


「謝らないで」母は、首を振った。「それは、あなたが、自分で決めたことだから」


 初めて、母が、リディアの選んだことを、止めなかった。


 止めないことが、こんなにさびしくて、こんなに、ありがたいものだとは、知らなかった。


     *


 馬車は、薬屋の裏にある、荷運び用の古いものだった。


 幌がかかっている。薬草を町の外へ運ぶときに使う、目立たない一台。母は、それを、いつでも出せるようにしてあった。


 やっぱり、と思う。母は、ずっと前から、逃げる支度をしていた。


 ただ今度は、その支度の中に、リディアの「行く」が、入っていた。


 荷台に、毛布と、水と、わずかな食料。母が手綱を取り、リディアとテオは、幌の下に身を寄せた。


 幌の下は、せまかった。膝が触れそうな近さで、テオが座っている。


「こわい?」と、テオが小さく聞いた。


「うん」リディアは、正直に言った。「テオは」


「こわい」テオも言った。「でも、家にいて、ひとりで君のことを忘れていくほうが、もっといやだ」


 めずらしく、まっすぐな言葉だった。


 リディアは、何も返せなかった。


 返すかわりに、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。


 町を出るのに、北門は使わなかった。あそこには、黒い杭が立っている。赤い線が、夜の中で、まだ脈を打っているはずだった。


 西の、小さな通用門へ向かう。


 馬の蹄が、石畳を打つ。その音が、眠った町に、やけに大きく響いた。


 リディアは、幌の隙間から、町を見た。


 暗い家々。消えた灯り。井戸。パン屋の釜。自分を忘れ、今朝は目をそらした、たくさんの人たち。


 怒りは、もう、なかった。


 ただ、この町の名が消えませんように、と思った。わたしが出ていけば、あの杭は、矛先を変えてくれるだろうか。


 わからない。


 わからないまま、町が、遠ざかっていく。


 通用門をくぐる。外は、夜の野原だった。風が、幌を鳴らす。


 その時、テオが、ふと、空を見上げた。


「リディア」


「ん」


「あれ」


 幌の隙間。星のない、黒い空。


 その黒さの中を、もっと黒いものが、一羽、ついてきていた。


 鳥だった。


 羽音は、しない。ただ、馬車と同じ速さで、同じ方向へ、ゆっくりと滑っている。


 迷宮で見た、あの黒い鳥を思い出す。けれど、あれより、ずっと小さい。物見の、使い。


 見られている。


 町を出ても、夜の中でも、何かが、ずっとこちらを見ている。


 そして、その下の地面を。


 濡れた足音が、追ってきていた。


 馬車のほうが、ずっと速い。どんどん遠ざかっていく。


 なのに、足音は、消えなかった。


 どれだけ離れても、細く、長く、ついてくる。


 その消えなさが、いちばん、こわかった。


 リディアは、胸元の石を、握った。


 冷たい。脈は、打っていない。いまは、ただの石。


 でも、この石が、わたしを薄くしていたのなら――その薄さでさえ、もう、あれには通じない。


 隠れる場所は、もう、どこにもないのかもしれない。


 幌の外で、母が、前を見たまま言った。


「リディア。眠れるなら、眠っておきなさい。王都までは、長いから」


「うん」


 眠れるわけが、なかった。


 リディアは、破った紙を、両手で、もう一度のばした。


 暗くて、文字は読めない。でも、指が、その形を、覚えていた。


 器、という字。環、という字。


 わたしが、何なのかを書いた、一枚。


 器、と書かれた紙を、器が、握っている。


 手のひらに、紙の冷たさと、破り取った縁のぎざぎざが、はっきりと残っていた。


 もう、誰の手にも、渡さない。


 馬車は、夜の野を、王都へ向かって進んだ。


 うしろからは、黒い鳥が一羽。その下を、あの足音が、どこまでも、ついてくる。


 振り切れない、と思った。隠れても、薄れても。


 それでも、馬車は、止まらなかった。


 夜明けの方角へ、ただ、進みつづけた。


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