首飾りを外した日
布が、細くなっていた。
ユアンの上着の袖を裂いた布だ。ネリが背中で二度結んだ。半日ももたないと思っていたのに、まだもっている。もっているだけで、繊維は片側から順にほどけていた。
リディアは指でなぞって、残りを数えた。
数える癖は、テオからうつったものだ。
上では、まだ鐘が鳴っていた。
鳴りやまない音は、もう音というより天井の重さになっていた。岩を通ってくるあいだに高いところが削れて、低いところだけが腹に当たる。
「上がってる」テオが言った。
床に膝をついて、赤い脈へ手のひらを近づけている。触れてはいない。
「昨日は横に流れてた。いまは、上へ向かって流れてる」
「鐘に」
「たぶん」
リディアは天井を見た。
岩と土のずっと向こう、坂の上に何百年ぶんの祈りが詰まった鐘がある。その下に、それを押さえている人がひとりいる。
「四十一」テオが続けた。「縁の人は、まだ四十一。減ってない」
「うん」
「減らないのは、こっちを見てないからだ」テオは言った。「上のほうが、大きい」
リディアは縁を見た。
ひざまずいていた民が、みんな首を上へ向けていた。四十一人がおなじ角度で、おなじほうを見ている。背から糸は出ていない。切ったからではなかった。取る先が変わったからだった。
助けたのではなかった。順番をうしろへ回しただけだった。
ネリがローブの裾を握った。
「……リディアちゃんのお母さん、あそこにいるんだよね」
だれも答えなかった。
答えなくても、四人ともおなじことを考えていた。
「一本だ」ユアンが言った。
剣を抱えて壁にもたれている。肩はまだ上がらない。
「使えば、七本目だ」
「うん」
「使わなきゃ、上のあれが喰われる」
「うん」
「どっちも、だめじゃねえか」
ユアンは自分で言って、自分で舌打ちした。
*
ミラは岩のくぼみに横になっていた。
輪郭がところどころ薄い。腕のかたちは、昨日から戻っていない。
リディアはその横に座った。
「ひとつ、聞いていい」
ミラの目が動いた。名前を呼ばずに返事をするやり方を、この人はもう覚えている。
「外すのと、こわれるのは、おなじこと?」
ミラはしばらく黙っていた。
「……ちがう」
「どう、ちがうの」
「蓋を持ち上げるのと、蓋を割るのは、ちがう」ミラは言った。「持ち上げれば、あふれる。あふれたものは、いつか片づく。割れば、二度と閉じない」
リディアは胸の布を押さえた。
「六本のままでも、外せるの」
「外せる」
空洞の赤い光が、ゆっくり明滅していた。
「外したら、どうなるの」
「あんたが、ここでいちばん明るいものになる」
リディアは自分の手を見た。
配られた紙が一枚足りない机。名前の抜けた掃除当番の表。約束したのに別の子と食堂へ行った友だち。
「十四年、あんたは薄かった」ミラは言った。「薄いから、だれにも見つからなかった。外せば、それが終わる。……見つかる。ぜんぶに」
「見て、ほしかった」
声は、思ったより静かに出た。
「ずっと」
ミラの落ちくぼんだ目が、こちらを向いた。
「知ってるよ」ミラは言った。「だから言ってる。あんたが望んだ形では、来ない」
リディアは膝の上で指を組んだ。
「外したあと、また着けられる?」
「着けられるよ。……六本のままならね」ミラは言った。「だから、みんな、それを待ってる」
みんな、という言い方をした。
こちら側もあちら側も、という意味だとわかった。
*
鐘の音が、変わった。
高いところがなくなった。もともと低いところしか届いていなかったのに、その低いところの芯が細くなった。水の減った壺をたたく音だ。
「減ってる」テオが言った。「なかみが」
「なにが減ってるの」ネリが聞いた。
「祈り」
だれも笑わなかった。
何百年、毎日呼びつづけて溜めたものが、いま上から順に減っている。
リディアは立った。
立ってから、自分でも驚くくらいはっきりした声が出た。
「聞いて」
三人が顔を上げた。
昔、迷宮の通路で、右から何か来ると言おうとしたことがある。声が小さくなって、途中で飲みこんだ。たぶんで止めるな、と言われた。それからずっと、口に出す前に考える子だった。
いまは、考えてから言っている。
「わたし、首飾りを外す」
「……割るの?」ネリの声がかすれた。
「割らない。外すだけ」
「外れたら暴れんだろ」ユアンが言った。
「うん。あふれる」リディアは言った。「だから、ゆっくり出す。……先に置く、みたいに」
ユアンは、聞き返さなかった。
その言い方をこの男は知っている。外縁で、何百回も失敗しながらいっしょに覚えた言い方だった。
