見ないで、決めるの
白い線は、熱くなかった。
リディアは手のひらを近づけた。近づけただけで、指がそれ以上進まなくなった。押し返されるのでもない。そこから先が手の行く場所ではなくなるだけだった。
線は太く、継ぎ目がない。岩から岩へ何重にも渡してある。編み目のあいだから朝の色が落ちてきて、坂の途中の岩を四角く照らしていた。
「リディア!」
上から声がした。
「ユアン」
「聞こえてんのか! おい!」
「聞こえてる」
声は通っていた。
まえは、逆だった。境を越えるものが引いた切れ目では、体だけが通って、声が落ちた。ユアンが耳のそばで怒鳴っても、なにも届かなかった。
今度は、声しか通らない。
「手ぇ、出せるか」
「出せない」
「こっちからも入んねえ」ユアンの声がかすれた。「殴った。刃も入れてみた」
「やめて」リディアは言った。「それ、短くなるよ」
少し黙ってから、ユアンが低く言った。
「もう短え」
ネリの声が重なった。
「リディアちゃん、上、人がいるよ。朝の市」
「どのくらい」
「……いっぱい」
「どかせそう?」
返事に、間があいた。
「がんばる」ネリは言った。「いま、ユアンが走ってる」
うそをつくのが下手な子だった。走っているということは、まだどかせていないということだった。
リディアは振り返った。
坂の下は暗かった。暗いというより、下のほうが少しずつ終わっていた。
さっき足を止めた岩の割れ目まで、七歩あった。いまは五歩だった。
出口がないと溜まるのだと思った。上へ抜けるつもりで上がってきて、抜けられずにいる。抜けられないぶんが、横へふくらんでいる。
「テオ」
声は坂を降りていった。
返事はなかった。
もう一度呼んだ。三度目は呼ばなかった。呼んでも、あいだに無いところがある。
「下は」ミラが岩に寄りかかったまま言った。「下は、いま聞くところじゃないよ」
「聞くよ」
「そうかい」
六人が線の下に立っていた。みんな上を向いている。いちばんうしろの人だけが、二歩ごとに坂の下を振り返っていた。
その人が振り返るたび、リディアも一緒に振り返った。ふたりで数えているみたいだった。
線の白さは、目を閉じても残った。まばたきで消えない種類の白さだった。十四年、この光の内側にいた。内側から見ると、あたたかい。外側から見ると、こういうふうに見えるのだと、はじめて知った。
*
線の向こうに、人が立った。
朝の光を背にしているのに、顔は見えた。ひらいたままの目には、そういうふうに見える。
母だった。
髪はほどけて、片方の袖が肘まで裂けていた。両手は上がったままだった。なにかを押さえる手ではなく、線の端を持つ手だ。いちばん外の一本がまだ結ばれていない。
「リディア」
名前を呼ばれた。
十四年、この人だけがいつでも見つけた。いまはだれもが見つける。それでも、この人の声だけは、ほかとちがうところに落ちた。
「開けて」
「だめ」
やさしい声だった。断るときの母の声は、いつでもやさしい。
「上に、人がいるの」
「知ってる」
「あなたのうしろになにがいるかも、知ってる」
「じゃあ」
「だから、だめなの」
言葉を選ぶ間がなかった。この人が言葉を選ばないのは、めずらしかった。
「鐘は」リディアは言った。
母の指が、線の上でわずかに動いた。
「置いてきた」
「置いてきたの」
「押さえる手が、二本しかないから」母は言った。「こっちに使ったの」
リディアは母の胸のあたりを見た。
見えてしまう。芯のところに火がある。だれにでもある、あの小さいやつだ。母のそれは細かった。細くて、上のほうが揺れていた。
消せる、とは思わなかった。
思う前に、この人がなにをしてここまで細くなったのかが見えた。ひと晩じゅうここに立っていた人の火だった。
「上の人を、名前で言える?」
「言えるわ」母は言った。「順番でよければ。日よけの緑の店がパン屋のマルタ。その隣が息子のイシ。水汲みの列のいちばん前は、足の悪いおばあさんで、名前は忘れたけれど、右のほうへ体をかたむけて歩くの」
リディアは黙った。
この人は見ていた。ここへ来る前に上をひととおり見てきたのだ。数えて、覚えて、それから線を引いた。
*
うしろが四歩になった。
背中のほうから、手が来た。
手ではない。手のかたちもしていない。ただ、こちらの腕を借りようとした。線のほうへ伸ばそうとした。
リディアの指先が、白い光へ近づいた。
触れたらどうなるかは分かっていた。岩は割れずに無くなった。ユアンの剣は、はじめからそこで終わっていたみたいに短くなった。テオの炭は、あった、いま、ない、になった。
