楽に、なりたかった
空洞のいちばん奥で、大きなものが身を起こしかけていた。
まだ、かたちはなかった。名前もなかった。赤い脈のむこうで、山がゆっくり寝返りを打つように、それは動いた。動くたびに、空気が内から押された。リディアの肺のなかまで押された。
リディアは、その口に立っていた。逃げも隠れもしない、と昨夜決めた。決めたとおりに、立っていた。
でも、立っているだけで、なにかがまちがっていた。
立っていると、それが近づいてきた。
攻めてくるのではなかった。爪も牙もない。ただ、リディアがそこに静かに立っているほど、赤い脈は、こちらへ、こちらへと寄ってきた。石が下へ引かれ、留め金の内側で跳ねた。
いるだけで、呼んでいた。
昨夜、母の鐘の下で体で悟ったことだった。器は、まんなかにいるだけで両方を呼ぶ。動かずにいることが、いちばん危ない。
その意味が、いま、足の裏からのぼってきた。
止まっていても呼んでしまう。逃げても呼んでしまう。どこにいても、この身が器だった。
「リディアちゃん」
うしろで、ネリの声がした。震えていたが、消えては、いなかった。
「みんなの息、聞いてる。……四つ、まだ、四つ」
テオが、指を折る音がした。
「四つ」テオも言った。「抜けてない」
リディアは、うなずいた。声に出せなかった。出せば、赤い脈が口から入ってきそうな気がした。
*
縁に、飢えた民が、ならんでいた。
もう、下りてはいなかった。ふちにひざまずいて、赤い光のほうへ顔を向けて、待っていた。祈るように両手をあわせている者も、いた。だれも、声を立てなかった。ただ、待っていた。王の、帰りを。
その、待つ姿を、リディアは、見た。
ひらいて、待っている。
口を、あけて。手を、あわせて。ひたすら、なにかが満たしてくれるのを、待っている。
——それは、いま、自分が、なるように求められている姿だった。
「あんた」
すぐ横で、声が、した。
枯れ葉のような声。ゆうべ、坂の途中で、となりに並んだ、あの老いた冥族だった。落ちくぼんだ目が、赤い光を映して、こちらを見ていた。
「呼ばれて来たんじゃない、と、あんたは言った」
「うん」
「決めて来た、と」
「うん」
老いた冥族は、うなずいた。それから、赤い脈のほうへ、あごをしゃくった。
「なら、決めるといい。ここまで来たら、あとは、らくだよ」
リディアは、その顔を、見た。
「力を、ぬくだけだ」老いた冥族は言った。「あんたが、ふっと、手をゆるめれば、いい。石を、外すんじゃない。こらえるのを、やめるだけ。そうすれば、そろう。そろえば、王が、帰る」
「……」
「王が帰れば」老いた冥族は、縁の民を、見た。「あの子らの腹も、満ちる。あんたが、ずっと、こらえてるせいで、みんな、飢えたまま、待ってる。あんたが、ゆるめれば、みんな、たすかるんだよ」
リディアの指が、石の上で、こわばった。
ちがう、と、言いたかった。
でも、言葉が、すぐには、出てこなかった。
なぜなら、その声は、ずっと、自分のなかにも、あった声だったから。
*
こらえるのを、やめる。
たったそれだけで、いい、と、その声は言った。
石を、引きちぎる必要も、ない。力を、撃つ必要も、ない。ただ、ずっと張っていた糸を、ふっと、ゆるめる。眠るときみたいに。息を、はくときみたいに。
そうすれば、この、重い体が、軽くなる。
リディアは、その軽さを、想像してしまった。
ずっと、こわくても、笑ってきた。大丈夫、と、言ってきた。名前を、忘れられても、備考欄に、回されても、荷物として、番号を書かれても——ずっと、こらえて、立っていた。
その糸を、ゆるめられる。
もう、こらえなくて、いい。
もう、探されなくて、いい。見つけてもらえなくて、いいのだと、怖がらなくて、いい。いなくなるのだから。いなくなれば、忘れられるのが、こわいことでは、なくなる。
そして——器としてなら、はじめて、要る。
学校の、班分けの朝。名前が、次々に飛んで、そのなかに、自分のは、なかった。いつも、ひとり、余った。誰かが、しかたなく、入れてくれるのを、待った。
ここでは、余らない。
この身は、三つのうちの、ひとつだった。欠けたら、そろわない、ひとつ。はじめて、要るものに、なれる。ゆるめて、ひらいて、満たされる器に、なれば。
楽に、なりたかった。