「通すだけじゃだめなのか」ユアンは言った。「上のを追い払うだけなら、一本ぶんで」
「一本使ったら、七本目なの」
「……ああ」
ユアンは剣の柄を握って、それから離した。
「こわいんだよ」ユアンは言った。「外したら、お前がお前じゃなくなるんじゃねえかって」
リディアは首を横に振った。
「わたし、着けてるあいだも、あんまり、わたしじゃなかったよ」
ユアンが黙った。
「七本目が入ったら、そのあとはなにも決められない」リディアは言った。「外れるのを待つのは、もう、やめる」
ネリが手の甲で目をこすった。それから、リディアの背中へ回った。
「……ほどけないように、って言ったのに」
「うん」
「わたしが結んだんだから」ネリは言った。「わたしが、ほどく」
結び目が二度ぶんゆるんだ。
ユアンが剣を床に置いて立ち上がった。肩を押さえながら、リディアの前へは出なかった。斜め後ろに立った。
「どこに立てばいい」ユアンは言った。「お前が決めろ」
「そこで、いい」
「わかった」
テオが紙を広げて、炭を握った。
「僕は数える」テオは言った。「出したものと、戻ったもの。……あとでぜんぶ書く」
*
リディアは布を胸から外した。
手のひらに、黒い石が載った。
十四年、この重さを首の後ろで支えてきた。手のひらで受けたのははじめてだった。
鎖は切ってから何度もつないだせいで、色がまだらになっている。
母はこれを渡した日のことをあまり話さなかった。覚えていないはずがなかった。震える手で、まだ首もすわらない赤ん坊にこれをかけた人だった。
なにがあっても外してはだめ、と言われた。
あの夜、台所の灯りが揺れていた。母の声は祈りに近かった。
うらんではいなかった。
うらんでいないまま、それでも、はずす。
リディアは鎖を頭からくぐらせて、両手で持ち上げた。
音は、しなかった。
ゆっくりだった。落ちるものは速いけれど、持ち上げるものはそうではない。
首の後ろが、風に触れた。
そして、世界がひらいた。
いちどきに来ると思っていた。来なかった。リディアは息を吐きながら、それを少しずつ外へ出した。糸を先に置いて、そこへ通していくやり方だった。何百回も失敗した練習だった。役に立った。
岩の中の水が見えた。赤い脈のはじまりが見えた。ネリの手のひらの熱が、テオの紙の焦げた縁が、ユアンの胸で急いでいるものが見えた。ずっと遠かったものがぜんぶ、手の届くところにあった。
こわくなかった、とは言えない。
けれど、迷宮の夜とはちがった。
あのときはなにが起きているのかわからなかった。自分がやったのかもわからなかった。いまは、わかっている。わかっていて、こわい。そのほうがずっとましだった。
見えすぎた。
ネリの胸のなかで、こわいという気持ちが小さくふるえているのが見えた。ユアンが肩の痛みを黙っているのが、痛みの形のまま見えた。テオの平らな顔の内側が見えた。そこには数えても数えても足りないという焦りがあった。
見てはいけないものだった。
リディアは目を細めた。細めても、閉じても、見えた。
これが外すということだった。
リディアは、いちばん大きなものを見た。
名も形もない。ずっとそう見えていた。ひらいた目で見ても、やはり名も形もなかった。
けれど、はじめて中まで見えた。
それは、怪物ではなかった。
穴だった。だれかが空けた穴で、空けられてからずっと埋まらないままそこにあった。埋まらないから、まわりのものを吸っていた。吸っても埋まらないから、もっと吸っていた。
その芯に、ひとつだけかたちのあるものが残っていた。
願いだった。
言葉ではなかった。それなのに、読めてしまった。
見つけてほしい。
いないことに、しないでほしい。
リディアは口をおさえた。
おさえた指が、震えた。
それは十四年、自分がずっと胸のなかで言っていたことと、おなじ形をしていた。
*
消せる、と思った。
全部ひらいた目にはなんでも見えた。芯の火を吹き消すように、いつでもできるはずだった。
リディアは手を上げて、そこで止まった。
消す先が、なかった。
火なら消せる。糸ならほどける。線ならふさげる。けれどこれは、火でも糸でも線でもなかった。空いている場所を消すことは、できない。
「……そっか」
リディアは、ひとりごとのように言った。
押しこめたものは、押しこめ返せない。いないことにしたものを、もういちどいないことにはできない。何百年、人間はそれをやろうとして、そのたびに穴を大きくしてきたのだ。
できることは、ひとつしか残っていなかった。
人のやり方だった。いちばん弱い時間に、いちばん役に立たなかったやり方だった。
