線の下を、見た
だれも、リディアに頼まなくなった。
半日ほど、そうだった。ここに朝はないから、半日というのもリディアが勝手に決めた長さだ。
水を回すとき、ユアンが自分の革袋を先に空けた。歩く順がいつのまにか入れかわって、リディアは三人のまんなかにいた。テオは数を言いつづけた。ネリは歌わなくなった。歌う必要がなくなったからで、それはいいことのはずだった。
いいことのはずだった。
縁の岩が崩れたのは、そのあとだ。
待っていた民がひとり前のめりに倒れ、その重みで縁の石がゆるんだ。上からひとかたまり落ちてくる。
リディアは指を上げかけた。
ユアンのほうが速かった。
肩で受けて、そのまま膝をついた。
「ばか」ネリが飛んできた。「なんで手じゃなくて肩なの」
「手をつぶすと剣が持てねえ」
「肩をつぶしても持てないよ!」
ネリの手から光がこぼれて、ユアンの肩に入っていく。今度はすべらなかった。塞ぐ傷が、ちゃんとあった。
リディアは上げかけた指を下ろした。
下ろした手のひらが、汗で冷えていた。
「ネリ」
「うん?」
「手、見せて」
ネリが両手をうしろへ回した。
それが答えだった。
「いつ」
「……さっきの岩のとこ。ちょっとだけ」
左の手のひらが赤くなっていた。皮が一枚めくれかけている。この子は自分の手には光を向けない。人の痛みばかり見ていて、自分のぶんは後回しにする。
「言って」
「言ったら」ユアンが横から言った。「お前、使うだろ」
空洞が静かになった。
テオだけが数を言いつづけていた。
「使うかどうかは、まだわからない」リディアは言った。「でも、知らないで使わないのと、知ってて使わないのは、ちがう」
ユアンは答えなかった。
「決めるのはいいの。決めたって、言って」
肩を押さえたまま、ユアンは下を向いた。
「守ってやるって言ったろ」
「うん」
「あれ、うそだって、自分でわかってた」ユアンは言った。「だから、せめて、減らさねえようにしてる」
リディアは、その言い方を知っていた。
やさしい人が、こわい話をこちらに聞かせないための言い方だった。十四年、いちばん近くで聞いてきた言い方だった。
母のやり方だ、とは言わなかった。言えばこの男は自分を責める。
かわりに、隣に座った。
「肩、貸して」
「はあ?」
「重いでしょ。片方だけ、貸して」
ユアンは黙って、体の重みをすこしだけリディアに預けた。
思っていたより、ずっと重かった。
*
石が、内から押された。
引かれたのではない。押された。
十四年、この石はいつも外へ引かれてきた。鐘に。地の底に。赤い目の男の声に。内側から押されたのは、はじめてだった。
リディアは胸を押さえた。
手のひらに、ごとん、と鈍いものが当たった。
そして、腹が鳴った。
空腹だった。
食べていないのは事実だ。けれどこれは、そういう空腹ではなかった。奥歯のうしろに唾がわいた。舌のわきが痛んだ。目の前の岩が、やわらかそうに見えた。
テオの手の紙が、おいしそうに見えた。
ネリの声が、おいしそうだった。
リディアは両手で口をふさいだ。
ふさいでも、目のうしろがひらいた。
乾いた土が見えた。どこまでも乾いていて、草の影も落ちていない。
空が低かった。低くなっていくところだった。蓋が下りるように、いちばん上が閉じていく。
閉じるまえに、白い光が走った。
まっすぐで、迷いのない光だった。
リディアはその光を知っていた。夜営で見た。廊下で見た。鐘楼の下で見た。いつもいちばん危ないところに立って、いちばん先に、まっすぐ来る光だった。
光は上を通った。
下を見なかった。
下には人がいた。顔は見えない。手だけが見えた。何百も、上へ伸びていた。伸ばしたまま、閉じた。
リディアの口が、勝手に動いた。
「しかしお前たちは平和を作ったのではない」
自分の声ではなかった。自分ののどだった。
「平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所を分けただけだ」
言い終えてから、リディアは口を手でふさいだ。
もう遅かった。
*
「リディア」
ユアンが立ち上がろうとして、肩を押さえてよろけた。
「いまの、なんだ。だれの声だ」
「わたし」リディアは言った。「わたしの、声」
答えてから、指が震えた。
岩のあいだでミラが身を起こしていた。名前を呼べない口が、しばらく動かずにいた。
「……それは」ミラは言った。「王の言葉だよ」
「うん」
「はじめて地上へ出た日に、王が言った。わたしたちはそれを何百年、繰り返してる」
リディアはうなずいた。
「言い返さないの」
リディアは膝の上で手を組んだ。
言い返す言葉を探した。ひとつも見つからなかった。
見つからないことが、いちばんこわかった。
