あなたを、しまわない
岩は割れなかった。
無くなった。
赤い脈の底で動いたものを、リディアは目で追った。追ったところに、もう岩はない。砕ける音もしなかった。粉も飛ばなかった。ついさっきまでそこにあったという感じだけが、水のひいたあとみたいに残っていた。
「いまの、なんだ」ユアンが剣を構えた。「音、しなかったぞ」
「無くなるのは静かなの」
自分の声が平らなのに、リディアはあとから気づいた。こわくないわけではない。目のうしろがひらいたままだと、見えているものをそのまま言うことしかできなくなる。
見えていた。
赤い脈のずっと下に、なにも無い場所がある。それが、こちらへ上がってきていた。
岩を割って進むのではなかった。通ったところが無くなる。焦げも粉も出ない。ただ、そこにあったことが終わる。
「間隔が」テオが床に手のひらを近づけた。「なくなった」
「詰まってるんじゃなくて?」
「詰まったなら、まだ数えられる」テオは言った。「いまのは、ずっと来てる」
テオが炭を持ち直そうとして、指を止めた。
親指と人差し指のあいだが閉じていた。
「あった」テオは言った。「いま、ない」
リディアはその指を見た。さっき折れて短くなった炭のかけらだ。落として、拾って、うまく持てないまま握っていた。
それが無い。
ネリが両手でローブの裾を握った。
「……書けないね」
「うん」
「じゃあ、どうすんだよ」ユアンが言った。
「覚える」テオは言った。「あんまり得意じゃないやり方だけど」
「お前、忘れないんじゃなかったのか」
「忘れないのと、覚えるのは、ちがう」テオは言った。「入ってきたものは忘れない。取りにいくのは、やったことがない」
岩のくぼみでミラが上体を起こした。薄い腕が二度すべって、三度目でようやく体を支えた。
「王だよ」ミラは言った。「使いじゃない。じかに来る」
*
リディアは縁を見た。
四十一人がまだそこにいた。
ひざまずいたまま、こちらを向いている。背から糸は出ていない。切ったきり、取る先が変わったままだ。それでも、この人たちは動かない。
上がってくるものの真上に、四十一人が座っている。
「逃げて」
だれも動かなかった。声は届いている。顔も上がっている。上がったまま待っている。
「そこの人」リディアは言った。「いちばん前の、あなた」
なにも起きなかった。
目のくぼみはこちらを向いたが、それだけだった。届いていない。呼ばれたと思っていない。
名前を呼べば届く。届いて、その人は燃えつきる。
ずっと、そこで手が止まっていた。食べさせることもできない。呼ぶこともできない。できるのはこれだけなの、と自分で言ったばかりだった。
リディアはさっきの紙を思い出した。
薄れなかった行がある。お母さん、と書いてあった。あれは名ではないから喰えないと白い布は言った。名前は預けたものだから外から取れる、したことは預けていないから取れない、とテオが言った。
「ミラ」
ミラの目が動いた。
「呼んだら燃えつきるんだよね」
「そうだよ」
「名前じゃなかったら?」
ミラの落ちくぼんだ目が、少しだけひらいた。
「……なに」
「名前じゃないもので呼んだら」リディアは言った。「それでも燃える?」
ミラは答えなかった。答えないまま、口の端が動いた。笑ったのだと、あとでわかった。
「やったやつを、あたしは知らない」
リディアは縁のいちばん手前へ歩いた。
しゃがんで、そのひとりを見た。四十一本の糸が切れたとき、いちばんはじめに振りかえって自分の手を見た人だ。名前は知らない。知りようがない。
さっきの言い方では届かなかった。前にいるとか、そこにいるとか、そういうものは、この人がしたことではない。
したことを言えばいい。
「あの」
声がかすれた。息を吸い直した。
「いちばんはじめに、振りかえった人」
顔が上がった。
内側から明るくなって減っていく、あの燃え方はしなかった。目のくぼみがこちらを向いて、そのままだった。
立った。
膝が笑って、二度ついて、それでも立った。
「腹はふくれないよ」ミラが言った。
「うん」
「……それでも、いま、あれは立った」
リディアはその隣へ動いた。
うずくまり方も、肩のかたちも、さっきの人とよく似ている。似ているだけで、なにも知らなかった。
「……えっと」
言葉が出てこなかった。
この人がなにをしたのか、リディアは見ていない。あのとき、この人はどこを見ていたのか。手を見たのか。上を向いたのか。覚えていない。
「呼べない」
