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七本でこわれる

ユアンの声は、もう声になっていなかった。


 息にかたちだけがついている。それを名前として押し出していた。


「リディア」


「うん」


 答えるたびに、リディアののども削れた。吸うと、乾いた空気がやすりのように通る。


 どれくらい経ったのかわからない。ここに朝はない。あるのは赤い脈の明滅と、テオの指だけだった。


 喋ることは、とうに尽きていた。


 ユアンははじめ、覚えていることを並べた。学校の廊下の床がどこで鳴るか。剣術科の教官の口ぐせ。町のパン屋が売れ残りを裏へ出す時刻。並べ終えると、また最初から並べた。二周目からは、順番が入れかわった。


 テオは数を言った。数だけは尽きない、と言って、ほんとうに数だけを言いつづけた。


 ネリは、途中から歌になった。


 学校の医務室で、痛がる子に看護の人が小さく歌っていた歌だった。歌詞はほとんど意味がない。だが歌はのどを喋るほど使わない、とネリは気づいたのだ。気づいて、それから、ずっと歌っていた。


「テオ」ユアンがかすれた声で言った。「その数、意味あんのか」


「ない」テオは言った。「意味がないから、いくらでも出る」


「……いい根性してんな」


「ほめてる?」


「ほめてねえ」


 リディアは笑いそうになった。


 笑うと息が要る。だから、やめた。


 やめてから、それがどんなに惜しいことか気づいた。この四人で、笑えるところまで来ていた。それを飲みこまなければならない場所にいた。


「五」


 テオが言った。


 縁のほうで、布が落ちるような音がした。ひざまずいていた民がひとり、前のめりに崩れる。


「また五だ」テオは言った。「詰まってない。……戻ってもいない」


 五つ数えるあいだに、ひとり。


 リディアがこらえているぶんを、あれは待っている人から取っていく。ゆるめれば、この人たちは取られずにすむ。ゆるめれば、この人たちごとそろってしまう。


 昨日わかったことが、今日はもう古かった。


「ネリ」ユアンが言った。


「うん」


「お前が喋れ。おれ、もう出ない」


「わたしも、あんまり」ネリは息を吸った。「でも、まだ出る」


 細い声だった。細くても、途切れなかった。


 リディアは自分の指を見た。震えている。


 声を出しつづけることは、こんなに単純に、こんなに早く終わるものだった。


 のどは四つ。五つ目はほどけかけている。


 あれには何百年あった。


     *


 においが来た。


 目より先に、リディアはそれを知った。


 乾いた土。焦げた夜営の草。雨のあとの石段。


 薄いことが役に立たないと知った夜のにおいだった。


「みんな、寄って」


 声がかすれた。それでも三人は動いた。


 裂け目の奥から、背の高い影が歩いて出てきた。


 輪郭のどこにも力みがない。顔のあたりで、赤い目がふたつ、まばたきもせずにこちらを見ていた。


 ユアンが剣の柄に手をかけた。かけたまま、抜いても意味がないという顔をした。


「久しいな」


 乾いた声だった。それは空洞を見まわした。


「ここは歩きやすい。……破れているところは、境がない」


 ミラが岩に手をついて立ち上がろうとして、できずにいた。


 赤い目がミラへ動いた。それだけだった。同じ側の者に向ける目ではなかった。


「壁の中では、外せと言った」


 赤い目がリディアに戻る。


「きょうは、言わない」


 それは歩きだした。


 攻めてこなかった。まっすぐ、リディアと三人のあいだを、ゆっくり横切っただけだった。


 壁は立たなかった。光もさえぎられなかった。ユアンの顔は三歩先にあって、口が動いていた。


 ネリの歌が、途中で切れた。


 切れたのではない。ネリはまだ歌っていた。口がその形に動いていた。


 音が、来なかった。


「ユアン」


 リディアは呼んだ。


 自分の声が、途中で落ちた。三歩先の床に落ちて、そこから先へ行かなかった。


 胸の奥で、手が入った。


 深かった。昨日のどれよりも深かった。


「越える者は」


 足を止めずに、それは言った。


「どこに境を引けばいいかも、知っている」