「ほんとうだから」リディアは言った。
胸の石が冷たかった。
これを着けた人は、娘を守るために、娘を世界の見えない場所へ置いた。町は平和だった。教室も平和だった。その平和に見える場所のすみで、名簿の備考欄へ回された子がひとり、笑って大丈夫と言っていた。
リディアは石を握った。
握った手が、うまくひらかなかった。
「わかり合えとは言わないよ」ミラが言った。「言ったろ。わかり合うことは、許すことじゃない」
「許してない」リディアは言った。「ぜんぜん、許してない。おなかがすいてたからって、人を喰っていいわけがない」
「うん」
「でも」
リディアは顔を上げた。
「こわかったんだと思う。上にいた人が、下を」
ミラの落ちくぼんだ目が、はじめてまっすぐこちらを向いた。
「こわがるのは、かまわないんだ」ミラは言った。「こわいものを、いないことにしたのが、だめだった」
リディアは自分の手のひらを見た。
さっき、そこへ何百の手が伸びていた。
「見なかった、って言った人がいる」
ミラは黙って先をうながした。
「線を引くとき下を見たかって聞かれて、見なかったって答えた。見たら引けなかったから、って」
リディアは息を吸った。
「わたしは、線の下を、見た」
声は震えなかった。
「見たから、もう、引けない」
「気をつけな」ミラは言った。「見せたのは、あれだよ」
「うん」
「あれは、あんたに教えたんだ。……食べ方を」
*
目のうしろは、まだ閉じていなかった。
リディアは縁を見た。
ひざまずいた民の背から、細い糸が出ていた。
一本ずつ、床をつたって、赤い脈の底へ降りている。糸はときどき張って、張ったところの民が小さく揺れた。揺れるたび、その人の輪郭がすこし薄くなった。
あれは待っているのではない。取っている。ずっと取りつづけている。
「テオ」リディアは言った。「縁の人、何人いる」
テオが立って、左から右へ指を動かした。
「四十一」テオは言った。「昨日は五十二いた」
四十一本の糸だった。
リディアはそれを見た。見ながら、勝手に動きそうになる指を膝で押さえた。
ほどける、と思った。
ほどけると、わかってしまった。昨日の切れ目とおなじだ。線を見て、ほどけてと願えば、それで終わる。
終われば、一本入る。
「ユアン」
「言うな」ユアンが言った。「顔でわかる」
「見えるの」リディアは言った。「あの人たちから、糸が出てる。下につながってる。それで吸われてる」
「見えねえよ、おれには」
「うん。だから言ってる」
ユアンが立った。肩を押さえて、それでも立った。
「一回も使うなって言った」
「うん」
「聞けねえのか」
「聞いた」リディアは言った。「聞いたうえで、言ってる」
ネリがローブの裾を握っていた。テオは紙を持ったまま動かなかった。
「あいつら、敵だぞ」ユアンが言った。「王を待ってる。お前が壊れるのを、あそこで待ってるんだ」
「うん」
「なんで助ける」
「わたしを待ってるから」リディアは言った。「わたしがいなかったら、あの人たちは待ってない。……待たせてるのは、こっち」
ユアンの口が動いて、止まった。
「それに、食べさせることはできない」リディアは言った。「名前も呼べない。呼べば燃えつきる。……できるのは、これだけなの」
「一本だぞ」
「そう」
「そのあと、あと一本しかねえんだぞ」
「うん」リディアは言った。「だから、いま使う。のこり一本になったら、もう、助けるためには使えないから」
ネリが顔を上げた。
「……使って」ネリが言った。
「ネリ」
「わたしの手じゃ、あの人たちには届かない」ネリは言った。「治せないの。ずっと、治せなかったの。リディアちゃんの手なら届くなら、……ごめん、使ってほしい」
「僕も数える」テオが言った。「四十一人。使ったあと、何人残ってるか数える。減らなかったら、効いたってことだ」
ユアンが息を吐いた。長い息だった。
「……くそ」
剣を鞘に戻して、ユアンはリディアの前へ出た。
「おれが前に立つ。お前は、やれ」
*
リディアは留め金の内側に指をかけた。
外す、ではなかった。
蓋のふちの細いすきま。そこから力を通したことが、これまでに三度ある。
四度目だった。
息を吸って、通した。
また、世界がひらいた。
四十一本の糸が、はっきり見えた。細くて、乾いていて、根もとがひとりひとりの背の、肩のあいだに刺さっていた。
その向こうに、大きなものがあった。
名も形もない。目も口もない。ただ、ひらいていた。ひらいた場所へ、四十一本が吸いこまれている。
リディアは、そこを見た。
消えて、と願えば消える。昨日とおなじだった。芯の火を吹き消すように、それで終わる。
終わらせれば、この人たちはもう吸われない。かわりに、この人たちが待っていたものも、なくなる。
リディアは目をそらした。