ほんとうに、そう思った。ずっと、そう思っていたのかもしれない。邪魔にならないほうが、いい。いっそ、いないほうが。そう思うことで、こらえてきた。
石が、じん、と、鳴った。
リディアのまぶたが、下がりかけた。
「リディア」
*
ユアンの声だった。
短く、乱暴で、いつもの声だった。
リディアは、目をあけた。ユアンが、前に立っていた。赤い脈と、リディアのあいだに、剣を鞘ごと横にして。
「ぼうっと、すんな」ユアンは言った。「なんか、呼ばれてる顔してた」
「……ごめん」
「あやまるな」ユアンは、赤い光をにらんだ。「いいか。あの声を、聞くな。おれの声を聞け。おれは、うまいこと言えねえ。でも、うそも、つけねえ。だから、おれの声のほうが、ほんとだ」
うしろで、テオが言った。
「四つ」
まだ、数えていた。三つの音がひとつになろうとする、この場所で。テオは、四つの命を、一つずつ指で折って、たしかめていた。抜けていないか。まだ、いるか。
ネリが、リディアのとなりに、そっと寄った。手は、握らなかった。かわりに、自分の胸に手をあてて、息を、ひとつ、ふたつと、口の形だけで数えてみせた。
「いっしょに、して」ネリは言った。「わたしの息に、あわせて。……そうしたら、止まらないから」
余る、と、さっき、思った。
でも、ここには、余っている人が、いなかった。
三人が、来た。帰り道の、ふさがった場所まで。だれにも、助けてもらえない場所まで。しかたなく、ではなかった。だれも、リディアを、班に、余らせなかった。
ゆるめれば、みんな助かる、と、老いた冥族は言った。
でも、この四人は。ゆるめたら、どうなる。
いなくなるのは、自分だけでは、なかった。うしろの三人も。三つの音がそろう、その音のまんなかで、いっしょに。
助けるために、ゆるめる。それは、ゆうべ、母が命がけで隠した道だった。あなたは、自分から外そうとする。そういう子だから。母は、それだけは、させないと言った。
いま、わかった。母がこわがっていたのは、剣でも、赤い目でもない。この、やさしい顔をした誘いに、娘が、自分からうなずくことだった。
*
リディアは、石を、握った。
外さなかった。ゆるめも、しなかった。
張っていた糸を、もう一度、握りなおした。指が、痛いくらいに。
「らくには、ならない」リディアは言った。
声が、震えた。それでも、老いた冥族のほうへ、顔を、向けた。
「あんたの言うとおり、楽になりたかった。ずっと。……ゆるめて、いなくなれば、こわいことは、ぜんぶ終わる。みんなも、たすかるっていうなら、なおさら」
老いた冥族は、なにも言わずに、聞いていた。
「でも」
リディアは、縁の民を、見た。ひざまずいて、王を待つ、乾いた人たちを。
あの人たちは、待っている。満たしてくれる、なにかを。ずっと、ずっと、待って、涸れていく。待つことしか、教わらなかった人たちだった。
自分も、そうだった。誰かが、入れてくれるのを、待っていた。班に。名簿に。世界に。
「待って、ひらいて、満たされるのを、器だっていうなら」リディアは言った。「わたしは、そういう器には、ならない」
石を握る手に、力をこめた。
「器なら、器のままで、いい。わたしのなかに、なにかがあるんでしょう。それは、もうわかった。逃げない。それは、引き受ける。……でも、からっぽにして、待ったりは、しない。なにを容れて、なにを容れないかは、わたしが決める。勝手には、容れさせない」
言い終えて、息を、吸った。
赤い脈が、いっしゅん、止まったように、見えた。
*
止まったのは、いっしゅんだった。
次の瞬間、赤い光は、これまでとは、ちがう動きを、した。
石を、引くのを、やめた。
かわりに、リディアの胸の、もっと奥へ——石の裏の、もっと深いところへ、じかに手を伸ばしてきた。
息が、詰まった。
石を外そうとするのなら、まだ、わかった。留め金を握って、こらえられた。でも、これは、ちがった。石を通り越して、その奥の、名前も知らないものへ、じかに手を伸ばしてくる。取っ手を握っても、意味がなかった。つかまれているのは、取っ手の、向こう側だった。
「っ……」
膝が、折れかけた。
ユアンの腕が、とっさに、背を、支えた。
「おい」
「だい、じょうぶ」リディアは言った。だいじょうぶでは、なかった。石を握る、握らないの話では、もうなかった。この身のいちばん奥を、じかに呼ばれていた。