     *


 ユアンが線を踏み越えてきた。


 体は、通った。


 肩をつかまれた。ユアンの口がリディアの耳のすぐそばにあった。首の筋が張って、顔が赤くなるほど、この男は叫んでいた。


 なにも聞こえなかった。


 触れる手はある。届く声がない。


 リディアはユアンの上着を握った。握って、首を横に振った。


 ユアンの目のいろが変わった。わかったのだ。自分の声が、いま、この世界のどこにも出ていないことが。


 三人は、そこにいた。


 手の届くところにいて、こちらを見ていて、必死になっていて、それでも、いないのと同じだった。


 こういうことなら、知っていた。


 教室でずっとそうだった。人はまわりにいた。声も出ていた。ただ、こちらには届かなかった。あのころは、自分が薄いからだと思っていた。


 いま、それをわざと作る者がいる。


 作れるということは、あれは仕組みなのだ。だれかが引ける線なのだ。


 ネリがリディアの背に手を当てた。


 口が、大丈夫、の形に動いた。声はなかった。


 大丈夫ではなかった。それでも、その形だった。ずっとリディアが人に向けてきた形だった。


 息が上下する。吸って、吐いて、吸って。手のひらからそれだけが伝わってくる。


 のどはひらいた。息は続いた。


 それでも、手は抜けなかった。


 昨日テオが数えたとおりだった。触れているかどうかではない。呼ばれているかどうかだった。


 テオがしゃがんだ。


 指で、床の細かい砂に字を書いた。


 リ、と書いた。デ、と書いた。


 書き終えるまでのあいだに、手はもう一段奥へ入った。


 リディアは字を見た。テオも見た。


 テオの平らな顔が、はじめて歪んだ。


「遅い」


 声は聞こえない。口の形でわかった。


 書くのは、遅い。


     *


 ミラが立った。


 立てないはずの体だった。岩に爪を立てて、それを支えにして、線のほうへ半歩出た。


「だめ」


 リディアは言った。届かないと知っていて言った。


 ミラは越えた。


 破れているところを歩ける者だった。あの赤い目が引いた切れ目も、彼女には歩ける場所のひとつだった。


 越えた瞬間、ミラの輪郭が水に落ちた墨のようにひろがった。腕のかたちが半分なくなった。


 それでも、口をひらいた。


「リディア」


 届いた。


 胸の奥の手が、するりとすべった。


 息が入った。


 ミラは膝から落ちた。落ちたまま、起きなかった。落ちくぼんだ目だけが、まだこちらを見ていた。


 その目から、リディアは動けなかった。


 ユアンは、体だけが通った。ミラは、切れ目のなかを歩いてきた。だから、声もいっしょに通ったのだ。


 その声のぶんだけ、ミラがへっていた。


「……名前は」ミラの唇が動いた。「名前は、もう、呼べない」


 人の名前を冥族の口に入れて、そのまま返す。昨日、この人は一度それをした。いま、二度目をした。


 三度目は、ない。


「ほかの言葉なら、まだ」ミラは言った。「……名前は、もう」


 もう一度呼べば、この人は消える。


 消える、という言葉を、リディアははっきり思った。奪われるのでも、忘れられるのでもない。ここにいた形ごと、なくなる。


「呼ばなくていい」


 リディアは言った。


「もう、いいから」


 ミラは言い返さなかった。言い返さなかったということが、答えだった。


 リディアは石を握った。


     *


 外す、ではなかった。


 留め金の内側に、蓋のふちのような細いすきまがある。そこから力を通したことが、これまでに二度あった。


 通せば削れる。


 知っている。母のところで知った。両側から引かれたときにも知った。だから、それきり一度も通さなかった。


 のどでは足りない。手も足りない。書くのは遅い。ミラにはもう名前が呼べない。


 残っているのは、いちばん使ってはいけないものだけだった。


 リディアは息を吸った。


 それでも、と思った。


 すきまから、力を通した。


 世界がひらいた。


 岩のなかを走る水の筋が見えた。赤い脈が空洞のどこへつながっているかが見えた。ネリの手のひらのなかで震えている小さな熱が見えた。ユアンの胸で心臓が急いでいるのが見えた。


