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わたしの名前を、呼んで

膝から力が抜けた。


 石は握っていた。握っても意味がなかった。


 つかまれているのは石ではない。その奥だった。


 名前も知らないものを、手が探っていた。指を一本ずつ内側から広げてくるようだった。痛みとは少しちがう。開けられている感じだった。


「リディア」


 ユアンが剣を抜いた。赤い脈とリディアのあいだに、刃を横にして立てる。


 なにも起きなかった。


 斬るものがなかった。


 黒鳥の羽は、斬ればいちどはほどけた。ほどけて、また集まった。それでも、そこにはあった。これははじめから無い。


「……くそ」


 ユアンの手が震えていた。剣を十年握ってきた男の手が、なにを斬ればいいかわからずに宙で止まっていた。


 ネリがリディアの胸に手を当てた。


 やわらかい光が掌からこぼれる。光は肌の上をすべって、そのまま消えた。水に浮いた油みたいに。


「入っていかない」ネリの声が上ずった。「塞ぐ傷がないの。……あの子と、おなじだ」


 テオがしゃがんだ。指を折ろうとして、止めた。


「数えられない」テオは言った。「外から数えるものがない。……お前のなかは、見えない」


 手伝って、と言ったのだった。


 言えば届くわけではなかった。


     *


 手がまた奥へ入った。


 リディアは奥歯を噛んだ。声を出せば、あいた口から入られる気がした。だから息を止めた。


 肩が固くなる。指が石に食いこむ。世界をできるだけ小さくして、そのなかで耐える。


 いつもの、やり方だった。


「リディアちゃん」


 ネリの手がリディアの背に触れた。


「息、してないよ」


「さっきから数えてる」


 テオの声が低かった。


「お前のなかは数えられない。でも、いつ来るかなら、数えられる」


 リディアは顔を上げた。


「あの夜と、おなじだ」テオは言った。「鐘が鳴って、名前が落ちた夜。落ちたのは、音と音のあいだだった」


 覚えていた。テオのその数えが、あの夜、四人を歩かせた。


「手が入ってくるのは、だれも喋ってないあいだだ」テオは言った。「ユアンが怒鳴ったとき、止まった。ネリが息を数えたとき、ゆるんだ。お前が黙って我慢しはじめると、すぐ来る」


 テオは赤い脈のほうを見た。


「さっき、五つ数えるあいだ、だれも喋らなかった。そのあいだに、いちばん深く入った」


 リディアは口をあけた。


 なにを言えばいいのかわからなかった。だから、いちばん近くにあるものを言った。


「ユアン」


 声はかすれていた。


 それでも、胸の奥の手がいっしゅんすべった。


 止めた。


 すぐに戻ってきた。さっきより深く。


 わかってしまった。


 黙って、こらえる。


 それがずっとリディアのやり方だった。大丈夫と笑って口を閉じる。怒るところで黙る。痛いところで黙る。班からあふれた朝も、備考欄に回された夜も、そうやってしのいできた。