ゆるめる、ゆるめないの、外側に、敵は手を伸ばしてきていた。
拒んだから、だった。ひらいて待つ器に、ならなかったから。だから、待つのをやめて——じかに、取りに来た。
これが、代償だった。
こらえるのを、やめなかったことの。
*
縁のほうで、小さな音が、した。
乾いた、崩れる音。
ひざまずいて待っていた民のひとりが、前のめりに、倒れた。倒れて、起きなかった。となりの者は、見向きも、しなかった。ただ、王のほうを、待っていた。
「テオ」リディアは、かすれた声で、言った。「いま、あの人」
「奪われたんじゃ、ない」テオは、静かに言った。「待ってるうちに、燃えつきた。あの、茶屋の子と、おなじだ。……呼ばれないまま、涸れた」
縁のむこうで、また、乾いた音が、した。もうひとり、崩れた。
テオが、指を、折りなおした。
「さっきから、数えてる」テオは言った。声が低かった。「ひとり倒れて、つぎまで、はじめは二十くらい、あいだがあった。いまは、十を切った」
口のなかが、乾いた。
間隔が詰まっていた。待っている人が燃えつきるまでの時間が、短くなっていた。源が、目を覚ますほど、待つ者から速く吸い上げていた。
「あの人たち」ネリが、両手で口をおさえた。「待ってれば、たすかると思って……」
「待ってても、たすからない」テオは言った。「でも、動くことも知らない。ずっと、待つようにされてきたから」
リディアは、その乾いた人たちから、目をそらせなかった。
この人たちは、救われるために待っている。でも、待っているそばから涸れていく。王は、帰らない。帰っても、腹は、満ちない。オルガの言った、とおりだった。正しさは、いっぺんも、腹に入らない。そして、待つことも——たすからない。
ゆるめても、たすからなかったのだ。この人たちは。
ゆるめて、王が帰っても、この乾いた人たちは、満たされずに、涸れつづける。老いた冥族の言った「みんな、たすかる」は、うそだった。うそというより、その冥族自身が、そう、信じたかっただけの、祈りだった。
だから、ゆるめないことは、まちがっていなかった。
でも——ゆるめなければ、じかに、手を伸ばされる。
立っていても、呼ぶ。逃げても、呼ぶ。ゆるめれば、みんなごと、そろってしまう。ゆるめなければ、奥を、じかに、取りに来られる。
どこにも、出口が、なかった。ずっと、そうだった。石を、外しても、外さなくても。ここに、いても、いなくても。
*
リディアは、うしろを、ふりむいた。
三人が、いた。
ユアンは、前に。テオは、数えながら。ネリは、息を、聞きながら。だれも、逃げていなかった。だれも、余っていなかった。
立って、拒むだけでは、たりない。それは、もう、わかっていた。この身は、いるだけで、呼ぶ。拒むだけでは、じかに、取りに来られる。ここから、どうやって、止めるのか——その答えを、リディアは、まだ、持って、いなかった。
でも。
ひとつだけ、思い出しかけていた。
あの、通気の穴の、向こうの声。いちばん弱くて、いちばん薄くて、泣いていた時間に、聞いた声。——薄いのは、消えるためじゃない。まだ、外していないのね。
弱かった時間に、教わったものが、あった。ひとりで立っている、いまでは、思い出せない。でも、この、みんなと、いっしょになら。
「ねえ」リディアは言った。声が、まだ、震えていた。
「わたし、ひとりじゃ、たりない」
はじめて、そう言えた。
「たりないから。……手伝って。みんながいた時間に、わたしがなにを教わったか。思い出させて」
ユアンが、ふん、と鼻を鳴らした。前を向いたまま。
「やっと、頼ったな」
テオが、指を折った。
「四つ」テオは言った。「ずっと、四つで数えてる。お前も、そのひとつだ。……いちども、余らせてない」
ネリが、リディアの手を握った。今度は、離さなかった。
赤い脈のいちばん奥で、名も形もない大きなものが、また一つ身を起こした。胸の奥の、あのじかに触れてくる手が、また伸びてきた。三つの音が、もうすぐそこで、ひとつになりかけていた。
でも、いまは、ひとりではなかった。
その音のまんなかで、リディアは、たりない自分を、はじめて、かくさずに、みんなのなかに置いた。
止め方は、まだなかった。
でも、探す人が、ここにいた。自分を入れて、四つ。