 線が見えた。


 空中に引かれた、ごく細いひとすじ。壁ではなかった。切れ目だった。そこだけ、声の落ちる穴があいていた。


 その向こうに、赤い目の男の胸が見えた。


 芯で、小さな火が燃えていた。


 消えて、と願えば、消える。蝋燭を吹き消すように、それで終わる。


 リディアは、その火を見た。


 見て、目をそらした。


 線に指を向けた。


 ほどけて、と思った。


 切れ目が、ふさがった。


 音が、いっぺんに戻ってきた。


「――ディア! おいっ、リディア!」


 ユアンの叫びが耳のすぐそばで割れた。鼓膜が痛かった。痛いほど近かった。


 ネリの歌が、途中の一小節から戻ってきた。


 胸の奥の手が、抜けた。


 胸のところで、こつん、と小さな音がした。


 石の内側を、なにかが一本、走った。


     *


 赤い目は追わなかった。


 リディアの膝が折れる。ネリが両手で受けた。


 上で、鐘が鳴った。


 だれも鳴らしていない。まっすぐでもにごってもいない、押されて出たような音だった。リディアのなかのものが呼びかえして、上のものがそれに答えたのだ。


 空洞の奥で、赤い脈が大きくうねった。


 名も形もないものが、また一つ身を起こした。


「三」


 テオが言った。


 縁で、また布の落ちる音がした。さっきまで五だったものが、三になっていた。


「リディア」


 ユアンがしゃがんで、顔をのぞきこんだ。


「無事か。おい。無事か……」


 そこで、止まった。


 ユアンの口が、あいたままになった。


 目が、リディアの顔の上をすべった。すぐ前にいるのに、探していた。


 三つ、息をするあいだだった。


「……くそ」


 ユアンは自分の額を手のひらで打った。


「くそ。いま、おれ」


「いいよ」


「よくねえ!」


 ユアンの声がひっくり返った。


「ずっと持ってた。手配書に絵がなくても、わかった。おれは、ずっと」


「うん」リディアは言った。「知ってる」


 知っていた。だから、痛かった。


「五つ目だ」


 乾いた声が、裂け目のほうから聞こえた。


 もう歩きだしていた。


 リディアは顔を上げた。


「もう、言わない」赤い目は言った。


「……なんで」


「お前が使うからだ」


 赤い目が一度だけこちらを向いた。


「だれかを助けるたび、ひとつずつ、お前がおれの代わりにやる。……いずれ、自分から。そう言ったはずだ」


 裂け目が、影を呑んだ。


 においだけが、しばらく残った。


     *


 リディアは石を服の外へ出した。


 十四年、つけていた。冷たい黒い石で、母がくれたお守りで、それ以上のことをいちども見ようとしなかった。


 赤い光にかざす。


 細い線が走っていた。


 一本。二本。三本。四本。


 五本。


 いま走ったばかりの一本は、ほかより浅く、色が明るかった。


 指でなぞって、リディアは気づいた。


 どれも、覚えのある日だった。


 ネリの前へ飛び出して、鎖が切れて石が宙に浮いて、影の騎士が音もなく消えた日。


 運ばれていく途中で、鐘に引かれて、石のほうが鎖から抜けた日。


 鐘に呑まれかけた母の背を、外さずに支えた日。


 乾いた手と冷たい手が同時に伸びてきて、そのどちらの手からも抜けた日。


 そして、きょう。


 五本とも、リディアがそこにいた日だった。


 だれかが忘れても、名前が薄れても、この石は覚えていた。ここに、いた。ここで、なにかをした。その証拠が、五本、刻んである。


 だから、こわかった。


 いた証拠が、そろっていく。


「ミラ」


 リディアは言った。


「これ、なに」


 ミラは床に横になったまま、目だけを動かした。答えるのに、ずいぶん長くかかった。


「……知ってる者は、こちらには多い」ミラは言った。「待っていたから」


「なにを」


「その線が、そろうのを」


 リディアは石を握りしめた。


「いくつ」


「七つ」ミラは言った。「七つ目が入ると、蓋はこわれる。ふたも、留め金も、ぜんぶ。中のものは、そこから先は、ずっと起きている」


 空洞が静かだった。


 テオが指を折った。折って、途中で止めた。数えるまでもなかった。


「あと、ふたつ」


 リディアは言った。


 声は震えていなかった。震えるより先に、体のほうが冷えていた。


 きょう、三人の声を取り戻すのに、一本使った。


 あと二本。


 言わないでおこう、という考えが、いちど頭をよぎった。


 言えば、この三人は助けを求めなくなる。危ないところで黙る。倒れても呼ばない。


 黙らせるのは、あれのやり方だった。


 そして、隠すのは、母のやり方だった。


 リディアは顔を上げた。


「聞いて」


 三人が顔を上げた。ミラの目も動いた。


「わたしの石に、線が五本ある。七本でこわれる」


 だれもすぐには喋らなかった。ネリが口を押さえた。ユアンは石を見て、それからリディアの顔を見た。


「言ってくれて、ありがとう」


 ネリだった。こんなときに礼を言う子だった。


「こわいよ」ネリは言った。「でも、知らないほうが、こわい」


 テオが石の五本目を見ていた。


「色がちがう」テオは言った。「新しいのだけ、明るい。……あとで、紙に写す」


「お前、忘れねえだろ」


「僕が忘れないのと、残るのは、別だ」


 テオはそう言って、リディアを見た。


「これは、お前が残したものだ。お前が数えないなら、僕が数える」


「あと、ふたつ」リディアは言った。「わたしが力を使えるのは、あと二回。……二回目で、こわれる」


「じゃあ一回だ」ユアンが言った。「……いや。一回も使うな」


「うん」


「守ってやる。おれが」


「うん」


 うそをつかない男だった。だから、いまのはうそだった。ユアンにもわかっていた。わかっていて言ったのだ。


 空洞の奥で、赤い脈がゆっくり上下していた。急いでいなかった。急ぐ理由がなかった。


 リディアは石を服の内側に戻した。


 肌に触れたところが、まだ熱かった。


 その上から、手を当てる。


 二本。


 名簿に名前を書きこむとき、いつも先に数を数えた。何人ぶん書くのか。だれが抜けているのか。ずっと、人を数えてきた。


 自分の残りを数えたのは、はじめてだった。


 いつ、だれのために使うかを、こちらが選べる。


 持っているのは、それだけだった。


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