「なんで」テオが言った。
「見てないから」リディアは言った。「したことで呼ぶには、見てないと、言えない」
テオが少し黙った。
「……じゃあ、見るしかないね」
「うん」
「面倒くさいな」テオは言った。「名前のほうが、ずっと楽だ」
「うん」
「楽だから、みんな外に置きっぱなしにするんだ」
リディアは残りを見た。
四十人が座ったままだった。ひとりが立ったのを見て、また上を向いた者もいた。この人たちは待っている。何百年ぶんの、待つという習慣が、体のかたちになっていた。
*
空洞の床が、鳴らずに沈んだ。
沈んだのではない。床の一部が無くなったのだった。
ふちは焦げてもいなかった。切り口も、割れ口もない。ただ、そこから先が続いていなかった。
「下がれ」ユアンが言った。
言いながら、自分は下がらなかった。剣の切先を、そのふちへ差し入れた。
「ユアン」
「触ってみねえと、わかんねえだろ」
手ごたえは無かった。ユアンの腕は止まらず、するりと入って、すぐ引き戻された。
剣が短くなっていた。
折れてはいない。刃の先が、はじめからそこで終わっていたみたいに、まるく閉じている。研いだのでも、溶かしたのでもない。無くなったぶんだけ、短い。
ユアンはそれを目の高さまで持ち上げて、しばらく黙っていた。
「……剣術科で、これで六年やった」
「ユアン」
「いい」ユアンは言った。「腕じゃなくてよかった」
その先へ、無いところが上がってきた。
のどが動いた。
自分で動かしたのではなかった。
「みつけて」
自分の声だった。抑揚まで自分のものだった。
前にもいちど、口が勝手にしゃべったことがある。あのときのは、ずっと昔にだれかが言った言葉だった。いまのは、ちがう。いま、頼まれている。
「いれて」
リディアは口を押さえた。押さえても、のどの奥はまだ動いていた。
言われている意味は、押さえた手のなかでわかった。
なかに入れれば、吸うものが要らなくなる。四十一人は待たなくてよくなる。上のだれも喰われない。そしてこの穴は見つけてもらえる。いちばん明るいものの中にいれば、いやでも人の目に入る。
しかも、自分は器だった。
十四年、そのために薄くされてきた。首の後ろが軽くなったのは、ゆうべだ。空いている。
「リディアちゃん」
ネリが腕をつかんだ。指が食いこんだ。
「顔、いま」
「うん」
「入れちゃだめ」
楽になりたい、とは思わなかった。
源の口でそう思ったことはある。力をぬけばみんな楽になると言われて、本気で揺れた。あれとはちがう。いまのは痛くも、あまくもない。
ぜんぶの数が合っていた。
「それ、いい話に聞こえてるだろ」テオが横で言った。
「……うん」
「いい話に聞こえるときは、たいてい、だれかがいなくなる」
*
胸の内側が引かれた。
ゆうべ目をあけたものが、内から扉を押していた。押すというより、こちらの手を取って、開け方を教えようとしていた。
開け方はもう知っていた。ゆうべ自分で覚えたばかりだ。
リディアは袖に手を入れた。
さっき拾った布切れが、まだそこにあった。しまったまま忘れていたわけではない。忘れないようにしまっていた。
取り出して、手のひらにひろげた。
指でなぞると、細かいへこみがいくつも触れる。ひとつずつ、だれかの形をしている。名前はわからない。何人ぶんかも数えきれない。
リディアはそれを無いところへ向けた。
「これ」
声はかすれなかった。
「あなたが空けたところ」
のどがまた動きかけて、止まった。
「ゆうべも言った」リディアは言った。「許してない。おなかがすいてたからって、人を喰っていいわけがない。……これは、あなたのしたこと。どこにも預けてないから、あなたにも、取り返せない」
風はないのに、布切れの端が持ち上がった。
持ち上がって、こちらへ引かれた。取り返そうとしているのだと思った。ちがった。近づきたがっていた。
リディアは手を胸のほうへ動かしかけて、止めた。
止めたのに、指が二本ぶん、勝手に進んだ。
入れる、というのは、しまうことだった。
自分のなかはあたたかいかもしれない。けれど、そこはだれにも見えない。
石のかげに娘をしまった人がいる。線の下へまるごとしまった人たちがいる。
いま、自分の胸のなかにしまおうとしていた。
「あなたを、しまわない」
言ってから、リディアは自分の声を聞いた。思っていたより低い声だった。
「入れたら、あなたは、また、だれにも見えないところに行くことになる」
のどの奥でなにかが引っかかった。