糸に指を向けた。
「ほどけて」
四十一本が、いっぺんに切れた。
音はしなかった。かわりに、縁の空気がすっと軽くなった。ひざまずいていた背が、いくつも同時に伸びた。
ひとりが、はじめて振り返った。
落ちくぼんだ目がリディアを見た。何も言わなかった。言葉のかわりに、その人は自分の手を見た。自分の手がまだそこにあることを、確かめるみたいに。
こつん、と、胸のところで音が鳴った。
石の内側を、また一本、なにかが走った。
*
体が前へ落ちた。
テオが受けた。細い腕だった。それでも落ちなかった。
「四十一」テオが言った。「まだ四十一人。……減ってない」
リディアはうなずこうとした。首が重かった。
「おい」
ユアンの声が、すぐそばで止まった。
顔をのぞきこんだまま、目がリディアの上をすべっていく。
「……こいつ」
「ユアンくん?」ネリが言った。「ユアンくん、いま、なんて」
ネリの目も、探していた。
ふたりだった。昨日はひとりで、三つ息をするあいだだった。
テオがリディアの袖に手を入れた。
手帳を抜いて、ひらいた。
炭で書かれた名前が、そこに並んでいる。
「ユアン」テオが読んだ。「ネリ」
三つ目でテオの指が止まった。その行は、もう字の形をしていなかった。読める字がひとつも残っていない。だれの名前だったのかを、リディアは思い出せなかった。
テオは一拍おいて、その行を飛ばした。
「テオ。お母さん。……リディア」
ユアンの肩が跳ねた。
「リディア」
ネリが両手で口を押さえた。
「リディアちゃん。ごめん、いま、わたし」
「いいよ」
「よくない!」
「うん」リディアは言った。「よくないね」
テオが手帳を閉じて、リディアの袖へ戻した。
「思い出したんじゃない」テオは言った。「読んだんだ。……覚えとけ。読めば戻る。読むものがあるうちは」
リディアは袖の上から手帳を押さえた。
父の字だった。父の字の下に、自分で書いた自分の名前があった。
まだ、読める。
*
上で、鐘が鳴った。
一度ではなかった。
二度、三度と続いて、そのまま鳴りやまなくなった。にごってもいない。まっすぐでもない。押さえていた手が押さえきれなくなった音だった。
空洞の奥で、赤い脈が大きくうねった。
テオが縁を見て、それから上を見た。
「減らない」テオは言った。「縁の人が、ひとりも減らない」
「うん」
「あれは腹をこわしたわけじゃない」テオは言った。「ほかから取ってる」
リディアは上を見た。
岩と土のずっと向こう、坂の上に鐘がある。何百年ぶんの祈りが詰まっている。押さえている人が、ひとりいる。
四十一本を切ったら、あれはもっと大きいほうへ口を向けた。
助けた手が、また別のところを差し出していた。
「ミラ」リディアは言った。「六つ目、入った」
ミラは横になったまま目だけを動かした。名前を呼ばずに答えるやり方を、この人はもう覚えていた。
「……あと、ひとつ」
「うん」
「気をつけな」ミラは言った。「六つ入ると、留め金は、もう仕事をしてない」
リディアは石に触れた。
触れて、わかった。
ゆるい。
いつもは肌に貼りついていた石が、いま、指一本ぶん浮いている。首をかしげると、内側で小さく動いた。
これは、落ちる。
こらえきれずに、ではない。走ったとき。転んだとき。だれかにぶつかったとき。そういう、なんでもない瞬間に、するりと落ちる。
落ちれば七本目だ。
立ち上がるのが、こわくなった。
十四年、事故で外れることをおそれてきた。おそれてきたけれど、それは外れたら暴れるという恐れだった。いまはちがう。
最後の一本を、事故に取られる。
暴れることよりも、そのほうが、ずっと悪かった。
「ユアン」リディアは言った。「その上着、切っていい?」
「あ?」
「袖のところ。細く、長く」
ユアンは自分の上着を見た。剣術科の上着だった。魔法科へ移ってからも、ずっと着ていた。
なにも聞かずに、ユアンは短剣を抜いた。
布を裂く音が、空洞に響いた。
ネリが受け取って、震える手で結び目をつくった。石を胸の定位置に当て、その上から布を回して、背中で二度、しっかり結ぶ。
「きつい?」
「ちょうどいい」
ネリはもう一度結び直した。
「……ほどけないように、するね」
布はすぐ擦り切れるだろう。何日も持つものではない。
それでも、きょう、勝手に落ちることはない。
リディアは布ごと胸を押さえた。
布の下で、石はまだ熱かった。
「つぎに外れるときは」リディアは言った。
三人が顔を上げた。
「わたしが、外す」
上で、鐘が鳴りつづけていた。
押さえている人には、もう、押さえきれない。
リディアは坂の上を見た。見えるはずのない方角だった。それでも見た。
見なかった、と言った人が、いま、ひとりで鐘を抱いている。