リディアは、その穴へ顔を向けた。
「こっちを見て」
声は、空洞の岩に吸われなかった。
「あなたは、いる」
赤い脈が、止まった。
「知ってる。わたしが、知ってる」リディアは言った。「許してない。おなかがすいてたからって、人を喰っていいわけがない。それは、べつ」
息を吸った。
「でも、いないことには、しない」
空洞が、鳴った。
上へ向かって流れていた赤いものが、途中で止まり、ゆっくりと向きを変えた。
こちらへ、来た。
リディアは動かなかった。
やがて、上の鐘が鳴りやんだ。
三人が天井を見上げた。
押さえていた手が放されたのだ、とリディアは思った。それが押さえきれなくなったからなのか、押さえなくてよくなったからなのか、ここからではわからなかった。
静かだった。
そして一度だけ、鐘が鳴った。
押されて出た音ではなかった。にごってもいなかった。だれかが、はっきり鳴らした音だった。
リディアは天井を見た。
見なかった、と言った人が、鳴らしていた。
*
リディアは、手のひらの石を見た。
赤い光にかざす。細い線が六本、走っている。
「ユアン」
「なんだ」
「これ、割る」
「は?」
ユアンが一歩出た。今度は前に出た。
「やめろ。追い払っただろ。もう終わったろうが」
「終わってない」
「終わったんだよ!」
「これが残ってたら」リディアは言った。「だれかが、またわたしに着ける」
ユアンの口が止まった。
母は着けるだろう。魔術院も着けるだろう。あの赤い目は着けさせておいて、事故で割れるのを待てばいい。十四年、そうしてきたのだから。
「起こすなら」リディアは言った。「わたしが起きてるときが、いい」
ネリが両手で口を押さえた。
「僕は賛成しない」テオが言った。「でも、数える」
「うん」
「六本のあいだ、僕はずっと外から数えてた」テオは言った。「七本目だけ、お前が中から入れる。……それは、たぶん、ちがうことだ」
リディアは石を両方の親指ではさんだ。
十四年、これは肌の下にあった。冷たくて、体温が移らなくて、いちども見ようとしなかった。
いまは、見ている。
力を通した。
通す、ではなかった。もう蓋はない。ふさぐものがどこにもない。
だからそれは、ただ手のひらへ流れこんだ。
七本目が走るのが、はっきり見えた。
六本のあいだを縫って、いちばん深いところまで、まっすぐに。
黒い石が、手のひらのなかで砂になった。
音は、しなかった。
*
体が、内から押し上げられた。
膝が笑って、リディアは床に手をついた。吐きそうだった。熱くはない。冷たくもない。ただ、なかでなにかが目をあけた。
ずっと眠っていたものが、まばたきをしていた。
もう寝ない。それだけがわかった。
「リディア」
ユアンの声だった。
リディアは顔を上げた。
「リディア。おい、リディア」
名前が、なんの引っかかりもなく出ていた。
探していない。思い出していない。ただ、そこにあるものを呼んでいた。
ユアンはそれに気づいて、そのまま座りこんだ。
「……出る」
「うん」
「くそ。出るじゃねえか」
「うん」
「なんで、いま出るんだよ」
ユアンは自分の顔を手のひらでおおった。
ネリが泣きながらリディアの腕を掴んだ。掴んで、離さなかった。
「消えないね」ネリは言った。「リディアちゃん、消えないね」
「うん」
「よかった」
よかった、で済むことではなかった。
それでもいまは、そう言ってもらいたかった。
岩のくぼみで、ミラが身を起こそうとしていた。
薄い腕がうまく岩をつかめない。それでも起きた。
名前は呼べない。三度目はない。この人はもう、そういう体だった。
ミラが口をひらいた。
「……そこに、いるね」
名前ではなかった。
名前ではないのに、呼ばれた気がした。
縁のほうで、布ずれの音がした。
ひざまずいていた人たちが、上を向くのをやめていた。四十一の顔がこちらを向いている。待っているのでも、拝んでいるのでもなかった。ただ、見ていた。
テオが炭を持ったまましゃがんだ。
「一行、書く」テオは言った。「なんて書く」
リディアは目を閉じた。
閉じても、明るかった。
「首飾りを外した日」
テオは、それを書いた。
書き終えてから、顔を上げた。
「来る」
「なにが」
「わからない」テオは言った。「けど、来る」
リディアは目をあけた。
空洞のむこう、裂け目のむこう、岩のむこう。暗がりのぜんぶが、いっせいにこちらを向いていた。
見られている。
十四年、だれにも見つけてもらえなかった。
いまは、ぜんぶに見つかっている。
リディアは、まだ砂の残る手のひらを握った。
こわかった。
それでも、目はそらさなかった。