「それが、いちばん、いやだったんでしょ」
引かれていたものが、ゆるんだ。
飢えはそこにある。こちらの胸を押していた手が、いちど下りただけだった。
*
赤い脈が止まった。
止まってから、ゆっくりリディアのほうへ傾いた。
「外って、どこだよ」ユアンが言った。
「上」
「は」
「上へ出す」
ユアンが一歩前に出た。短くなった剣の先が下がっていた。
「町があるんだぞ」
「うん」
「人がいる。喰われるぞ」
「うん」
言い返せる言葉を、リディアは持っていなかった。持っていないまま言った。
「下に置いておいても無くならない。ここで大きくなるだけ」
「じゃあ上でも大きくなるだろうが」
「上の人は、これを見たことがない」リディアは言った。「わたしも、ゆうべまで、見たことがなかった」
ユアンの口が閉じた。
「連れていくの」ネリが聞いた。
「連れていけない」リディアは言った。「持てるものじゃないもん。……でも、ついてくると思う」
「なんで」
「わたしが、いちばん明るいから」
ミラが岩から降りた。降りるというより、すべり落ちた。
「そうだね」ミラは言った。「いま、この下で、あんたがいちばん明るい」
それから低い声で足した。
「いっぺん上へ出したら、下へは戻らないよ」
「うん」
「戻せると思ってるなら、やめときな」
「思ってない」
リディアは天井を見た。
岩と土のずっと向こうに、坂と鐘楼がある。鐘はゆうべから鳴っていない。
「上に、お母さんがいる」リディアは言った。「たぶん」
「たぶんか」
「たぶん」
ユアンが剣を鞘に戻した。短くなったぶん、柄が浅く浮いた。ユアンはそれを見て、鼻から息を出した。
「ユアン」
「なんだ」
「先に行って。走って。人を、どかして」
ユアンがこちらを見た。それから、めずらしく口の端を上げた。
「はじめてだな」
「なにが」
「お前が、おれに指図すんの」
「……だめ?」
「わるくねえ」
ネリがローブの裾を握って、離した。
「わたしも行く」ネリは言った。「こわいけど、上のほうが手が要ると思う」
「僕は残る」テオが言った。「書けないから、覚える。……いま起きてることを、あとでだれかに言うやつが要る」
ミラが最後に言った。
「あたしも上へ行く」
「殺されるよ」
「知ってる」ミラは言った。「あんたらのやり方は、まだ、きらいだ。……でも、となりで見てる」
「もし」ネリが小さく言った。「上の人が、開けてくれなかったら」
リディアは答えなかった。
「ごめん」ネリは言った。「いま、聞くことじゃなかった」
「ううん」リディアは言った。「たぶん、いちばん、ありそうなこと」
*
リディアは坂を上りはじめた。
布切れは袖に戻さなかった。握ったまま、片手をあけて歩いた。
三歩めで、うしろがついてきた。
振り返らなくてもわかった。歩いたぶんだけ、通ってきた岩が終わっていく。足あとではない。足あとは残るものだ。あれは残らないほうの跡だった。
「四十一のうち」テオがうしろで言った。「動いたのは、六」
「六」
「うん」
六人が離れてついてきていた。近づいてはこない。それでも、坂の下からは離れた。
立ったあの人が、いちばんうしろを歩いていた。二歩ごとに振り返る。座ったままの者を見て、また前を向く。
残りは動かなかった。動かない者を置いていく重さを、リディアは坂の途中でひとつずつ拾った。拾って、袖から出した布切れといっしょに握った。
いちばんうしろの人が、はじめて口をきいた。
「上は」
声はかすれていた。長く使っていなかった声だった。
「上は、まだ、あるのか」
「あるよ」リディアは言った。
「見たことがない」
「わたしも」リディアは言った。「見たことがないもの、さっきから、多い」
登るにつれて空気がかわった。湿ったものが減って、焦げた土のにおいがした。上のほうが明るい。
明るすぎた。
リディアは足を止めた。
坂の口を、白い線が横に走っていた。
太い。新しい。継ぎ目のない一本が岩から岩へ渡してある。編むように何重にもなって、いま、いちばん外の一本が結ばれるところだった。
外から引かれていた。
知っている光だった。
夜営の火のそばで見た。王都の廊下で見た。鐘楼の下でも見た。いつも自分の前に立って、こちらへ来るものを押し返してきた光だ。
それが、いまは頭の上にある。
うしろで、無いところが止まった。
止まって、ゆっくりひろがりはじめた。
リディアは布切れを握り直した。
「お母さん」
声は、思ったよりよく通った。
「開けて」