 いちばん得意なことが、いちばんあけてはいけない戸だった。


     *


「その戸のことなら、すこし知ってる」


 うしろの岩のあいだから声がした。


 土と雨と、嗅いだことのないにおいの風が来た。


 ユアンが振り返りざまに剣を構えた。


 痩せた影が裂け目から出てきた。乾いた古い声。地の底のいちばん底で、通気の穴のずっと下から聞こえた声。


「待って」リディアは言った。「この人は、なにも奪わない」


「冥族だぞ」


「うん」リディアは言った。「でも、いちども、なにも」


 薄明のミラだった。


 ちがう、とすぐに思った。


 外縁の火のそばで見た姿より、ずっと薄かった。輪郭の内側で、岩の赤い光がすけている。声も、ときどき言葉のまんなかが抜けた。


「どうして、そんな」リディアは言った。


「ここは、境が薄いんじゃない」ミラは言った。「破れかけてる。……破れてるところを歩くと、こっちも、すこし、ほどける」


「じゃあ、なんで来たの」


「ほかに、通れる者がいなかったから」


 ミラはそれきり、その話をやめた。


 リディアの前にしゃがむ。落ちくぼんだ目が赤い光を映していた。


「あなたを薄くしたのは、その石」ミラは言った。「でも、あなたを喰いやすくしたのは、石じゃない」


「……なに」


「呼ばれなかった時間」


 リディアは息をのんだ。


「あなたは、どくのがうまい」ミラは言った。「呼ばれない子は、うまくなる。じぶんから、へって、うすくなって、どく。……どくと、うしろのものが、いちばん前に出る」


 どく。


 邪魔にならないほうがいい。


 ずっとそう思ってきた。どいて、へって、いなくなって。それがやさしさだと思っていた。


 だからこらえて黙るほど、じかに手が届いた。


 自分がいなくなるほど、あれに近かった。


     *


 縁のほうで乾いた音がした。


 ひざまずいていた民がひとり、前のめりに崩れた。となりの者は見向きもしなかった。


 リディアは袖から手帳を出した。


 父の手帳だった。空いた行に、いちど、冥族の子の名前を書いたことがある。書いて、二度、呼んだ。


 あの人たちも、呼べば。


「呼んじゃだめ」


 ミラの手が手帳の上に置かれた。


「こちらとそちらは、ちがう火で燃えてる」ミラは言った。「あなたの名前は、呼ばれると燃える。……あの子らの名前は、呼ばれると燃えつきる」


「……なんで」


「飢えてるから」ミラは言った。「腹の空いた火に風を送るようなものだよ。いっぺん明るくなって、それで終わり」


 リディアは手帳を閉じた。


 閉じるのに、指が動かなかった。


 目の前で人が涸れていく。呼べば、もっと速く涸れる。持っているたったひとつの手が、あの人たちには毒だった。


 縁の民のうち、幾人かが顔をこちらへ向けた。


 王を待つ顔が、はじめて王のほうからそれた。


 ミラを見ていた。


「見られてる」リディアは言った。


「うん」ミラは言った。「王が帰る日に、王の帰りを止めに来た冥族だ。……今日から、わたしには帰るところがなくなる」


「そんな」


「わかってた」ミラは言った。「話すって、そういうことだよ」


     *


 そのとき、胸の奥で音が鳴った。


 耳ではなかった。空気は震えていない。ユアンもネリもテオも顔を上げなかった。


 リディアのなかだけで、それは鳴った。


 鐘だった。


 にごっていなかった。


 ずっとひびの入った音で鳴っていたあの鐘が、まっすぐな音でいちど鳴った。


 押さえていた手が、離れた音だと思った。


 そうとしか、思えなかった。


 何百年ぶんの祈りに蓋をしていた両手を、いちどはなして。この、いちばん下まで届く音を鳴らした人がいる。


 見てる、と母は言った。そらさない、と。


 届かないはずだった。声も光も五歩手前で止まる人だった。それが届いていた。


 胸の奥の手がするりと抜けた。


 息が入った。


「リディアちゃん、いま」


「うん」リディアは言った。「お母さんが、鳴らした」


 ネリの顔が明るくなりかけて、止まった。


 空洞の奥で、赤い脈が大きくうねったからだ。


 名も形もないものが、身をまた一つ起こした。


 テオが上を見た。


「……いまの音で、下のものが起きた」


 上の音と、下のもの。ばらばらだった三つが、鳴るたびに近くなる。


 母が鳴らすたび、リディアのなかは静かでなくなる。手は入れない。


 けれど鳴るたび、下のものが一つずつ起きる。


 母はそれを知らない。


 娘のなかへ届かせることしか考えていない。


 やめて、と言いたかった。


 声は坂の上まで届かなかった。


 いちばん危ない助けが、いちばんやさしい手から来ていた。


 鐘が二度目を鳴らした。


 手がまた抜けた。


 赤い脈がまたうねった。


 テオが指を折った。


「二回」


 三度目が来る前に、とリディアは思った。


 鐘ではない音がいる。


     *


 リディアは顔を上げた。


 三人がいた。ミラがいた。


 言わなければならなかった。ずっと言わずにきたことを。


 名簿を書いた。人の名前を覚えた。忘れられた名前を呼び直した。ここにいる、と、知らない人にまで言ってきた。


