喰えなかった一行
最初に降りてきたのは、乾きだった。
空洞は湿っている。岩肌に水が滲んで、赤い脈のまわりだけが熱い。その湿りが、上のほうから順に抜けていった。喉の奥へ手を入れられて、水を持っていかれるような抜け方だった。
リディアは、その乾きを知っていた。
地の底の房で肌を舐められた。外縁の穴の向こうで寄り添われた。坂の下から昇ってきて、鐘楼の下でひらいた。
今度は、上から来た。
裂け目のふちに、白いものがかかった。
布だった。色の抜けた布が何枚も重なって、人の背丈より高い。風はないのに揺れている。布のあわいに顔はなく、暗がりがあるだけだった。
「あれ」ネリの声が細くなった。「あれ、鐘楼のときの」
「うん」
ユアンが剣を拾った。拾って、握り直して、それだけだった。あのとき刃が布を切らなかったことを、この男はまだ覚えている。
布が岩を滑って降りてきて、止まった。
「明るい」
かすれた低い声だった。
「ここは暗い場所のはずだ」ヴェールは言った。「それなのに、明るい」
顔のない暗がりが、こちらを向いていた。
ユアンでもネリでもテオでもなかった。はじめから、リディアだけを見ていた。
十四年、だれもそうしなかった。教室でも、廊下でも、班分けの列でも。目はいつも顔の上をすべって、その先へ行った。
いま、すべらない。
見てほしかった、とゆうべ言った。
ミラの言ったとおりだった。望んだ形では、来なかった。
縁のほうでも、布ずれの音がした。ひざまずいていた人たちが顔を上げている。四十一のうちのいくつかは白いものを見て、残りはリディアを見ていた。どちらを見ればいいのか決めかねている顔だった。
岩のくぼみで、ミラが身を起こそうとしていた。
「……下がりな」ミラは言った。名前を使わない言い方だった。「あれは、喰う係だよ」
「知ってる」
布がゆっくり傾いだ。
「そちらの声がする」ヴェールが言った。「めずらしい。おまえが、こんなところまで」
「あんたこそ」ミラは言った。「上に、しずかな鐘があるだろう」
「ある」ヴェールは言った。「ある。……だが、こちらのほうが明るい」
*
布の一枚が伸びた。
速くはなかった。ゆっくり近づいて、頬に触れた。首に。名前のあるあたりに。だれかが呼んだ音の、燃えかすのあたりに。
舐められた。
名前が、ほどけた。
リ、のところまでは自分のものだった。その先が口のなかで溶けて、綿みたいになった。まわりの音が水の底へ落ちていく。鐘楼の下でおなじことをされたときは、そのあとに長い沈黙が来た。だれも呼ばなかった。呼べなかった。
今度は、来なかった。
「リディア」
ユアンだった。
考えて出した声ではなかった。詰まりもしなかった。
「リディアちゃん」ネリが続けた。
「リディア」テオが数えるみたいに言った。
戻った。
速かった。
地の底で、この四人はいちど声を使い果たしている。あのときは、のどが四つしかないと数えた。ユアンは覚えていることを並べて、二周目で順番を間違えた。テオは意味のない数を言いつづけた。ネリは歌になった。
いまは、ただ出ていた。
探していない。思い出していない。引っかかるものが、どこにもない。
布がもう一枚来た。舐めた。呼ばれた。戻った。
三度目もおなじだった。
「おい」ユアンが自分の口をさわった。「おれ、いま、なんも考えてねえぞ」
「うん」
「息するみてえに出る」
その言い方に、リディアは笑いそうになった。
きのうまで、この男は名前ひとつを持ちつづけるために歯を食いしばっていた。手配書に絵がなくてもわかった、と胸を張った。あれは努力だった。いまのは、努力ですらない。
「……継ぎ足しが、速い」
ヴェールの声が乾き方を変えた。
「やめだ」ヴェールは言った。「これは、鐘とおなじだ」
「鐘」
「何百年、あれは一日も黙らなかった」ヴェールは言った。「だから、いちばんうまそうで、いちばん喰えなかった。……おまえは、小さい鐘だ」
リディアは自分の胸に手をやった。
なにも下がっていない。布も、鎖も、石もない。首の後ろが軽いままだった。
十四年、隠されていた。いま、隠すものがない。いちばん喰いやすいはずの日に、いちばん喰えない体になっていた。
*
布がリディアから離れた。
かわりに、暗がりがうしろを向いた。