この線も、そうなる。
押し返されもせず、破れもせず、引かれなかったことになる。
「やめときな」ミラが言った。「そこへ触らせたら、あんた、いちばん楽な道を通ったことになる」
「わかってる」
「わかってるやつが、いちばんやる」
リディアは腕を止めた。
止めるのに、力が要った。手首から先が自分のものでない感じがして、肘のところで押さえた。
「無くさない」
声に出したのは、自分に言うためだった。
これを無くしたら、この人がひと晩ここに立っていたことが、無かったことになる。
いなかったことにしない、というのは、そういうことのはずだった。線の下の人も、線を引いた人も、おなじだけあったことにしておかないといけない。
リディアは腕を下ろした。かわりに、握っていた布切れを光にかざした。
「これ、見える?」
「布ね」
「へこんでるの」リディアは言った。「たくさん。ひとつずつ、だれかの形をしてる」
母は見た。
見て、目を細めた。
「わたしには、ただの布に見える」
「うん」
「ごめんなさい」母は言った。「本当に、見えないの」
*
「じゃあ、こっち」
リディアはうしろの六人へ手を向けた。
「見て」
母の目が動いた。動いて、六人の頭より少し上で止まった。
止まったのが分かった。
「あなたは」母は言った。「下にいる人を、見たのね」
「うん」
「わたしは、上にいる人を見てる」
言い返せる言葉を、リディアは持っていなかった。パン屋のマルタ。息子のイシ。右へかたむいて歩くおばあさん。名前で言えるのは、下ではなく、上のほうだった。
持っていないまま、言った。
「見ないで、決めるの」
母が黙った。
「線の下になにがいるか、見ないで」
「見たら」母は言った。「引けなくなる」
「うん」
「引かなければ、上の人が死ぬの」
「うん」
「わたしは、それをしないと決めた人なの」
風が編み目のあいだを抜けた。
「知ってる」リディアは言った。「だから、開けろって言ってない」
「言ってるわ」
「言ってた」リディアは言った。「いまは、見てって言ってる」
「見て、それから」
「それから、決めて」
母の指が、線の端をにぎり直した。
「あなたはずるいのね」母は言った。「見たら、決められないのを知っていて言うのね」
「うん」
リディアはひとつ息を吸った。
「お母さん」
母はそこにいた。まっすぐこちらを見ていた。見ているのに、動かなかった。
お母さん、では届かないのだと思った。この人はお母さんとしてここに立っている。お母さんだから、開けないのだ。
下でやったやり方がある。上の人にきくのかどうかは知らない。
したことで呼ぶには、見ていないと言えない。
リディアには、見たことがあった。黒い鳥が運んだ切れはしのなかで、いちどだけ。
あれを見たと言っていいのかは分からなかった。それでも、見た。
「震える手で、赤んぼうに首飾りをかけた人」
母の手から、線の端が落ちた。
落ちて、光がひとすじゆるんだ。
母は自分の手を見た。それから、ゆっくり膝をついた。
膝をついて、白い線の下から坂の下をのぞいた。
下でやったときは、呼ばれた人が立った。上でやると、呼ばれた人がしゃがんだ。おなじやり方なのに、動く向きが逆だった。
六人の顔がそこにあった。
くぼんだ目。ずいぶん長く使っていない口。二歩ごとに振り返る癖のついた首。
母は、しばらく動かなかった。
「……いるのね」
「いるよ」リディアは言った。「ずっと」
「線を引くとき、下を見たかと聞かれたことがある」母は言った。「見なかった、と答えたわ。見れば引けなくなるから、と」
「うん」
「引く前に見ておけば、こんなに時間はかからなかった」
「開けてくれる?」
「いいえ」母は言った。「見ても、開けたくない」
「うん」
「見なければよかった、といまも思ってる」
「うん」
「それでも、もう、見たあとなの」
ミラが岩から離れた。離れるというより、すべり降りた。
母の目が、そこで止まった。
「冥族」
「そう」ミラは言った。「殺すなら、いまだよ。あたしは、どうせ走れない」
「ミラ」
「この線を引いたのは、あんただろ」ミラは母に言った。「引いた人の顔を、いっぺん見ておきたかった」
母は目をそらさなかった。そらさないまま、なにも言わなかった。
*
うしろが三歩になった。
母は立たなかった。膝をついたまま、両手を線のなかへ入れた。
結ぶのではなく、ほどきはじめた。
白い糸が一本ずつ、朝の色に溶けて消えていく。世界を割ったことのある手がゆっくり動いていた。三本目のあたりで指が震えはじめた。震えたまま止まらず、それでも次の一本へ行った。