 ぜんぶ、呼ぶ側の仕事だった。


 呼ばれる側になるのがこわかった。呼んでもらえるのを待って、来なかった朝をたくさん知っていた。待たなければ裏切られない。だから、いつも先に呼ぶ側へ回った。


 いま、それではたりなかった。


「あのね」


 声が震えた。


「わたしの名前を、呼んで」


 だれも笑わなかった。


「切らさないで」リディアは言った。「わたしが黙ると、入ってくるの。……わたし、黙るのがうまいから。だから、だれか、ずっと」


 ユアンが先に言った。


「リディア」


 短かった。飾りもなかった。


 それきり、ユアンの口が止まった。


 喋る男ではなかった。稼ぐ、と言って前に立つ男だった。剣で稼げないとわかったとき、この男の手には、なにも残らないはずだった。


 ユアンは前を向いたまま、耳まで赤くして、言った。


「……くそ。なに喋りゃいいんだ」


「なんでも」テオが言った。「音がしてれば、なんでもいい」


 ユアンは息を吸った。


「リディア。お前は、班分けのとき、いちばんうしろで立ってた」


 声が、大きすぎた。


「俺は、気づかなかった。いたのか、って言った。お前は、大丈夫、って笑った。あれ、大丈夫じゃなかっただろ」


 胸の奥で、手が、すべった。


「手配書に、絵がなかった。字だけだった。それでも俺は、お前だとわかった。俺は、お前の名前を、ずっと持ってた」


 うまくなかった。順番もばらばらだった。


 それでも、途切れなかった。


 この男は、いま、生まれてはじめて、口で稼いでいた。


 ネリがリディアのとなりに膝をついた。


 リディアののどは、もう、渇いていた。声を出そうとすると、途中でつかえた。


「吸って」ネリが言った。「わたしの息に、あわせて」


 小さな手が、リディアの背に置かれる。


 ネリの息が、ゆっくり上下した。


 治せない手だった。塞ぐ傷のないものには、なにもできない手だった。


 でも、この手は、息を止めた人を、もういちど吸わせることができた。


 吸う。吐く。吸う。


 のどがひらいた。


「わたしは」リディアは言った。「……リディア。リディア・アークライト」


 自分の名前を、自分で言った。


「そう」テオが言った。「四つ。ずっと四つだ」


 声が重なって、途切れて、また重なった。


 胸の奥が静かでなくなった。


 手が入るところを探していた。探して、見つからずにすべった。


 ユアンの声が先にかすれた。


 乾いた場所だった。声はすぐに吸われた。ふたり、三人と、順にのどが渇いた。


 その、切れかけた継ぎ目に、ミラが口をひらいた。


「……いいの」ミラは言った。「わたしは冥族だよ。あなたの名前を、口に入れることになる」


 リディアはミラを見た。


 こわくない、とは言えなかった。


「こわい」リディアは言った。「……でも、呼んで」


 ミラはしばらく黙っていた。


 それから、乾いた古い声で言った。


「リディア」


 名前は燃えた。


 喰われなかった。


 冥族の口が人の名前を呼んで、そのまま返した。


 鐘は、三度目を鳴らさなかった。


 坂の上の人に、ここの声が聞こえるはずはなかった。それでも、やんだ。


 娘のなかがもう静かではないと、遠くて、届かなくて、両手のふさがった人が、それだけはわかったのだ。


 見てる、と言った人だった。


 そらさない、と言った人だった。


     *


 手が止まった。


 抜けたのではなかった。押し返したのでもなかった。


 ただ、止まった。


「引いたの」ネリが小さく言った。


 テオが赤い脈を見ていた。


 いつもの平らな声が、平らではなかった。


「ちがう」テオは言った。「……待ってる」


「なにを」


「おれたちが、黙るのを」


 空洞が静かになった。


 待たれている、とわかった。


 のどは四つしかなかった。五つ目は、ほどけかけた冥族のものだった。声は乾く。人は眠る。喋りつづけられる人間はいない。


 あれは待てる。割られてから何百年も待っていたものだった。


 縁でまた乾いた音がした。


 テオが指を折りなおした。


「さっきまで、ひとり倒れて、つぎまで十を切ってた」テオは言った。「いま、五だ」


 速くなっていた。


 リディアがゆるめないから、取れないぶんを、待っている人たちから取っていた。


 こらえるほど、あの人たちが速く涸れる。


 呼べば、もっと速く燃えつきる。


 助ける手が、両方とも、殺す手だった。


 止め方は、まだなかった。


 立って拒むだけではたりなかった。呼ばれつづけるだけでもたりなかった。ひとつわかったのは、黙ったら負けるということだけだった。


 リディアは息を吸った。


 ネリの息が、まだ、背にあった。


 乾いた空気がのどを削った。


 それでも、先に口をあけた。呼ばれる側になったから、もういちど呼ぶ側へ戻れた。


「ユアン」


 ユアンが前を向いたまま答えた。


「おう」


 声が、続いた。


 空洞の奥で、名も形もないものは動かなかった。


 あれには、時間があった。


 こちらには、四つののどしか、なかった。


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