「しずかなものが、ある」ヴェールは言った。「そこに」
テオの手が止まった。
炭で汚れた指が、まだ手帳を持っていた。
「紙に書いた名は、呼ばれていない」ヴェールは言った。「書けば安心する。書いたきり、口にしない。……いちばん、しずかだ」
テオが手帳を胸に押しつけた。
押しつけても、ページの端から字が薄くなりはじめた。
「ユアン」テオが読んだ。「ネリ。……テオ」
読んだ行の濃さが戻った。
戻ったそばから、別の行が薄れた。
「追いつかないな」ヴェールが言った。
「読め」ユアンが手帳をのぞきこんだ。「上から読め。おれもやる」
三人で読んだ。ユアンの声は大きく、ネリの声は震えて、テオの声は平らだった。読んでは戻し、戻したそばから薄れる。指のあいだから水がこぼれるのに似ていた。
岩のくぼみで、ミラが手を伸ばした。
紙のほうへ、途中まで。
そこで止めて、下ろした。
この人の口に人の名前を入れると、この人のほうが消える。二度やって、二度とも返してくれた。三度目はないと自分で言った。リディアも、呼ばなくていいと言った。
だから、いま、この人は読めない。読めるのに、読めない。
ミラは岩に背をつけて、目だけをこちらへ向けていた。
「お母さん」ネリが読んだ。
その行だけ、はじめから薄れていなかった。
布のあわいが、そこで一度止まった。
「これは、名ではない」ヴェールが言った。
ネリが目を上げた。
「呼び名は、喰えぬ」ヴェールは言った。「わたしが持てるのは、名だけだ」
リディアはページをめくった。
前のほうには父の字がある。薬草の名前。天気の読み方。眠れない子に飲ませる蜂蜜湯の作り方。母が疲れている日に作るスープの分量。
どれも薄れていなかった。
いちばんうしろに、きのう炭で書いた行がある。首飾りを外した日。
薄れていない。
*
その手前で、リディアの指が止まった。
名前の行が並んでいるところだ。三つ目の行は、もうずっと前から字の形をしていない。地の底で奪われた。だれの名前だったのかを、いくら探しても思い出せない。茶屋の匂いは覚えている。へんな名前だね、と笑った口も覚えている。名前だけが、どこにもない。
その隣に、小さな字があった。
自分の字だった。奪われた日に、書いた。空いたままにしておけなかった。
ここに、いた。
薄れていなかった。
「テオ」リディアは言った。「ここ」
テオがのぞきこんだ。指で押さえて、二度なぞった。
「……その一行だけが、喰えなかった」テオは言った。
布が動かなくなった。
顔のない暗がりが、紙のうえに落ちていた。
「わかった」テオが言った。声が少し速くなった。「名前は、預けたものだ」
「預けた」
「呼んでもらうために、外に置いてある」テオは言った。「置いてあるから、外から取れる。……したことは、預けてない。置いた場所が、ちがう」
リディアは紙を見た。
名前の行はどれも薄い。したことの行だけが、濃いまま残っている。
ユアンが低く言った。
「じゃあ、名前ってのは」
「弱いよ」テオは言った。「ずっと弱かった。みんな、外に置きっぱなしにしてる」
*
目のうしろが、ひらいたままだった。
もう蓋はない。閉じたくても閉じられない。だからリディアは、布のあわいを見た。
名前は見えなかった。音でもなかった。
へこみだった。
なにかがそこにあって、持っていかれたあとの、くぼみ。ひとつ、ふたつ、と数えかけて、途中でやめた。数えきれる量ではなかった。布は何枚も重なっていて、その一枚ごとに、へこみがびっしり並んでいた。
どれも、だれかが、いた形だった。
リディアは息を吸って、吐くのを忘れた。
「テオ」リディアは言った。「炭、貸して」
「なにを書く」
「わからない人のこと」
テオが炭のかけらを渡した。
リディアは膝に手帳を置いて、空いている行に書いた。
名前はわからない。だから、名前でないものを書いた。
名前は、わからない。いた。
次の行にも書いた。次の行にも。
「知らない者のために、書くのか」ヴェールが言った。
「うん」
「なぜだ。おまえは、その者をひとりも知らない」
「知らないままでも」リディアは言った。「いなかったことには、しない」
炭が紙をこする音だけがした。