ほどけていくあいだ、リディアは母の芯を見ていた。
見ないでおこうとした。目のうしろがひらいたままだから、見えてしまう。
糸が一本消えるたび、火が少し低くなった。
線は編んで置いてあるものだと思っていた。ちがった。この人のどこかからずっと引かれつづけているものだった。張っているあいだ、この人は減っていた。ほどけばもどるのだろうと思った。
もどらなかった。
「ひとりずつ」母は言った。「わたしが見る」
「見るって」
「通す人の顔を、ぜんぶ」母は言った。「見ないで通したら、わたしはまた、おなじことをするから」
六人が、ひとりずつ線をくぐった。
六人はだれも顔を上げなかった。母は上げさせなかった。かわりに自分の頭を下げて、下からのぞきこむようにして見た。ひとり通るたびに、息をひとつ入れた。四人目のところで一度だけ目を閉じて、すぐ開けた。
三人目の人は、くぐるとき身をかがめすぎて、要らないところで頭を下げた。何百年ぶん、そうやって通ってきた体だった。母がその肩に手を出しかけて、止めた。
いちばんうしろの人が、くぐる前に立ち止まった。
「上は」その人が言った。「上は、まだ、あるのか」
「あるわ」母が答えた。
リディアは母を見た。母は下を向いたままだった。
「下に、まだ三十五人いる」リディアは言った。「動かなかった。わたしは、置いてきた」
「そう」
「テオも、残ってる」リディアは言った。「呼んだ。返事は、なかった」
母がはじめて顔を上げた。
「言わなくてもいいことを言うのね」
「隠すのは、お母さんのやり方」リディアは言った。「黙らせるのは、あっちのやり方」
母は、なにも返さなかった。返さないまま、次の一本をほどいた。
うしろが二歩になった。
最後に、リディアが残った。
「わたしも、通して」
「うしろが、ついてくるのね」
「うん」
「上へ出したら、下へは戻らない」
「うん」
「知っていて、言うのね」
「うん」
母は最後の一本に手をかけた。
かけたまま、しばらく動かなかった。
「これを引ける人は、いま、わたししかいないの」母は言った。「ほどいたら、二度目は引けない。手が残っていないから」
「うん」
「わかっていて、頼むのね」
「頼んでる」
ほどけた。
母が立ち上がろうとして、いちど膝に手をついた。二度目で立った。立ち上がって、リディアの前には立たなかった。
半歩ずれて、横に立った。
「なにがあっても外してはだめ、と言ったわ」
「うん」
「あれは、まちがってた」母は言った。「ごめんなさい、とは言わない。あやまるなと、あなたに言われたから」
リディアは笑いそうになった。ずいぶん前のことを、この人は覚えている。
「そのかわり、見てる」母は言った。「そらさない。……こんどは、下も」
*
坂の口を出た。
朝だった。
布の日よけが並んで、その下に籠が積んである。焼きたてのにおいがした。井戸のところで水を汲む音がして、犬が鳴いて、子どもが誰かの膝のあいだを走り抜けていった。
地の底にいたのは、ひと晩だった。ひと晩で、ここは変わっていなかった。
ユアンが人ごみを割って走ってきた。肩で息をしている。
「どかせてねえ」ユアンは言った。「言った。走った。三回まわった。だれも動かねえ」
「なんで」
「知るかよ!」ユアンは怒鳴った。「見えねえもんのために、店を畳むやつがいるか!」
ネリが向こうのふちで両手を振っていた。振りながら、まだ誰かの袖を引いていた。
リディアは一歩、光のなかへ出た。
人がこちらを見た。
ひとりが見て、それから、その隣が見た。籠を下ろす音がした。話し声が途中で終わった。
十四年、目はいつも顔の上をすべっていった。教室でも、廊下でも、班分けの列でも。
いま、広場じゅうがすべらなかった。
すべらない目が最初に見つけたのは、リディアではなかった。半歩うしろの薄い輪郭のほうだった。
「冥族だ」
だれかが言った。
声はひとつだった。ひとつなのに、広場じゅうの背中がおなじ向きに動いた。籠が引かれ、子どもが腕ごと持ち上げられ、日よけの下へ入っていく。だれも走らない。走らずに、じりじりと後ろへ寄る。押し込めるほうへ体が動くのだと、リディアははじめて外から見た。
リディアのうしろで、朝の石畳が音もなく終わりはじめた。
悲鳴が上がった。
いちばん近くにいた女の人が籠を落とした。パンが石の上を転がって、日よけの柱にぶつかって止まった。
リディアはその人を見た。
名前は知らない。知りようがない。
「いま、パンを落とした人」
リディアは言った。
「聞いて」