「足りないぞ」ヴェールは言った。「わたしは何百年、喰ってきた。おまえの紙は、何枚ある」
「足りない」リディアは言った。「ぜんぶは、書けない」
手が止まらなかった。
「でも、ひとつも書かないのとは、ちがう」
ネリが横から手帳をのぞきこんだ。
それから、書かれたばかりの行を声に出して読みはじめた。
「名前は、わからない。いた」
「ネリ」
「だって」ネリは言った。「書いたきりだと、しずかなんでしょ」
読む声は震えていた。震えたまま、止まらなかった。ずっと人の傷を塞いできた手が、いまは紙を押さえている。塞ぐ傷のないものに、この子の光は届かない。届かないと知ったうえで、ちがう仕事を見つけていた。
布のあわいの暗がりが、ネリのほうを向いた。
そして、なにも取らずに戻った。
*
そのとき、テオが息を吸った。
「ひとつ、なくなった」
リディアは顔を上げた。
テオの指が、少し前のページを押さえている。前に自分で書いた行があったところだ。境の向こうの子の名前を、二度呼んだ。呼んでも、あの子は誰にも呼ばれずに終わった。
行が、白くなっていた。
名前が出てこない。喉のところまでは来る。その先がない。
「……ずるい」
リディアは言った。自分でも子どもみたいな言い方だと思った。
布は答えなかった。
答えないことが、答えだった。喰う者は、喰えるものから喰う。ずっと、そうしてきたのだろう。
リディアは炭を持ち直して、白くなった行に書いた。
境の向こうにいた、ちいさい子。名前は、もう、わからない。いた。
書き終えて、指の力を抜いた。
紙のうえで、その行は薄れなかった。
「読むよ」ネリが言った。
「うん」
*
最後に、自分の行を見た。
父の字の下に、自分で書いた自分の名前がある。ずいぶん前に書いた。あのころは、書いておかないと消えると思っていた。
いまは消えない。だれも忘れない。書く必要は、もうない。
それでも書いた。
わたしは、ここにいた。
忘れられないために書くのではなかった。いたことを、自分で決めて残すのだった。
炭が指のあいだで折れた。落ちたほうを拾って、もう一度握った。短すぎて、うまく持てなかった。
書けるものは、これで終わりだった。
「……運べないな」
ヴェールの声だった。
「なにが」
「おまえだ」ヴェールは言った。「喰えない。隠せない。消せない。……持っていけない」
布がゆっくり退がった。
「王のところへ、なにを持って帰る」ヴェールは自分に言っていた。「持って帰るものが、ない。ならば」
言葉が切れた。
「行かないの」リディアは言った。「上に、しずかな鐘があるんでしょ」
布が止まった。
「行かない」ヴェールは言った。「もう、そちらではない」
リディアは折れた炭を握ったまま立った。
「あなたのことも、書く」
布のあわいの暗がりが、こちらへ戻った。
「わたしには、名がない」ヴェールは言った。「喰う者は、名を持たぬ」
「知ってる」リディアは言った。「したことを書く」
布が、はじめて音を立てた。何枚もの布がいちどにこすれる、虫の翅みたいな音だった。
それきり、布は裂け目の上へ引き上げられていった。
一枚だけ、岩に落ちた。
*
リディアはそれを拾った。
軽かった。手のひらより少し大きいだけの、色の抜けた布切れ。指でなぞると、細かいへこみがいくつも触れた。
だれのものかは、わからなかった。
わからないまま、袖にしまった。
「上、鳴らないね」ネリが天井を見上げた。
鳴らなかった。
待った。乾きが引いて、岩肌に湿りが戻ってきても、鐘は一度も鳴らなかった。押さえる手も、鳴らす手も、上にはもういないのかもしれなかった。
縁の人たちが、いちど上を向いた。今度はすぐにこちらへ戻ってきた。
「近い」テオが赤い脈のそばで言った。「さっきより近い。……間隔が、詰まってる」
リディアは自分の胸に手を当てた。
なかで、目をあけたものが、ゆっくり呼んでいた。呼んで、待って、また呼ぶ。眠っていたころとちがって、返事が来るまでやめない。
「リディア」ユアンが剣を握り直した。「あいつ、最後になんて言った」
「運べない、って」
「それだけか」
「それだけ」リディアは言った。「……運べないものは、取りに来るしかない」
空洞の奥で、赤い脈の底の岩が、ひとつ動いた。




